第二話:『荒ぶる者の徒、言の葉もなく伏し沈む』

この時代、氣術はもはや神秘のベールに包まれたものではない。  

呼吸法によって身体能力を底上げし、五感を研ぎ澄ます技術は、スポーツやビジネスの場でも広く一般に浸透している。だが、だからこそ「格差」は残酷なまでに可視化されるようになった。  

正しく氣を練れる者と、そうでない者の間には、かつての努力だけでは決して埋まらない溝が生まれてしまったのだ。


「……勘解由小路、もう一本、お願いできるか」


放課後のグラウンド。陸上部のエース、佐藤が肩で息をしながら俺の前に立った。  かつての俺と同じ、ストイックなまでに自分を追い込む男だ。だが、彼の氣は焦りのせいでささくれ立ち、筋肉にうまく浸透していない。


「佐藤くん。……そんなにがむしゃらに氣を回しても、逆効果やわ。身体の中の回路(ルート)が渋滞しとる」


俺は烏の濡れ羽色の髪を後ろで一つに結び直し、彼の手首を軽く掴んだ。  

勘解由小路家に伝わる、最も効率的な氣の循環。それを、ほんの少しだけ彼の経絡に流し込んでやる。


「……っ、あ。温かいのが、通った……?」


「それが正解のルート。まずはその感覚を忘れないことやね。……努力は、正しい土俵に立ってからするもんや。毎日十分歩くとか、ラジオ体操を欠かさないとか、氣の場合は正しい氣の経路を知覚すること、そうすれば氣は自分の味方になってくれるんやで」


俺の言葉に、佐藤は神妙な顔で頷く。  

前世の俺には、こんな風に教えてくれる奴はいなかった。だからこそ、今目の前で足掻いている奴には、少しだけショートカットを教えてやりたいと思ってしまう。


「ありがとう、勘解由小路。お前、本当に女みたいに綺麗なのに、中身は誰よりも武闘派だよな」


「……最後の一言、余計やわ」


俺は苦笑いを浮かべ、部室へ向かう彼を見送った。    ――さて、平穏な学校生活はここまでだ。


校舎の裏門を出てすぐの裏路地。  そこには、俺の指導を受けている佐藤のような「努力する者」とは対極に位置する連中が溜まっていた。


「おい、勘解由小路。今日も『お稽古』お疲れさん」


他校の制服を崩して着た、四人の男たち。  

彼らもまた、氣術の恩恵を受けている。だが、その力は自己研鑽のためではなく、他人を威圧し、略奪するために使われていた。彼らの氣は濁り、重く、腐った泥のような匂いがする。


「……わざわざ待っててくれたん? おおきに。でも、今日は梓と約束があるさかい、急いどるんや」


「はっ、女中に甘えるお坊ちゃんがよ。お前のその自慢の髪、引きちぎられたくなかったら、家の真剣の一本でも持ってこいよ。あれ、マニアの間じゃ億で売れるんだろ?」


一人がニヤつきながら、俺の長い髪を掴もうと手を伸ばす。    

瞬間、俺の中のスイッチが切り替わった。    

鏡の前で紅をさし、梓に髪を整えてもらっている時の「お嬢様」ではない。  

死の淵で女神と契約し、理不尽な世界に抗う力を得た「俺」の顔。


「……触らんといて。それと、うちの宝を道具扱いするのは、感心せえへんな」


相手が手を伸ばし切るより早く、俺は一歩踏み込んだ。  

下駄ではない、学校指定のローファーがアスファルトを噛む。    

氣を練り、一瞬で爆発させる。 それは佐藤に教えたような「効率的な循環」ではなく、破壊に特化させた「鋭利な衝撃」。    

ボッ、という空気が弾けるような音がした。   「が、はっ……!?」    鳩尾に拳をめり込ませた。力任せではない。氣の密度で相手の防御を透過し、内部を直接揺らす。  

言葉を失った男が、崩れ落ちる。   「お、お前……っ!」    残りの三人が一斉に氣を昂ぶらせ、殴りかかってくる。  だが、その動きは俺の目には止まっているに等しい。    

一人目の腕を掴み、その勢いを利用して二人目の顔面に叩きつける。  三人目の回し蹴りを最小限の動きでかわし、その軸足を軽く払う。    

ドサリ、という重い音が路地裏に四つ重なった。   「……氣を練るんは、自分を高めるためや。人を傷つけるために使うんなら、そんなん宝の持ち腐れやわ」    

俺は乱れた制服の襟を整え、フードを深く被り直す。  倒れ伏す彼らは、もう声も出せない。氣の回路を一時的に遮断してやった。明日には元に戻るだろうが、しばらくはまともに歩くことも難しいはずだ。  

「お疲れ様でございます、悠斗様。……少々、お時間が押しておりますね」    

路地の出口に、いつの間にか黒塗りの車が止まっていた。  

梓がドアを開けて待っている。「……堪忍、梓。ちょっと掃除に手間取ったわ」    

車内に滑り込み、ふかふかのシートに身を預ける。  

窓の外に流れる京都の夕景を眺めながら、俺は再び「勘解由小路悠斗」の微笑みを取り戻した。    

明日からは、また東京への遠征が待っている。  あそこには、こいつらよりももっと厄介な「淀み」が溢れているはずだ。


「梓、新幹線の中では寝かせてぇな。……ちょっと、氣を使いすぎたわ」


「承知いたしました。……本日の夕食は、山形の郷土料理を取り寄せてございますよ」


「……! 気が利くわぁ、梓は」


 故郷の味を思い浮かべ、俺は少しだけ、今世の幸せを噛み締めた。

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濡れ羽色の境界(さかい) ―勘解由小路悠斗の平穏なる日常― うどんが好きなNegi @UdonGasuki

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