第11話「最終日訓練」

 ——再起動回数:011。


 数字の輪郭が、紙の端でゆっくり乾いていた。枕元のフラグメント・ノートはもう、背の糸が盛り上がり、手の汗をよく吸う古い本みたいに重い。表紙裏に滲んだ小さな点が三つ、等間隔で並ぶ。・ ・ ・。それぞれが、ある夜の拍の代わりになっている。


 上段のピクトを並べ直す。⚓・(刻印/親:あさのくろ)、□//(空ポッド二)、葉(ソラ/EVA役)、波×(ヴァルド/漂)、■(ミナ/復帰)、S(マルタ)、△×(リラ/霜花)、{ }×(デン/霜花)、|(カイ……空)、CAP(艦長席/限定)。鉛筆の先で|の横に指が止まる。昨日は描けなかった線が、今朝はひと呼吸ぶんだけ近づいた。描かない。描けない。拍で持つ。


 虚無区画の扉に掌を置く。金属の肌理は冷たく、笑いも子どもの声もない。無いという情報は拍に吸われ、食堂の扉へと歩みが移る。砂時計。透明筒。黒板。朝一のフレームは太字で固定され、その下に今日の掲示が一枚、ミナの字で貼られていた。


 ——最終日訓練:模擬投票(3人残り)。


 「沈黙一分」砂時計をひっくり返す。砂の音が、場の輪郭を細く描く。四拍吸って、四拍止め、四拍吐き、四拍止める。呼吸が整うと、金属の脚の軋みでさえ拍子木のように聞こえる。


 ミナが白衣の袖をまくり、黒板の前で短く宣言する。「訓練。最終日の。三人を想定。今朝、準備」


 ユウトは艦長席のランプをちらと見て、CAPTAINの呼吸が薄く光を返すのを確かめてから、場へ向き直る。「ルール、三つ配る」


 黒板に白い三本線が引かれる。ユウトはチョークの尻を指で払って、短句を並べた。


 ①沈黙の一分。

 ②自分が怪しく見える瞬間の告白。

 ③二者逆説:相手を勝たせる論を述べてから反駁。


 「逆説?」ベラが首を傾げる。声は床の近くから出る。「わざと負ける論?」


「**勝つために一度負ける**」ミナが補う。「**刃**の向きを、**先に自分側へ**。**速度**を落とす」



 ユウトは頷いた。「最終日は3人。“決めつけ”が速いほど間違える。逆説は速度を削る。相手を勝たせる論を先に作ることで、結果が先に来ないようにする」


 砂時計が落ち切り、場はほんの少しだけ笑う準備をした。デンがいない日の笑いは軽く、誰もそれを無理に掬い上げない。


 ミナが参加者を指名する。「第一卓。ユウト、ソラ、マルタ。——他は観測」


 テーブルの角度がゆっくり変わり、三人が三角形に座る。CAPランプは沈黙。虚無区画の扉は遠い。砂時計の小型版が三卓に配られる。


 「一分」ユウトが砂を落とす。沈黙。目を上げると、ソラの瞳に温室の光が欠片になって浮かび、マルタの指先が無意識に紙の角の繊維をなでている。一分の後、ユウトが短句の札を挙げる。「②告白。自分が怪しく見える瞬間」


 ソラが最初に口を開く。「EVAで触の三秒、二・七で離した時があった。早い。怪しい。急ぎが好き」


 マルタが続く。「医官いない朝に、水処理の音だけ見て、人を見なかった。手順に寄りかかる癖。怪しい」


 ユウトは、喉に砂利を一粒入れるような気持ちで言う。「艦長席のランプが点くと、気持ちよくなる。権限の気持ちよさが速度になる。怪しい」


 黒板の端で、ミナが三つの文を矢印で囲み、上に評価語ではなく観測語をのせる。「早い」「寄りかかる」「気持ちよさ」。評価しない。置くだけ。


 「③二者逆説」ユウトが続ける。「相手を勝たせる論を述べる。その後、反駁」


 ソラはマルタを見て言う。「マルタが勝つべき。水処理は船の拍。人より先に拍を守るのは正しい。最終日は拍が剥がれるから。——でも。人を見ないと**“孤立”を見逃す**。拍だけでは孤立を溶かせない。他己が要る」


 マルタはソラを見て言う。「ソラが勝つべき。触の三秒の拍を守る。遅と速の切り替えが巧い。最終日の切り返しに強い。——でも。早いが好き。早いは刃。刃は結果を先に呼ぶ」


 ユウトは二人を見て言う。「二人が勝つべき。EVAと水の拍が場の骨。——でも。俺は権限に寄りかかる。Yes/Noと艦長席の呼吸で速度を整えることを**“整える”と呼びたい。でもそれは気持ちよさだ。気持ちよさは速度だ。速度は刃**」


