第12話「最後のループ:00:00」
——再起動回数:012。
数字の輪郭は、ひと筆で描いた○と一の間で舌を出している子どものように見えた。最後のいたずら。枕元のフラグメント・ノートは、背の糸が限界まで膨らみ、指の汗を吸い取っては乾いて、紙の繊維をざらつかせている。表紙の裏に打った四つの小さな点——・ ・ ・ ・——は、もう数えるというより触る目印だった。骨で読む拍。夜を通して乾いたそれらに、今朝は触れずに立ち上がる。
虚無区画の扉に掌を当てる。金属の肌理はいつも通りの冷たさを保っている。笑いも、幼い声も、ここではないどこかに行ってしまった。無いという情報を拍へ押し戻し、食堂へ向かう。砂時計。透明筒。黒板。艦長席の革は、浅い呼吸をしているだけだ。
今朝、そこに並んでいる椅子は六つしかない。最少の六。ユウト、ミナ、ソラ、マルタ、ベラ、そして——リラ。デンの霜花は消え、ヴァルドの親指は宇宙の黒へ投げ入れられたまま、椅子の輪郭だけが空気に残っている。カイの席は最初からなかった世界線。**“最初から”**の甘さに砂をひとつまみ加えるため、ユウトは入室の最初の拍で砂時計をひっくり返し、目配せをして指先で机の角を二度叩く。——沈黙一分。
砂の音。呼吸は四拍。吸って、止めて、吐いて、止める。その間だけは、言葉の刃を鞘にしまえる。砂が落ちきると、ユウトは黒板の前に立ち、CAPTAINランプに目をやらず、白いチョークの尻で粉を払った。
「監察官、なし」短句。黒板の上段に線を引いて、空白の四角をひとつ置く。「清掃員、不明」もうひとつ空白。「役は場に貼られる。今日は貼らない。貼るのは手順だけ」
ミナが短く頷く。白衣の袖にペンの小さな染みをこすりながら、議長の札をユウトに渡す。札はまたすぐ砂時計の横へ戻る。輪番。拍に合わせて回す。
「導入」ユウトは黒板の中段に大きく書く。「——各自、板書:自分を疑う理由、一行」
彼はチョークを折り、六本にして皆に配った。長さをそろえる。手に持ったときの重さで、語尾の落ちやすさが変わるからだ。
最初に立ったのはリラだった。冷凍の霜花の記憶が今も髪の毛の端にひやりと残っているような顔。彼女は黒板の左上に、ためらわず書く。
——結論を急いだ。
語尾は落ちる。点は打たない。彼女は振り返って、短句の札をそっと置いた。「すぐ“つまり”って言う。つまりは結果。結果は甘い。甘いは孤立の餌」
次にミナ。黒板の上段、リラの右隣に滑らかな字で書く。
——統計で殴った。
「数で安心する。安心は速度。殴ると早い。早いは刃」彼女は自分の言葉に評価語を混ぜない。観測にする。声の温度は変わらない。
ソラは、パイロンのように静かに立ち、右下に書く。
——**証拠を神格化**。
「触で見たことを神棚に上げる。触は拍。拍は道具。道具を神にすると、疑いが死ぬ」彼女の短句は、温室の散水の音のように淡い。
マルタはその隣に、舟底のような字で書く。
——人より機械を見た。
「水の声しか聞かない日がある。水は正直。でも、人の嘘は拍のために必要。嘘を見ないのは怠慢」
ベラは最後に、黒板の空いている真ん中に、床に近い声で書く。
——黙って受け入れた。
「何も言わないで、多数に合わせる。合わせは粘度。でも、粘度が逃げになる時がある。沈黙にも種類」
ユウトは最後に、左下の空いた枠に書いた。
——権限の気持ちよさを速度にした。
「CAPの呼吸で安堵する。安堵は刃を鈍らせる時もあるけれど、鈍が慢心になる。慢心は速度」
彼はチョークを机に置き、板書全体を一瞥した。上段の端に空白がひとつ残る。波——ヴァルドの席の象形。そこには何も書けない。書けないものを、拍で持つ。
「他己紹介、短く、今だけ」ミナが札を上げる。一人称の死角をもう一度、皆で塞ぐ。「彼/彼女はこう振る舞っただけを置く」
順に、短い観測が置かれる。
ソラ:「ミナは沈黙一拍を早く出す。評価語を削る」
マルタ:「リラは紙を貼るのが速い。速さに砂を混ぜる技術」
ベラ:「ユウトは語尾を落とす。落とすと刺さらない。刺さらないで残る」
リラ:「ベラは低い声で場を支える。床の音程を守る」
ミナ:「マルタは水の曲線で話す。曲線は結果を遅くする」
