第06話「ささやかな祝宴と、もどかしい距離」

 森を救った領主とその謎めいたパートナー。アキラとカイの噂は、あっという間に領内に広まった。

 最初は得体の知れない獣人として遠巻きに見られていたカイも、今では領主様を支える頼もしい存在として、領民たちから尊敬と親しみの目で見られるようになっていた。

 屋敷に戻り、数日間の休養を経てすっかり回復したアキラは、その夜、ささやかな祝宴を開くことを提案した。


「今回は、二人とも本当によく頑張ったからな。たまには、パーッとやろうじゃないか」


 アキラはそう言って、腕によりをかけてご馳走を準備した。

 祝宴といっても、参加者はアキラとカイの二人だけ。

 食卓には、じっくり煮込んだ肉のロースト、彩り豊かな温野菜のサラダ、そしてカイの故郷の郷土料理をアキラなりに再現してみた魚介のスープが並んだ。

 カイは、物珍しそうにテーブルに並んだ料理を見ていた。

 以前のように心を閉ざしていた彼なら、こんな席には決してつこうとしなかっただろう。

 だが今の彼は、アキラの隣の椅子に、少し緊張した面持ちながらも、きちんと座っていた。


「さあ、まずは乾杯しよう。森の再生と、俺たちのパートナーシップに」


 アキラが果実酒の入ったグラスを掲げると、カイもおずおずとグラスを持ち上げた。

 カチン、と心地よい音が響く。

 一口飲んだ果実酒は、ほのかに甘く、疲れた体に染み渡った。


「……おいしい」


 カイが、ぽつりと感想を漏らした。


「本当か? よかった。料理の方も、口に合うといいんだが」


 アキラがそう言うと、カイは黙って魚介のスープをスプーンですくった。そして、ゆっくりと口に運ぶ。

 その空色の瞳が、かすかに見開かれた。故郷の味、とまではいかなくても、どこか懐かしい風味がしたのかもしれない。

 カイは何も言わなかったが、その日は、出されたスープを一番に、そして綺麗に平らげた。

 そのささやかな事実が、アキラには何よりの賛辞に思えた。

 食事は、穏やかな雰囲気の中で進んだ。美味しい食事とお酒に、自然と二人の顔にも笑みがこぼれる。

 以前よりずっとリラックスしたカイは、アキラからの質問に、ぽつり、ぽつりとではあるが、自らのことを話すようになった。

 獣人の村で過ごした子供時代の思い出。森で木の実を採ったり、川で魚を捕ったりしたこと。厳しい自然だったけれど、そこには確かな家族の温もりがあったこと。

 そして、人間たちに村を焼かれ、奴隷として売られたこと――。

 辛い過去を話す時、カイの表情は固く、声は途切れがちになった。

 アキラは黙って、彼の言葉に耳を傾けた。決して急かしたり、無理に聞き出そうとはしなかった。

 ただ、カイが言葉に詰まると、「そうか、大変だったな」と、その痛みに寄り添うように相づちを打った。

 カイが全てを話し終えた時、彼の目にはうっすらと涙が浮かんでいた。誰かに過去を打ち明けたのは、これが初めてだったのかもしれない。

 アキラはそっとハンカチを差し出した。


「話してくれて、ありがとう、カイ。君の辛い過去も、これからは俺が半分背負う。だから、もう一人で抱え込まなくていい」


 カイは黙ってハンカチを受け取り、俯いて目元を押さえた。その小さな肩が、かすかに震えている。

 アキラは、そんなカイの姿をどうしようもなく愛おしいと思った。

 抱きしめて、慰めてやりたい。君はもう一人じゃないと、伝えてやりたい。

 だが、できなかった。

 洞窟での一件以来、アキラはカイへの恋心をはっきりと自覚していた。日に日にその想いは募るばかりで、彼の何気ない仕草一つ、言葉一つに、心がかき乱される。

 しかし、カイの壮絶な過去を知った今、この想いを告げて良いものだろうか。

 彼は、人間によって深く傷つけられた。やっと少しだけ心を開いてくれたというのに、俺が恋愛感情という、ある意味で身勝手な欲望をぶつけてしまったら、彼はまた心を閉ざしてしまうのではないか。

 俺が彼に与えているこの居場所は、恋愛感情という見返りを前提とした、偽りの優しさだと思われてしまうのではないか。

 そう思うと、アキラは怖くて一歩を踏み出せなかった。

 カイを失いたくない。この穏やかな関係を壊したくない。その思いが、アキラに重い枷をはめていた。


 一方、カイもまた、アキラに対してこれまでに感じたことのない感情を抱いていた。

 アキラが向けてくれる、優しい眼差し。自分を守るために、迷いなく身を挺してくれる強さ。そして、時折見せる、少し寂しそうな笑顔。

 そのすべてが、カイの心を温め、そして締め付けた。

 アキラに与えられたこの温かい居場所は、まるで陽だまりのようだ。

 もっとここにいたい。彼のそばにいたい。彼が自分に向ける特別な眼差しの意味を、確かめたい。

 そんな期待が、カイの心の中に芽生え始めていた。アキラが自分の髪を撫でた時の、あの優しい手つきを思い出すだけで、胸の奥がきゅんと高鳴る。

 けれど、カイもまた、その先の一言を口にすることができなかった。

 自分は元奴隷で、汚れた獣人だ。アキラは立派な領主様。住む世界が違いすぎる。

 それに、もしこれが自分の勘違いだったら? アキラの優しさに甘えすぎて、彼の迷惑になっていたら?

 そう思うと、怖くて、アキラの気持ちを確かめることなどできなかった。

 今のこの心地よい関係が、自分の浅はかな行動で壊れてしまうことだけは、絶対に避けたかった。


 お互いを想い、大切に思うがゆえに、あと一歩が踏み出せない。

 二人の間には、手を伸ばせば届きそうなほど近く、けれど見えない壁が存在していた。

 祝宴の料理はすっかり冷め、グラスの中の果実酒も残りわずかになっていた。


「……そろそろ、お開きにしようか」


 アキラが、少しだけ寂しさをにじませた声で言った。


「……うん」


 カイも、小さな声でうなずいた。

 本当は、もっと一緒にいたい。もっと話をしたい。

 けれど、その先をどう続けていいのか、二人とも分からなかった。

 もどかしい沈黙が、静かな部屋に落ちる。

 お互いの視線が絡み、そして、慌てたように逸らされる。

 そんなことを繰り返しながら、二人のもどかしい夜は、静かに更けていくのだった。

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