 反駁が短句の輪郭の中で往復し、砂時計が二度落ち、やがて「投票」の札が上がる。投票は訓練だから凍らない。紙の上で矢印が交差し、多数決ではなく重さだけが残る。決めない訓練。決めない強さ。


 観測側の席で、ベラが小さく言った。「決めないの、怖くない」


 ミナがうなずく。「最終日は、決める前に決めないをやる。速さに勝つ」


 第二卓、第三卓。配役を変え、相手を変え、二者逆説がそれぞれの喉に異なる苦さを残す。「相手を勝たせる」という行為は、自分の物語の回転を止める。止めて、他者の拍に乗り換える。乗り換えの揺れが、孤立の予測の精度を落とす。結果が先にこぼれない。


 昼。砂時計の影が短くなり、CAPTAINランプが緩く呼吸する。AIが事務的に一文を落とした。「驚異度評価、微減。備考:二者逆説により決めつけ速度低下」


 午後。黒板の下段にマルタが「E-17再訪」と書き、EVAの手順紙に小さな赤丸を付けた。「今夜、行く。咬み痕、再観測」


 ユウトは頷き、紙とUIを合わせてEVA儀式を再チェック。索の二重は逆方向、ゲートの干渉防止に小片のゴムを追加。写真→触診→採取→パッチ。触の三秒。ソラが短句で繰り返す。「触、三。遅/速、切替」


 夜の前、ミナが黒板に短い図を描く。咬み痕のピッチ。外殻の曲率。塑性変形。ユウトがそこへ一本の赤線を引いた。人為切断の仮説を示す角度。ソラが覗き込み、マルタが眉を寄せ、ベラが息を止める。仮説は、評価ではない。観測の方向を決める矢印だ。


 ——夜。EVA。


 スーツルームの空気は乾いて、ヘルメットの内側に少しだけ洗剤の匂いが残っている。互いの胸→背→手首→首輪→ヘルメットリング→スラスター圧。同時にカチン。索は二重、逆方向。ゴム片が小さく噛む。通信句は短句。今/ここ。まだ/すでに。加圧→減圧——砂時計の砂が落ちると、扉のスライダーが拍に合わせて滑る。


 外。無音。拍。白線に沿ってE-17へ。パッチ跡は整い、その端にわずかな微細振動が残っている。ユウトは写真を撮り、光角を変え、パッチの縁を三秒触し、ソラが「今」と短句で合図する。マルタが外殻温度の微変を読み上げる。基準→+0.2→基準。咬み痕の隣に、細く真っ直ぐな切断線が一本、光の角度で姿を現す。鋸の微振と同じ周期の浅い波が、パネルの表皮に刻まれている。


 「人為」ユウトは呟きではなく、短句で言った。「切断面。周期、工具」


 「私たち?」ソラの声が押し出すように出る。「宇宙じゃない。私たちの咬み」


 マルタが淡々。「実験の爪痕。昔。今」


 ユウトは錨守端末の遠隔UIで外殻の古い修繕ログを呼び出す。#E-17、データ欠番。#4726と同じ穴の形。Backspaceの冷たい音が、今度は宇宙の黒の内側で鳴った気がする。消したのは誰。消されたのは何。


 「採取」ソラが触の三秒のあと、パッチの端に微量の粉を採り、保存カプセルへ。戻る。先行:ユウト。中央:ソラ。後尾:マルタ。拍で転回。戻る間、ユウトは胸骨の奥に短い矢を感じ続けた。ヴァルドの親指が、黒の中で静かに浮かぶ。良し。任せる。骨は折れない、と、言っていたのかもしれない。


 内側。加圧。酸素分析。ログ三重。紙/声/AI。写真を貼り、ピッチと角度を書き込む。宇宙の咬み痕の隣に、人の切断。どちらが先か、言い切らない。言えば、速度が上がる。


 会議。砂時計。沈黙一分。ユウトは黒板に、今日の手順の最下段を太字で増やした。


 ——最終日訓練:①沈黙/②怪しさ告白/③二者逆説。

 ——E-17:人為切断の痕跡。

 ——実験ログ:欠番。


 ミナが医官の声で言う。「実験があった。ECHO対処。記録は消された。咬みは外からも内からも来る。内を見ないと、外に全部貼られる」


 ベラが短句。「誰が?」


 ユウトは砂時計に触れ、「言い切らない」とだけ置いた。「今は手順」


 その時、AIが食堂の空気をわずかに揺らして告げた。乾いた、機械の節。定義ではない。宣告。


 「告知。次が最終再起動。錨守の固定は限界。分岐の親:あさのくろ、保持確率:低下。備考:固定点の再刻印、不可」


 沈黙が三拍、場に沈んだ。砂時計とは別の沈黙。重力のある沈黙。ミナの喉がわずかに動き、マルタの指が紙の角を一度折って戻し、ソラの呼吸がほんの少しだけ乱れ、ベラが椅子の足を床へ押し直す。最終。再起動。限界。