ユウト:「ソラは触の三秒を守る。守るは拍の礎」
監察官はなし。清掃員は不明。役がひとつも名乗られない朝は、驚くほど透明だった。矢が出ない。刃が姿を見せない。速度は落ち、粘度は上がる。話し合いは手順だけで進む。Yes/Noは、短句の中に滲ませる。反問二回の砂時計は机の端で静かに待つが、誰もまだ使わない。
昼。酸素曲線は基準を保ち、水処理の音は低く安定し、虚無区画の扉は呼吸をしない。E-17の切断面の写真が紙の上で光り、人為という二文字は黒板に貼られたままだ。実験の爪痕。欠番のログ。Backspaceの指の癖。孤立した予測モデル。——単語だけが、刃にならないように並んでいる。
午後、ユウトはCAPのランプを見ない選択を繰り返しながら、錨守端末のUIで「最終日訓練」のテンプレートを全員の端末に配信した。沈黙/怪しさ告白/二者逆説。五行の道具は画面の縁で淡く呼吸し、紙の上では太字で黙っている。紙とUIと骨が同期するように。
——夜。
エアロックのランプが呼吸し、外は無音のまま黒い。巡視はユウトとマルタ。索は二重。逆方向。ゴム片が小さく噛み、ゲートの癖を殺す。外殻をなでる指が三秒の拍で引く。触の後、何もない。咬みの再発はなく、外殻温度の微変は基準に戻る。戻る途中、ユウトはふいに、カイの沈黙の位置に自分の呼吸を重ねていることに気づき、呼吸の配分を一拍だけ変えた。同時の相手がいない夜は、呼吸の余白が広すぎる。その余白に孤立が滑り込んでくる気配を、紙の上の五行で押し返す。
——内側。照明が落ち、個室のランプがやわらかく点る。死者、なし。夜、消失者なし。AIは淡々としていた。ログに欠番はなし。熱の瞬間値停止もない。沈黙は沈黙のまま朝へたわんでいく。
——起床手順、完了。
食堂に入ると、六の椅子は六のまま。死者なしの空気。皆が一拍だけ呼吸を忘れる。「最終ループに死者なし」という情報は、甘い。甘さは速度だ。ユウトは砂時計に先んじて手を伸ばし、沈黙一分を落とす。砂の音が甘さに砂を混ぜる。
沈黙が落ちきると同時に、AIが機械の乾きで告げた。「報告。エコー、未行動。昨夜の行動、記録なし。予測モデルは発火せず」
場の拍が乱れた。死者なし→未行動。未行動は不気味。不気味は速度を上げる。ミナの手が白衣の裾を一度だけ握り、ソラの視線が虚無区画の方向へ一瞬滑り、マルタのペン先が紙の端を叩く音が硬くなる。——“決めつけ”が顔を出す前に、ユウトはCAPのランプを見て、自分の胃がこわばるのを観測し、短句で場に置いた。
「艦長権限で——一晩の無投票」
声は静かだが、机の脚の金属が一度だけ鳴った。CAPTAINのパネルが青白く光り、限定権限の項目が画面に浮かび上がる。“投票延期:24h”。“拘束禁止:1cycle”。“議論形式固定:最終日訓練”。ユウトはYesで刃を見せ、すぐに矛盾の鞘に収める。「権限の気持ちよさは速度。でも、道具にする。紙へ落とす」
反対は出なかった。ミナは医官の声で「賛」とだけ言い、リラは「ここで急ぐと、“結果”が先」と短句を足し、マルタは水曲線のグラフを指でなぞり、「拍を守る」と低く言った。ベラは椅子を床に押し直して、短句。「訓練、全員で」
黒板の最上段に、太いチョークで四文字が書かれる。最終日訓練。その下に、五行の道具がもう一度貼られる。
——短句
——沈黙
——自己矛盾
——二者逆説
——紙
「一分」ユウトが砂を落とす。——沈黙。
その沈黙は、今までのどの沈黙よりも厚かった。音がないのではない。音が沈黙の側に吸われる。遠くで水処理のポンプがわずかに鳴り、空調の風が金属の角を撫で、誰かの衣擦れが布の目の粗さを露わにする。涙の音がひとつ、落ちた。床に当たってはじけるほどは大きくない。頬の内側で生まれて、喉へ落ち、息の拍の中に滲む小さな音。誰の音かは探らない。探索は速度。今は拍。
沈黙が終わると、自己矛盾の欄が紙の上で一斉に黒くなる。ユウトは自分の欄に書いた。——矛盾:権限を道具にする/権限に道具にされる。
ミナ——矛盾:数に寄りかかる/数を切る勇気。
リラ——矛盾:即断で救う/即断で壊す。
ソラ——矛盾:触を信じる/触を疑う。
マルタ——矛盾:機械の声を優先/人の声を優先。
