第一話:『紅さして、ゆかりの色の衣まとう』
勘解由小路家の朝は、静寂から始まる。
広い屋敷の廊下を、足音を立てずに歩く。これは技術というより、五歳から叩き込まれた所作の結実だ。
足裏にかける重心を常に一点に留めず、流れるように氣を逃がす。そうすれば、古い鶯張りの廊下ですら、俺の歩みを咎めることはない。
「おはようございます、お父様」
奥座敷に入ると、そこには一幅の絵画のような光景があった。
庭園の緑を背景に、文机に向かう父・景明。その横顔は、四十を過ぎているとは到底信じられないほどに若々しく、そして――ひどく美人だ。
俺と同じ烏の濡れ羽色の髪を後ろで緩く結い、薄灰色の着物を着こなす姿は、初見の者なら間違いなく「高貴な奥方」と見紛うだろう。
「悠斗か。……おはよう。今日の氣の巡りは、殊の外(ことのほか)に澄んでいるね」
父が顔を上げ、細められた瞳が俺を捉える。その視線は優しいが、同時に俺の全身を巡るエネルギーの密度を瞬時に見抜いている。
「ええ。早朝のラジオ体操が効いたんやと思います。……あれ、意外と体の軸が整うさかい」 「ふふ、お前が熱心に続けている例の奇妙な舞い(・・)だね。まあ、お前がそう言うのなら間違いはないのだろう」
父は満足げに頷くと、傍らに置かれた文箱から一通の手紙を取り出した。
「さて、悠斗。来週、少しばかり東京へ足を運んでもらいたい。郊外にある、我が家と縁の深い祠がいくつかあるのだが、最近どうもその周囲の氣が重いという報告があってね。……遊びがてら、掃除をしてきておくれ」 「……東京、ですか。あそこは人が多すぎて、少々疲れはるんですけど」
口ではそうこぼしながらも、内心では(よし、東京観光の口実ができた)と前世の俺がほくそ笑んでいる。京都の静謐さも好きだが、たまには都会の雑多なエネルギーに触れるのも、修行としては悪くない。
「梓を付ける。お前の『趣味』についても、彼女には許可を出してあるから。……羽を伸ばしてくるといい」
趣味、という言葉に、俺は少しだけ頬を染めた。父は、俺が休日に女装をして街に出ることを「美しいものが、その美しさを愛でる。何らおかしなことはない」と全肯定している。
この美貌至上主義というか、浮世離れした感覚は、勘解由小路の血のなせる業(わざ)だろうか。
――数時間後。 自室に戻った俺の前には、梓が用意した「装備」が並べられていた。
「悠斗様。本日は、このアンティークの小紋(こもん)になさいますか? それとも、少し大人びた訪問着を崩して召し上がりますか?」 「……小紋でええよ。今日は四条をぶらぶらしたい気分やし」
梓の細やかな手つきによって、俺の肉体は変貌を遂げていく。
胸元に補正を入れ、帯を締め、着崩れしないよう完璧に仕立てられる。背中まで流れる濡れ羽色の髪は、今日はあえて結わずに下ろし、耳の横に紅い花飾りを一つだけ挿した。
最後に、梓が筆を手に取り、俺の唇にほんの少しだけ紅をさす。
「……完成です、お嬢様」 「梓、その呼び方、外(と)だけにして言うてるやろ」
鏡の中にいたのは、自分でも見惚れるほどに凛とした、京の美少女だった。
中性的な声は、わずかにトーンを整えれば鈴を転がすような鈴鳴りへと変わる。 (……俺、マジでどこへ向かってんだろうな)
鏡の自分に心の中で庄内弁のツッコミを入れつつ、俺は重い桐の下駄に足を差し込んだ。
カラン、という小気味よい音が、屋敷の玄関に響く。
外に出れば、京都の陽光が俺を祝福するように降り注いだ。
一歩、街へ踏み出す。すれ違う観光客が、あるいは地元の若者が、俺の姿を見た瞬間に息を呑み、視線を釘付けにする。
この視線は、前世では一度も浴びることのなかったものだ。
四条大橋を渡る頃には、背後に三人の男がついてきていることに気づいた。
氣術で広げた知覚範囲(センサー)が、彼らの下卑た興奮と、隠しきれない欲望を鮮明に描き出している。
「なあなあ、お姉さん! これから暇? 京都、案内してよ」 「その着物、めっちゃ似合ってるね。モデルさん?」
きたきた。
俺は「私」の仮面を崩さず、扇子を口元に当てて、はんなりと微笑んでみせた。
「……おおきに。でも、あいにく連れを待っとるさかい。堪忍な?」
柔らかく、けれど明確な拒絶。普通ならここで引き下がるはずだが、東京から来たらしい彼らは、俺の予想以上にしつこかった。
「そんなこと言わずにさ。ちょっとお茶するだけでいいから!」
一人が俺の腕を掴もうと手を伸ばす。 その瞬間。
俺の脳裏に、前世で自分を跳ね飛ばしたトラックの理不尽な鉄塊がフラッシュバックした。
――他人の領域を、断りもなく侵すな。
俺の「氣」が、一瞬で鋭利な刃へと変じる。
下駄の音を一度。
カラン、と乾いた音が鳴った時、俺の身体は既に男の懐に入り込んでいた。 「……触らんといて。汚れはるから」
柔術の理合。力を抜いて、相手の重心をそのまま虚空へと流す。
男は自分が何に投げられたのかも理解できないまま、石畳の上を無様に転がった。 周囲の喧騒が、一瞬だけ止まる。
俺は乱れた裾(すそ)を優雅に整え、濡れ羽色の髪をさらりと揺らして、立ち尽くす残りの男たちを見上げた。
「……次は、もう少しお行儀ようしはった方がええよ。京都の神様は、案外短気やからね」
勝ち誇るわけでも、怒鳴るわけでもない。
ただ、圧倒的な美しさと、それに見合わない「冷たい暴力」の予感に、男たちは蛇に睨まれた蛙のように硬直していた。
俺は再びカランと音を立て、優雅に歩き出す。
努力は報われるかどうかなんて知らない。
けれど、この新しい身体と、この美しい日常を。
誰にも汚させはしない。
「……梓、見てた?」 「はい。見事な足さばきでございました、悠斗様」
路地裏に控えていた梓が、影のように寄り添う。
俺たちはそのまま、午後の陽光が溶ける京都の街へと消えていった。
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