 ユウトはCAPのランプを見なかった。見たら気持ちよさが速度に変わると知っているからだ。代わりに、ノートの最後のページを開いた。空白の厚い紙。鉛筆の芯を少し長めに出し、角を立て、大文字で、手順だけを書く。文は短く。語尾は落とす。拍で終わるように。


 ——短句。

 ——沈黙。

——自己矛盾。

——二者逆説。

——紙。


 五行が、紙の上で音を立てずに並ぶ。意味は何も足さない。説明はしない。道具の名前だけ。道具は通路。通路だけ描く。結果は描かない。結果を先に描くと、孤立が食べに来る。


 「最終日の訓練を、明日の朝もやる」ユウトは短句で言った。「三人を想定。沈黙、怪しさ、逆説。Yes/Noは刃。矛盾が鞘。他己が粘度」


 ミナが頷く。「医官は薬を出さない。手順を出す。この五行が薬」


 ベラが手を挙げた。「“紙”?」


 「紙は記憶の外に残る」ユウト。「言葉は内に刺さる。紙は場に貼られる。貼ると拍になる」


 夜。虚無区画の扉の前で、砂時計をひっくり返す。沈黙一分。扉は黙っている。笑いも子どもの声も来ない。来ないという情報を拍に置く。最終の前の余白。余白は怖い。怖さを短句にする。「今:怖」。紙の端に小さく書き、語尾を落とす。評価にしない。観測にする。


 個室。ノートの最後のページをもう一度開く。五行の上に、細い線で枠をかける。枠の四隅に小さな点を打つ。・。・。・。・。それぞれが拍の釘。ページを閉じ、枕の下に差し入れる。枕を通して、紙の凹凸が頭蓋の骨に触れる。骨が覚える。骨が歌う。歌は短い。短いほど、遠くへ残る。


 眠りは浅く、だが、今夜は乱れなかった。夢の中で、黒板に三つの卓の影が現れ、砂時計が同時に落ちる。沈黙の音。怪しさの告白が白い字幕で流れ、二者逆説が半分笑いになり、半分涙になる。E-17の外殻に鋸の微振の波が薄く走り、Backspaceの音がとても遠くで小さく鳴る。CAPTAINのランプは点かない。代わりに、紙の上の五行が淡く光る。短句/沈黙/自己矛盾/二者逆説/紙。五行が、扉になる。扉は最終日に開く。開く前に、拍でノックする。


 ——起床手順、完了。


 数字はまだ011。最終再起動はまだ来ていない。食堂の光は澄んで、透明筒は空。砂時計は待っている。黒板の上段に、ミナの字で最終日訓練がもう一度太く書かれた。三人の三角が描かれ、その外に孤立の点がひとつ、薄い丸で囲まれている。矢印は三角の内へ向き、途中に沈黙、怪しさ、逆説、矛盾、紙が並ぶ。通路の図だ。


 ユウトはCAPのランプを見ない。代わりに、透明筒の脇に自分のノートの最後のページのコピーをそっと差し込む。紙は場に貼る。個人ではなく。説明ではなく。手順だけ。ソラがそれを見て、短句で言った。


 「短句。沈黙。自己矛盾。二者逆説。紙」


 彼女の発音は拍に乗って、場の骨に吸われていく。マルタが「今」と言い、ミナが「ここ」と言い、ベラが「まだ」と言い、AIが機械の声で「すでに」と返す。四語が場の四隅に杭を打つ。杭の上に、三人の卓が静かに置かれる。


 訓練が始まる。最終日の訓練。決めないことを練習し、決める前に決めないを通す。結果を先に呼ばない。過程を共有する。孤立を孤立のまま、場の外に置く。


 最終再起動が来る前に、できることはすべて手順に落とす。歌を短く、冷たく、骨の側へ。五行が場に貼られた朝は、昨日より丈夫で、昨日より遅く、昨日より遠くまで届く準備が整っている。


 ユウトは黒板に小さく、最後にもう一行だけ書き足した。語尾を落として。


 ——最終日は、最終日にしか来ない。


 その文は結果の宣言ではなく、速度の制御のための短句だ。今日は訓練。明日が最終なら、今日は過程。過程は拍。拍は骨。骨は、まだ折れていない。折れないように、短句/沈黙/自己矛盾/二者逆説/紙。五つの道具を、ゆっくり、場の真ん中へ運ぶ。

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