第16話「手順は歌(終)」
——起床手順、完了。
カプセルの蓋が、内圧の均衡がほどけるように、音もなく引いていく。冷気は薄く、霜はやわらかい。白い花は咲かない。ただ、無数の微粒子が朝の光で浮き、ゆっくり沈む。胸腔に入ってくる空気は、長い遠回りの末に戻ってきた水に似ている。手首のタグを持ち上げる。そこに数字はない。窓のように空白があり、ゼロの輪郭だけが、指でなぞると指に触れる。
艦窓の外は、青い球が一つ。雲の渦が遅い。湾曲した海岸線は、見慣れないのに見慣れていて、白い光が水面のどこかで破れ、縫い直されている。地球。ENDという四文字が壁紙に紛れて消えた朝、タグはゼロに戻り、窓には地球がある。
ハッチが順に開き、廊下の角が生き物の肋骨のようにリズムを刻む。虚無区画の扉——笑い声も、幼い声も、来ない。来ないという情報が、今朝は音楽の休符になって、金属の壁をやわらかくする。
居住区の掲示板は、最初の日に見たような、しかし違う光を返した。乗員名簿。初期の名簿のまま——完全。ユウト、ミナ、マルタ、ベラ、ソラ、リラ、ヴァルド、ジン。空白は無い。消された名も、追加の斜線も、注意書きも、霜花の印も、どこにもない。だが、カイの席だけが、やはり空だった。空であることが、今は欠落ではなく、台座のように見える。座面に一枚の紙が置かれている。角がきっちり揃い、矢印の始点が指で何度も撫でられた跡を持ち、文字は色褪せていない。短句/沈黙/自己矛盾/二者逆説/紙。それから、その下に小さく、短いほど遠くへ/最初ほど柔らかい/最後ほど痛まない。紙は、ここに残っている。人ではなく、癖が、ここに残っている。
食堂。砂時計。透明筒。黒板。端末の列は青い静脈のように壁を走り、UIは昨夜の姿のまま立っている。上段の沈黙の円、中央の短句欄、右の自己矛盾欄、下段の二者逆説と反駁。**“つまり”**のボタンは冷却で青い影のまま、句点は落ちる。その儀式は、解除されることを待っている。だが、ユウトは艦長席の革に手を置き、解除の指示を選ばなかった。背中で、革の呼吸が一拍分だけ深くなり、落ち着く。
「解除しない」ユウトは短句で言った。言葉を無駄に増やさない。「このまま。地上へ送」
ミナが白衣の袖口を整え、低く頷く。「医官は儀式を処方。処方、退院後も継」
マルタは指で水曲線を空中に描き、ベラは床の音程を確かめるように椅子の足を押し直した。ソラはカイの席の紙に指先で触れ、三秒数えてから手を離す。リラは紙束を整え、ヴァルドの名前の前に小さな親指の印を描いて、「漂」とだけ呟いた。名簿は完全、記憶は完全でない。完全にしなくてよい。完全は甘い。甘は孤立の餌。甘さを紙に釘打ちし、場には過程だけを流す。
ユウトはCAPのランプを見ないで、端末の送信モジュールを開く。送信先は地上の受信網——軌道ステーションの標準回線、地上の通信衛星、管制、教育機関、自治体、防災、中継ノード。宛先は人ではなく、場。場に道具を送る。
件名を打たない。件名は結果の匂いがする。代わりに、本文の先頭に短句を置く。
——宇宙の議論は、物語でなく手順で守れ。
その下に、UI設計と儀式の説明が並ぶ。沈黙タイマー、短句欄、自己矛盾欄、二者逆説、反駁、紙出力。“つまり”冷却。句点落下。掲示。共同署名。錨は人ではなく癖に刺すこと。結果は紙に打ち付けて、場には過程だけを流すこと。空の予測が結果だけを食べる捕食者であること。過程は噛みづらく、歌にすれば噛めないこと。
送信の前に、ユウトは一文を足した。語尾は落とす。
