プロローグ 東の果てに身を横たえ、京の朝に息づくこと


努力は報われる。  

そんな言葉を吐く奴がいたら、俺はそいつの面を拝んでやりたい。  

どんな顔をして、どんな風に育ったら、そんな無責任な戯言(ざれごと)を信じられるのか。


山形、鶴岡。  

冷たい風が吹き抜ける二月の夕暮れ。陸上部の練習を終えて、部室裏で一人残って走り込んだ帰り道だった。  

肺が焼けるような痛みを、俺は心地よく感じていた。あと一秒。あとコンマ一秒削れば、あの化け物じみたライバルの背中に手が届く。

そう信じて、俺は毎日、泥を啜(すす)るような努力を積み重ねてきた。


信号は、青だった。  はずなのに。


視界の端から、暴力的な質量が飛び込んできた。  急ブレーキの悲鳴。  肉が潰れ、骨が砕ける嫌な感触。  空が回った。

アスファルトに叩きつけられた瞬間、俺の意識は不思議なほど冷静だった。    あ、これ死ぬな。


そう思ったのと同時に、奇妙な違和感があった。  自分の足が、見えない。いや、視界を少し動かした先に、自分の一部だったはずのものが、自分とは関係のない場所で転がっていた。  断絶。  

十七年かけて鍛え上げてきた俺の身体は、鉄の塊に跳ねられただけで、これほどまでに呆気なく、無残に分かたれてしまった。


(……ふざけんなよ。俺の練習、全部、パーかよ……)


言葉にはならなかった。ただ、冷たいアスファルトに広がる自分の血が、黒い闇に溶けていくのを眺めていた。  努力なんて、一瞬の不条理の前には何の意味もなさない。  

それを思い知らされたのが、俺の一度目の人生の終幕だった。


はずだったんだが。


「……目覚めましたか、幸運なる魂よ」


 気がつくと、俺は真っ白な空間にいた。  目の前には、言葉を失うほどに美しい「女神」が立っていた。  

彼女は俺の絶望を見透かしたように微笑み、いくつかの問いを投げかけ、そして一つの約束をくれた。  

不条理に奪われた命の代わりに、新しい生と、それを守るための「力」を授ける、と。


 ――それから、どれほどの月日が流れただろうか。


「悠斗様。……悠斗様、お召し替えのお時間でございます。本日も、美しい朝でございますよ」


耳を打つ、鈴の音を転がしたような静かな声。  

まぶたを開けると、そこにあったのは山形の雪空ではなく、洗練された「京」の朝だった。


俺はゆっくりと身を起こす。

布団から出た自分の手を見る。白く、透き通るような肌。指先まで神経が行き届いた、繊細な、けれど内に凄まじい「氣」を秘めた肉体。  

そして、肩から胸元へと滑り落ちたのは、闇を凝縮したような漆黒の髪。  

烏の濡れ羽色。  

勘解由小路(かでのこうじ)の名を継ぐ者にのみ許される、高貴なる色の証だ。


(……ああ。そうだ、俺はもう、死んだんだっけな)


心の中で、今はもう使うことの少なくなった庄内弁が独り言(ご)ちる。  

一度失ったはずの身体。それが今、この花の都で、かつての自分とは全く別の、けれど確固たる意志を持った「勘解由小路悠斗」として息づいている。


「……梓、入ってもええよ」


口から出たのは、十七年間の教育で身についた、たおやかな京言葉。  

戸が開くと、そこにはいつものように凛とした佇まいの従者、佐伯梓が控えていた。彼女の手には、今日のために選ばれた、品の良い和服が載せられている。


「よくお休みになれましたか?」 「ええ。夢を見とったわ。……少し、懐かしい、冷たい風の夢」


鏡の前で立ち上がる。  身長は175センチ。細身だが、一歩踏み出すたびに下肢から全身へと氣が循環し、地面を掴む感覚が伝わってくる。  

前世でどれほど望んでも手に入らなかった「完璧なバランス」が、今の俺にはある。


梓が俺の背後に回り、濡れ羽色の長い髪に丁寧に櫛(くし)を入れる。  一筋の乱れもなく整えられていく髪を眺めながら、俺は静かに思う。


不条理は、もう御免だ。  

努力が報われるチャンスがあるなら、俺はそれを絶対に逃さない。  

この雅な貌(かたち)の下に、誰よりも鋭利な牙を隠して。


「悠斗様。本日は、剣術の稽古の前に、お父様がお呼びです。……何やら、東京での『点検』の話があるようで」 「おとんが? ……分かったわ。すぐ行くさかい」


東の果てで朽ちかけた命は、今、京の朝に新生した。    

俺の名は、勘解由小路悠斗。  

烏の髪を靡かせ、下駄を鳴らして。  

二度目の人生、平穏なる日常を勝ち取るための戦いが、また今日から始まる。

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