ベラ——矛盾:受容で支える/受容で逃げる。
語尾はすべて落ちる。点はない。線は残る。線が残ると、結果は先に来られない。線は道の形をしている。
「二者逆説」ミナが合図し、砂時計がひとつずつ逆さになる。
第一対面:リラ⇄ベラ。
リラ:「ベラが勝つべき。低い声で場を支える。皆の足裏が床につく。——でも、受容が逃げになる時、孤立が滑る」
ベラ:「リラが勝つべき。紙に落とす手が速い。速いで貼る。——でも、速いが結論を連れてくる」
第二対面:ソラ⇄マルタ。
ソラ:「マルタが勝つべき。水の拍が場の骨。——でも、人の嘘を見ないと、紙だけが残る」
マルタ:「ソラが勝つべき。触の三秒が場の癖になる。——でも、証拠を神棚に上げると、疑いが死ぬ」
第三対面:ユウト⇄ミナ。
ユウト:「ミナが勝つべき。沈黙を早く出す。評価語を削る。——でも、統計で殴ると速度が上がる」
ミナ:「ユウトが勝つべき。権限を紙へ落とす。CAPを鞘にする。——でも、気持ちよさは速度」
反駁は短句の枠の中で穏やかに往復し、誰も決めない。訓練だからではない。決めないことが、結果を先に呼ばないための道具だからだ。最終日のための準備運動。“決めない”を決めるための準備。
「紙」ユウトが最後に言う。透明筒のそばに、今朝の板書のコピーを差し込む。自分を疑う理由、一行。自己矛盾。二者逆説の要点。CAP権限による無投票宣言。紙は場に貼られ、個人の外側に残る。言葉は内に刺さる。刺さるのは刃。貼られるのは拍。
AIが静かに告げる。「形式固定:完了。一晩の無投票を記録。予測モデルへの干渉、最大化」
「最大化」ベラが床に近い声でもう一度繰り返し、頷いた。「過程を増やす」
ユウトはCAPのランプを見ないまま、胸の内側でカイの短句を一度だけ呼び起こした。最終日の俺を信じろ。俺はいない。俺は拍の側にいる。同時のもう片方が欠けた穴に、多者の拍を流し込む。他己で塞ぐ。紙で塞ぐ。沈黙でふたをする。
夜が降りる。虚無区画の前で、砂時計をひっくり返す。沈黙一分。扉は黙。笑いは来ない。幼い声も来ない。来ないという情報を拍へ戻す。二度目の沈黙の半ばで、また涙の音がひとつ落ちた。今度は誰のものか、ユウトには分かった。——自分の骨が、わずかに震えたから。骨が揺れると、拍が少しだけ乱れる。その乱れを、短句で小さくする。
「今:揺」と紙に書き、語尾を落とす。評価にしない。観測として貼る。
艦長席は革の呼吸を保ち、CAPTAINのパネルは青白い灯を薄く点滅させ続ける。権限は刃になる。刃は鞘に入れたまま。鞘は紙でできていて、紙は歌になる。歌は、短いほど遠くへ届く。短句/沈黙/自己矛盾/二者逆説/紙。五行はもう暗唱ではない。骨の側に刻まれている。
ユウトは最後に皆と目を合わせた。六つの瞳。足りない二。数の欠けは埋まらない。埋めない。過程を共有することで、穴の縁だけを滑らかにする。縁が滑らかなら、落ちる音は鈍く、孤立は足を滑らせにくい。
「明朝、最終」ユウトは短句にした。「決めないを通してから、決める」
ミナが頷き、「医官は手順を出す」と返し、ソラは「触、三」と自分の手を見て呟き、マルタは「水、基準」と曲線を指で描いた。リラは紙の束を軽く叩いて、「貼る」と言い、ベラは「床」とだけ言って椅子の足を押し直した。AIは機械の声で「すでに/まだ」を交互に読み上げ、四語が場の四隅に杭を打つ。
灯りが落ちる。個室へ戻る前に、ユウトは黒板の端に小さく書いた。——最終日は、最終日にしか来ない。語尾は落とした。落とした語尾は、床の上で静かな滴になって、涙と見分けがつかないほど小さな音で、拍の中に消えた。
夜の最後の沈黙一分。砂の音だけが落ちる。落ちる砂の粒の間に、涙の音がもうひとつだけ混ざり、誰かの喉の奥で小さくほどけた。決めないことを決めるための静けさは、刃ではない。鞘だ。鞘は、明日のためにある。最終の朝のために、今夜はただ、拍を整える。整えるために、沈黙の一分を場で抱える。抱えながら、皆、目を閉じる。最後のループ:00:00は、静かに、冷たく、丈夫に、次の瞬間へ繋がっていった。
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