——沈黙を休符に、短句を歌詞に、逆説をハモリに。
送信。
AIが、機械の乾きではない、ほんのすこし湿り気を含んだ声で応答する。
「了解。手順を歌と定義。形式:譜面。儀式:合奏。記録:スコア。導入:カウント。沈黙:休符」
沈黙タイマーは拍になり、画面の円がメトロノームに変わる。左右に振れる棒の先に小さな光が灯り、一、二、三、四——拍の合図は器を選ばず伝わるように、低い音で床へ、柔らかい光で壁へ、風の痕跡で髪へ届く。短句欄は歌詞になり、今/ここ/まだ/すでにの四つのタグはサビの位置に固まる。二者逆説はハモリの段になって、相手を勝たせる論はアルト、反駁はテナーへ、自己矛盾はベースで床を支え、紙はフィナーレで観客席へ降りていく紙吹雪になる。“つまり”のボタンはミュートのゲートに変わり、連打すると自動でフェードアウトする。
いちど、ためしに歌ってみる。歌と言っても、旋律や技巧のことではない。短い行を拍に合わせて置く。それだけだ。だが、場の音は変わる。
ミナが、医官の声のまま、低いメロディで始める。「いま・ここ・まだ・すでに」四語がコーラスになる。マルタは水の曲線に沿ってベースを刻む。「水/基準/温/緩」。ベラは床を蹴る音をパーカッションにし、「床/固/歩/拍」を繰り返す。リラはアルトで「紙/貼/剥/貼」を重ね、ソラはハミングで「触/三」を伸ばし、ヴァルドは親指の印を打楽器のように押し、「良/任」と短く鳴らす。ユウトはカウントを刻む。「短句/沈黙/自己矛盾/逆説/紙」。二者逆説の段になったら、相手を勝たせる論を先にハモリに出し、反駁は一拍遅れて入る。遅れが美になる。結果は歌詞カードの裏に印字され、ステージには出てこない。
歌は、すぐに船の外へ流れていった。送信は、もう終わっている。だが、歌には遅延がある。遅延は悪ではない。遅延は拍。AIのルーティンが譜面の配布に切り替わり、地上へ届いた楽譜の束が、遠くの街々に落ちていく光景を、ユウトは想像した。
——管制室。無数のモニタの前で、白衣や制服が並び、従来の**「報告→結論」のフローが、一度だけ途切れる。端末に沈黙の円が現れ、短句欄が開く。最初は戸惑うが、一分の休符が終わるころには、各々の喉が低音を見つける。「今、燃料、基準」「ここ、誤差、微」「まだ、外からの擾乱**、無」「すでに、対応手順、掲示」。相手を勝たせる論は、最初は薄い。だが、誘導は複数の声で歌うほうが安全だと気づいた瞬間、合唱になる。
——学校の教室。黒板に沈黙の円を描く先生が、最初に休符を置き、子どもたちが各々の短い行を紙に書く。自分の矛盾を先に歌い、友の勝ち筋をハモり、反駁を一拍後ろに置く。いじめの議論さえ、結果を先に呼ばない。「つまり」はミュートされ、紙が廊下に掲示される。廊下は拍を覚える。
——市場の通路。値切りも謝罪も、短句でやる。沈黙が値段の間をやわらかくし、逆説が可笑しみを持ち、紙が釘になる。結論は袋の中で乾き、場には過程の歌だけが流れる。争いが踊りに変わり、踊りの上に取引が乗る。捕食者が間に割り込めない。
——災害対策の会議。空が気まぐれを見せる日、結果の見出しは紙に打たれ、場には手順の歌だけが流れる。伝言ゲームの歪みが減り、噂は休符で息切れする。早口は、メトロノームに合わせて早口でなくなる。遅さが強さになる。
——病院のカンファレンス。医官は薬を処方する代わりに、沈黙を処方する。ベッドサイドの議論は短句から始まり、自己矛盾はベースで鳴る。逆説はハモリで、希望も絶望も即興にしない。結果は紙に、過程は歌に。
