コメを探して三千里

 異世界に転生し、冒険者として俺はそこそこの成功を収めていた。剣の腕は立ち、魔法も人並み以上に使える。仲間にも恵まれ、金にも不自由はない。だが、心の奥底にはいつも、埋めようのない空虚な穴が空いていた。


 その正体は、郷愁。もっと言えば、日本食への渇望だった。


 このハイファンタジーな世界は、とにかく食文化が貧相だった。焼いただけの筋張った肉、硬く渋い木の実、味のない芋。人々は生きるためにそれを腹に収めるだけ。旨味も、香りも、彩りもない。俺の魂は、醤油の焦げる匂いを、炊き立ての白い米の甘さを、味噌汁の温かさを求めて叫んでいた。


「俺は旅に出る。米を探しに行く」


 ギルドの酒場で仲間たちにそう告げると、皆は呆れた顔をした。「ルナヨミ、正気か?」「米? なんだその食い物は」「くだらないことで命を張るな」。彼らの忠告はもっともだった。だが、俺の決意は揺るがない。魂の飢えは、命の危険よりも優先された。


 旅は困難を極めた。南へ向かうほど土地は痩せ、人の住む集落もまばらになっていく。行く先々で「米」について尋ねれば更に南へ進めばあるかもしれないと言うだけ。やがて、ある集落の境で道を塞ぐように座っていた老人が、皺だらけの顔を上げた。


「これ以上進むのはやめろ。この先は常世の国。生きた人間が立ち入る場所ではない」


 だが俺は別の旅人から聞いていた。その禁断の地の先に、伝説の穀物があると。俺は一計を案じ、老人に旅の苦労話を聞かせて油断させ、その隙に結界のように張られた注連縄を潜り抜けた。背後で老人の怒声が聞こえたが、振り返らなかった。


 老人の言葉は真実だった。空は鈍色に淀み、木々は禍々しくねじくれていた。名状しがたい姿の化け物が闇から現れ、冒険者として鍛えた俺の剣技と魔法をもってしても、常に死と隣り合わせの戦いを強いられた。気候はめまぐるしく変わり、灼熱の風が吹いたかと思えば、凍てつく吹雪が視界を奪う。


 食料はとうに尽きた。体力も、精神も、すり減って限界だった。猛吹雪の中、俺はついに膝をついた。ああ、こんな所で、故郷の味も知れずに死ぬのか。薄れゆく意識の中、遠くに、ぽつんと灯りが見えた気がした。


 気づくと、俺は温かい室内にいた。簡素だが清潔な家の一室で、柔らかな布に寝かされていた。


「お気づきになりましたか」


 優しい声に顔を向けると、穏やかな笑みを浮かべた女性が座っていた。長く艶やかな黒髪、慈愛に満ちた瞳。自分が生きていることに安堵し、俺は彼女に助けられたことを知った。


「ウケモチと申します。旅の方、さぞお疲れでしょう。何か温かいものを差し上げますね」


 そう言って彼女が差し出してくれたのは、木の椀に入った具沢山の汁物だった。獣の出汁だろうか、深く、そして優しい香りが鼻腔をくすぐる。飢え切った俺は、夢中でそれを口に運んだ。


 その瞬間、全身に衝撃が走った。


 汁の中に、ふっくらと、つややかに輝く、白い粒。口に含んだ瞬間、噛みしめるほどに広がる優しい甘み。


「……こ、め……?」


 涙が、後から後から溢れて止まらなかった。これだ。俺がずっと求めていた、魂の味。故郷の記憶が奔流のように蘇り、俺は子供のように泣きじゃくった。ウケモチは何も言わず、ただ静かに俺の背を撫でてくれた。


 一杯をあっという間に飲み干し、俺は震える声で告げた。


「おかわりを、お願いできませんか」


「ええ、すぐに。お待ちくださいね」


 ウケモチはにこやかに笑い、厨(くりや)へと姿を消した。しかし、しばらく待っても彼女は戻ってこない。待ちきれなくなった俺は、そっと厨を覗き込んだ。


 そして、見てしまった。


 ウケモチが、空の椀を構え、自身の尻から、あの白く輝く米粒を、ひり出しているのを。


 理解が追いつかなかった。脳が焼き切れるような感覚。あの至福の味は、この女の排泄物だったのか。過酷な旅で極限まで張り詰めていた神経の糸が、ぷつりと、音を立てて切れた。


「―――ッッ!!」


 獣のような雄叫びを上げ、俺は腰の剣を引き抜いていた。背後から斬りかかられたウケモチは、何が起きたか分からないという顔で、ゆっくりとこちらを振り返り、そして崩れ落ちた。


 血の匂いが室内に満ちる。俺は荒い息を吐きながら、自分がしたことの重大さに震えていた。


 俺の眼の前で、にわかに信じられない光景が広がった。


 ウケモチの亡骸から光の粒が溢れ出したかと思うと、その腹からは稲が、頭からは稗が、そして四肢からは大豆や小豆が、次々と芽吹き豊かな穀物となって床を満たしていったのだ。


 呆然と立ち尽くす俺の背後でいつの間にか、あの集落の老人が立っていた。


「……よくやった。お主でなければ、この大業は成せなかった」


 老人は静かに告げる。


「ウケモチは、この世界を創った神の一柱。豊穣の女神よ。だが、その力を解放するには、一度その命を絶つ必要があった。そして神を殺せるのは、この世界の因果に縛られぬ者だけ。――異世界の魂を持つ、お前のような者でなければ、神殺しはできんのだ」


 老人の言葉が、俺の脳髄をかき乱す。俺が米を求めたのも、常世の国に足を踏み入れたのも、すべては、この瞬間のために? 俺の望郷の念は、神を殺し、この世界に五穀をもたらすためだけに、用意された筋書きだったというのか。


 俺は持ち帰るべき穀物の穂を虚ろな目で見つめ、そして、天を仰いだ。


「ああああああああああああああああッッ!!」


 自分の運命を呪う慟哭だけが、常世の国に響き渡った。







 <完>

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