第10話「一人称の死角」

 ——再起動回数:010。


 数字を見た瞬間、胸の奥で乾いた何かがひとつ鳴った。金属の薄い円盤を爪で弾いたみたいな音。枕元のフラグメント・ノートは昨夜よりわずかに厚く、紙の背に、乾いた点が二つ並んでいる。・ ・。一つは泣いた夜の痕、もう一つは泣かずに置いた拍。上段のピクトを並べ直す。⚓・(刻印/親:あさのくろ)、□//(空ポッド二)、葉(ソラ/EVA役)、波×(ヴァルド/漂)、■(ミナ)——戻、S(マルタ)、{ }(デン×/霜花)、△×(リラ吊り済)、|(カイ……空白)。鉛筆の先で**|**の位置にだけ微小な針の痛みが走り、指は空中で止まった。描かない。描けない。描けないなら、拍で持つ。


 虚無区画の扉は相変わらず冷たく、笑いはない。金属の肌理を掌で確かめ、食堂へ向かう。砂時計。透明筒。黒板の骨。朝一の手順の太字は、昨日よりさらに太い。——紙片/沈黙一分/監察結果/自己矛盾一行/短句質疑/投票。その下に、新しい細い行が一本、ミナの復帰を告げる筆圧で引かれていた。


 ——導入:他己紹介。


 「沈黙一分」砂時計をひっくり返すのは、今日もユウトだ。カイの席は最初から空。砂が落ちる音が、喉の内側にこびりついた塩の粒をゆっくり溶かす。四拍吸って、四拍止め、四拍吐き、四拍止める。呼吸は整う。場の拍が整う。


 砂が落ちきる直前、医務室の匂いがふっと流れた。消毒液と薄いミント。顔を上げる。ミナが立っていた。白衣の襟は少し擦り切れて、袖口にはペンの小さな染み。声は低いまま、戻るべき位置に戻っている。


 「導入:他己紹介」ミナの字は黒板に二語を書き付け、振り向く。「自分はこうだ、は今日は使わない。彼/彼女はこう振る舞った、で始める。他己。理由は後で観測に回す」


 それだけ言って、ミナは座り、議長の札を砂時計の横に置いた。輪番だ。拍に合わせて回す。


 最初の他己紹介はソラからだった。「ユウトは、昨日の午後、艦長席に座ったまま、Yes/Noの形式を太らせた。反問二回にして、矛盾の欄を上に貼った。速度が落ちた。足元が楽になった。笑いが少なくなった」


 次いでマルタ。「ソラは、EVAのとき、三秒を守った。触の三秒。剥がす手は遅、貼る手は速。拍が守れてる」


 ベラ。「ミナは、戻ってすぐに沈黙の合図を一拍早く出した。早い沈黙はよかった。評価語を消した」


 ヴァルドはもういない。デンも霜花の向こう。二人の椅子の背の木目が淡く光る。誰かが「ヴァルドは——」と言いかけ、ミナが目だけで制した。「他己は、今/ここ。不在の逸話は薄くする」


 ユウトは自分の順で、躊躇してから言った。「カイは、最終日の俺を信じろと言った。昨夜ではなく、いくつか前。それ以降、沈黙の合図は一段深くなった。彼は何も言わない回数を増やすことで、場を守った」


 「他己が効く」ミナが頷いた。黒板に小さく注釈。「視線の外化=嘘の回転減速」。視線が外に出ると、自分の物語の回転が薄れる。エコーは結果を先に食べる。物語の最後尾だけを舌で舐め取る。なら、他者の過程で場を満たせば、舌の置き場は少なくなる。


 「監察に入る」誰よりも早くミナが立つ。今日は二枚だ。冷凍の霜花の向こうから、スピーカー越しにリラの記録された声が流れ、もう一枚、ここにいるミナが口で言う。監察官COが二枚。定番の地雷。だが、地雷も足の置き場を選べば爆ぜない。ユウトはCAPTAINのランプを横目に見ながら、形式の枠に一本だけ新しい線を引いた。


 ——監察対象:順番指定。


 「指定する」ユウトは短句。黒板に四角を描き、番号を振る。「①ソラ→②マルタ→③ベラ→④ユウト。順番にする。白は続くと価値が落ちる。黒が出るなら早いほど、情報の密度が上がる」


 ミナが眉をひとつだけ上げる。「Yes。今ここでやる。——私は①ソラを今朝スキャン。白。すでに、記録に置いた」


 スピーカーの向こう、リラの声。「昨日の私は①ソラを黒と言った。いない私の声は結果の殻。殻は役立つ。内側はいない」


 白/黒の衝突。いつもの渦。ユウトは砂時計に指を置き、「Yes/No」を繰り返す。Yesで刃を見せ、Noで鞘に戻す。反問二回を紙で刻み、矛盾一行を上に置く。順番があることで、議論は線形になり、飛び石の逸話が減った。