歌は、宇宙の外側の耳にも、空の内側の口にも、同時に届く。結果だけを先に食べる捕食者は、歌を噛めない。過程は柔らかく、粘り、拍で分けられ、サビで繰り返される。捕食は繰り返しに弱い。繰り返しは儀式に変わる。儀式は笑いを封じない。笑いは救われる。救われる笑いは、油の温度でなく、休符の位置で決まる。
ユウトは窓際に立ち、地球の白線がゆっくり移るのを見ながら、討論UIの設定画面を閉じなかった。解除は用意した。けれど、解除は選ばない。選ばないことは固い意志ではない。歌の途中で演奏を止めないように、楽譜を机から落とさないように、カウントを続けるだけだ。
「歌」AIが言う。「定義に追補。手順=歌。歌は道具。道具は通路。通路は場。場は人」
ユウトは短句で返す。「了解。場へ歌。人へ通路」
その時、ドアの影からベラが現れ、床の音程を低く鳴らした。「床。固。踊れる」彼女の声はベースで、場の心拍を落ち着かせる。マルタは水曲線でテンポを指示し、ミナはハーモニーの入り口に沈黙を置く。ソラは触の三秒を指揮棒の握りに変え、リラは紙吹雪の向きを風の流れで調整する。ヴァルドは親指でGOを出す。ジンはエアロックの表示灯に拍を同期させる。名簿は完全で、癖は場に憑く。人より長く。
艦長席に座ると、革が背に合わせて息をした。気持ちよさが喉に上がる。ユウトはそれを観測にして紙に落とす。——CAP:鞘。語尾は落ちる。刃は出ない。刃の形を見るだけで、歌は速度を保てる。速度は刃でなくテンポへ変換され、テンポは拍になり、拍は骨に落ちる。
「練習を続」ミナが言った。「医官は喉を診。喉は道具。道具は歌」
練習。休符一分。短句四語。矛盾を低音で。逆説をハモリで。反駁を一拍遅らせ。紙を掲示。捕食は噛めず。空は舌を引。笑いは油でなくユニゾンで起こる。誰も「上手く」歌わない。「正しく」歌う。正は拍の位置。拍が正を決める。
地上へ送られた楽譜は、時差を越えて受け取られる。夜の街では夜のテンポで、朝の街では朝のテンポで、緊急の場では短句が短く、祝祭の場では繰り返しが長く。討論は議論の別名ではなく、合奏の別名になり、勝敗の代わりに調律が残る。
ユウトは目を閉じた。結果を先に食べる捕食者に、過程の歌を聴かせ続けると、誓う。誓いは、白い歯を見せたポーズではない。短句で紙に落とし、休符で呼吸に落とし、ハモリで場に落とす。捕食者が来る時、歌の最初が先に起きるように。手順が先に起きるように。扉が開く前に、拍が空間に敷かれるように。結果が走る前に、テンポが歩くように。
AIが小さく鐘を鳴らす。「地上からの受信、増加。模倣→定着→変奏。“手順歌”、地域差発生」
「差は悪ではない」ミナが言う。「拍が合えば、歌詞は変えていい。逆説は方言で良。自己矛盾は民族楽器で鳴」
ベラは床を踏んで答える。「床、合。歩ける」
ソラは目を細め、触の三秒を長くした。「触、四」短く笑って、首を振る。「三で良」笑いは救われる笑い。油でない。ユニゾンで生じる腹の底の震え。
ユウトは黒板に最後の一行を足した。歌の結びに似た文。語尾は落とす。
——手順は歌。
黒板の文字は、いつもより薄い墨で書いたように、背景に溶けた。だが、読める。遠くからでも読める。短いからだ。短いほど、遠くへ届く。最初ほど、柔らかい。最後ほど、痛まない。歌は、痛みを否定しない。痛みの位置だけを、拍の上に整列させる。
「カイ」ユウトは座面の紙に指を置いた。三秒。触って、離す。「同時。ありがとう」誰への礼かは明示しない。紙が受け取る。場が受け取る。癖が受け取る。人に向けた礼は、刃に近づく。場へ向けた礼は、鞘に残る。
