誤算
川のせせらぎと、時折梢を揺らす風の音だけが聞こえる。
男――レンは、釣竿の穂先から伝わる微かな振動に全神経を集中させていた。陽光が水面で砕け、きらきらとレンの瞳を焼く。瞼を細め、浮きの僅かな動きも見逃すまいと息を詰める。
異世界に赤子として転生してから、早20年。
前世の記憶は鮮明だ。ディスプレイの光で目を痛め、カフェインと高揚感で睡眠を削り、指先が擦り切れるほどキーボードを叩いた日々。MMORPG『アークスフィア・オンライン』において、彼はサーバーの頂点に君臨する廃人プレイヤーだった。膨大な知識、最適化されたビルド、コンマ1秒を争う操作技術。彼が死んだ時、ひとつの伝説が終わったとさえ言われた。
その伝説の男を、この世界に誘った女神がいる。
突如、穏やかな川辺に神々しい光が満ちた。水面が黄金に染まり、風が止む。レンは億劫そうに顔を上げた。光の中心から、絶世の美女が憤怒の形相で降臨する。
「レン! 我が選んだ魂よ!」
鈴を転がすような美声には、隠しきれない苛立ちが滲んでいた。
「お久しぶりです、女神様」
レンは気のない返事をし、視線をすぐに水面へと戻した。その態度がさらに女神の怒りを買った。
「20年だ! お前に新たな生と、前世の記憶という利を与えてから20年が過ぎた! なのにその様は何だ! レベル13! 職業、釣り人! そこらのゴブリンにすら苦戦するではないか!」
女神の叱責は続く。
「お前は、あの『アークスフィア・オンライン』で神とまで呼ばれた男! その知識と経験を使い、この停滞した世界を活性化させる救世主となるはずだった! 魔王の兆候も現れているというのに、川で糸を垂れて20年を無駄にするとは!」
「無駄じゃありませんよ」
レンは静かに、しかしはっきりと答えた。
「今、ちょうど時合いなんです。それに、この『月光イトウ』は警戒心が強くて、大きな音は禁物だ」
「貴様ッ……!」
レンはゆっくりとリールを巻き、一度仕掛けを回収すると、女神に向き直った。その目は、昔ゲームのボスを前にした時と同じ、真剣そのものだった。
「女神様、あんたは勘違いしている。俺は確かにゲームに人生を賭けていた。寝食を忘れ、友との約束を反故にし、現実の全てを捧げた。……なぜなら、あれは『遊び』だったからです」
「遊びだと……?」
「そう。俺にとって前世のアークスフィアは人生そのものだった。でもここでは本当の人生になってしまっている。最初にスライムと戦った時に気づいたんですよ。たくさんの人と切磋琢磨しながらデータ解析し、寝食を忘れて試行錯誤できたのも、安全圏からそのスリルと達成感を味わえたからこそ。だから夢中になれた」
レンは自分の手を見つめる。節くれだった、生身の手だ。
「でも、ここは違う。腹を殴られれば本気で苦しいし、剣で斬られればおびただしい血が出る。死ねば、それで終わり。そんな現実で、誰が好き好んで寝る間も惜しんでボス狩りなんてします? 肉体をいじめ抜き怪我や死の危険に身を晒すなんて、それは遊びじゃないし、ゲームでの苦行とまったく違うものですよ」
女神は言葉を失った。彼女の神としての理屈では、彼の言い分が理解できなかった。与えられた力を、栄誉を、なぜ振るわないのか。
「でも、見つけたんですよ。この世界での、俺が人生を賭けられる『遊び』を」
レンは愛おしそうに自分の釣竿を撫でた。
「この釣り、とんでもなく奥が深い。ゲーム時代は魚種だけコンプリートしたらそこから先はもう誰も見向きもしなかったサブコンテンツでしたが、こっちでは全部がリアルだ。数百を超える魚の種類、季節、天候、時間帯、地形、無数の餌とルアーの組み合わせに地域でのクセ……。極めるべき要素は、それこそレイドボス討伐なんかより遥かに多い」
彼の目は、遠い日と同じように輝いていた。
「今、俺は幻と言われる『深淵の主』を追っている。誰も釣り上げたことのない伝説の魚だ。そのための情報収集、道具のビルド、そして最適なタイミングを計るための20年だった。あんたに言わせれば無駄な時間だろうが、俺にとっては最高の準備期間でしたよ」
「せ、世界の危機が……この世界が活性化しなければやがて色を失って滅ぶのだぞ! お前のその川とやらも無事では済まないのだぞ!」
女神が最後の説得を試みる。
だが、レンはもう彼女を見ていなかった。彼は新しい餌を針につけ、完璧なフォームで竿を振りかぶる。
「そうですか。それは大変ですね」
しゅるる、と糸が空を切り、仕掛けが水面に美しい波紋を描いた。
「……おっと、今、アタリが来た。静かにしてください」
レンは再び水面の一点に全神経を注ぐ。
その横顔は神々の計画も、世界の命運も、何一つ映してはいなかった。ただ、まだ見ぬ大物への情熱だけが、静かに燃えている。
呆然と立ち尽くす女神を置き去りにして、世界で最も自分勝手な救世主候補は、今日もゲームに没頭するのだった。
<完>
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