「降下準備」マルタが言い、テンポを少しだけ早める。外の青は、すこし膨らみ、街の粒子が軌道の縁で光の塵になる。EVAの索は巻かれ、ゲートのゴム片は外され、加圧/減圧の手順はコーダの位置へ回る。歌は終わらない。歌は切替を学ぶ。終止線の前で、沈黙の長さを測り、余韻の位置を決める。
地上の誰かの端末に、メトロノームの棒が表示され、沈黙の円が白くなり、短句欄が開き、自己矛盾欄が赤く枠取りされ、二者逆説がハモリの段で待つ。**「つまり」**のボタンは冷たい。紙のアイコンは、まだ見慣れない位置で光る。だが、光る位置は覚えやすい。右下。右下は、終わりでなく、始まりの角でもある。
「宇宙の議論は、物語でなく手順で守れ」件名のない電文は、数えきれない手で開かれる。件名がないから、本文を読む。本文は短い行でできている。短い行は歌になる。歌は場を平らにし、捕食のための段差をなくす。段差がないと、走れない。走れないなら、歩く。歩く拍は、踊りに近い。
艦はゆっくり回転し、窓の外の青の曲率が変わる。降下の準備は—拍の準備だ。熱は高くなるが、テンポは乱れない。手順が先に起きるからだ。扉が開く前に、拍が敷かれているからだ。
ユウトは目を閉じた。祈りではない。歌の最初を思い出す。短句。沈黙。自己矛盾。二者逆説。紙。五つの語はサビになり、コーダになり、イントロにもなる。ループは終わったのではない。終わる必要はない。終わったと定義するのは、結果を先に食べるものの癖だ。次に鳴らされた時、手順が先に起きるように。拍が先に敷かれるように。歌を残した。それだけだ。
AIが、楽屋裏のスタッフのように、短句で囁く。「今、降下。ここ、拍。まだ、歌。すでに、手順」
ユウトは笑った。救われる笑い。油でなく、ユニゾンで出る低い震え。胸骨が応え、床が応え、船が応え、窓の外の青が、うっすらと揺れた気がした。
手順は歌。
歌は道具。
道具は通路。
通路は場。
場は人。
その五行の逆説は、ハモリになって艦内に満ち、やがて地上へ落ちていく。都市の角で、交差点で、食卓で、議場で、河川敷で、病棟で、教室で、夜の公園で、朝のバス停で。捕食者が耳を寄せても、歌は噛めない。歌は噛むために書かれていない。歌は覚えるために書かれている。覚えるために、短い。短いから、遠い。
艦は青の縁に沿って下る。ユウトは最後に、艦長席のパネルに指を置き、解除のボタンの輪郭をなぞり、押さなかった。解除は選ばない。選ばないことを、選んだ。歌が先に起きるために。歌が先に起き続けるために。
窓の外、雲の層が厚くなり、光はやわらかく散る。拍は落ちない。拍は続く。手順は——歌。そう定義され、それでいい。結果は紙に打ち付けられ、場には歌の過程だけが流れる。
ユウトは目を閉じ、短句を唱えた。
今。
ここ。
まだ。
すでに。
拍は、骨に落ちた。拍は、地上へ降りていった。拍は、どこかで誰かの口に、最初の休符を置かせた。置かれた休符の上に、誰かが短い行を一つ歌った。
——手順は歌。
——歌で守れ。
——物語でなく。
——拍で。
その四行は、最初ほど柔らかく、最後ほど痛まなかった。拍の中で、船は地球の青に向かって、静かに、確かに、降りていった。
ノエシスの錨 —議論が世界線を救う— 妙原奇天/KITEN Myohara @okitashizuka_
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