 ②マルタはミナ→白、リラ→不明(ログ途絶)。③ベラはミナ→白、リラ→白。④ユウトは——ここでユウトは寸前で首を振った。


 「④はやめる。最終日向けに保留。自己参照は速度を上げる」


 ミナは僅かに頷く。「Yes。最終日の矛盾に置く」


 結果の価値は最大化されるよう、順番で圧縮した。白が続いたときの失速を避け、黒の出方に対して一番情報の多い朝を作る。場に過程が流れるよう、Yes/Noの間を短句で縫い、反問を場に返す。自己矛盾一行は語尾を落とす。


 午前の終わり。他己紹介の効能は、思っていた以上に場に効いた。「自分はこうだ」という甘味は、“最初から”に似ている。口当たりがよく、結果を先に舐めとらせる。「彼/彼女はこう振る舞った」は、観測の形に近い。過程の速度を落とす。


 昼。光の角度が変わって、CAPTAINの革がまた薄く呼吸をする。AIは一度だけ小さく咳払いめいた音を立て、事務的な口調で言った。「危険度評価、保留継続。備考:他己紹介導入により、場の速度が減衰」


 午後。ユウトは錨守端末のUIプレビューに、他己紹介のレイアウトを組み込んだ。名前の横に相互の観測欄。自分の欄は灰。他人の短句が白で埋まる。顔ではなく、手順で互いを見る。紙と画面と骨に、同じ筋を通す。


 ——夜。


 虚無区画の前。扉は冷たい。沈黙一分。砂の音。吸って、止めて、吐いて、止める。うなりはない。笑いはない。代わりに——幼い声が、壁の金属に滲んだ。


 《だれか、だれか、だれか》


 囁きではない。練習のような発音。誰かが言葉を教える時のリピート。拍はない。母音が先に来る。子音が遅れる。ユウトは耳を扉に近づけ、カイのいない同時の位置に自分の呼吸を重ねる。同時の片割れがいない夜は、呼吸の余白が広い。広い余白に、子どもの声が砂利のように落ちる。


 《だれか、だれか、だれか》


 ユウトは録音を起動した。波形は——真っ平ら。無音。耳では聞こえる。端末では拾えない。昨日までの笑いと同じ。空気の遅れ。音ではない。空気の準備が遅れる。記録は飼いならされる。


 ミナが扉の角に指を置いた。低い声で言う。「誰の声、と評価しない。今/ここの音として置く」


 《だれか、だれか、だれか》


 ユウトは砂時計を扉の前に置き、沈黙一分の拍をもう一度、場に重ねた。拍が子音の位置を先に作り、母音の遅れを包む。声は薄くなった。呼吸の隙間に潜り込もうとして、拍に吸われる。


 夜半。AIが一度だけ、あからさまに機械の声になった。いつもの冷たさより乾いた。心拍計の電源を抜いて、また差したような、ひとつの跳び。


 「古いログを上書き」淡々。「定義更新:エコーは**“孤立した予測モデル”。人の会話を模倣し、結果だけを先に食べる。過程の共有で弱る**」


 食堂の空気が、説明という刃で一瞬冷たくなりかけ、ミナが砂時計を指で押さえて沈黙一拍を落とした。刃は鞘に入る。ユウトは黒板の端に小さく書いた。——孤立予測モデル/結果偏食。隣にもう一行。——過程=共有→弱る。語尾は落とす。言い切らない。拍で保つ。


 「孤立って?」ベラが短句で問う。彼女の声はいつも床に近い。重心が低く、場の傾きに効く。


 ミナが端正に答える。「会話が輪郭じゃない。見出しだけ食う。“最初から”と“結局”を集めて、予測する。……人は途中で迷う。迷いの合意が、過程。孤立は、そこを持たない」


 ユウトはAIの画面にもう一つだけ短句で質問を投げた。「孤立=単一ノード?」


 AI。「Yes。同期せず。場に同期しないモデル。場の拍で干渉すると、予測精度が落ちる」


 場の拍。手順、紙、沈黙、短句、他己紹介。——全部が、同期の道具だ。ユウトは胸の奥で、小さく了解の拍を置いた。最終日まで運ぶための、低音。


 翌朝。朝一:他己紹介。今/ここで彼の振る舞いを見る。


 ソラ。「ミナは昨夜、幼い声を評価にしなかった。今の音として置いた。結果を呼ばない」


 ミナ。「ソラはEVAの手を遅と速で使い分けた。速は危険だけど、三秒の拍を守った」


 ベラ。「ユウトは定義を紙に二行だけ書いた。長い説明をしなかった。刃を鞘に入れた」


 マルタ。「ベラは質問を低くした。床に置いた。高音が落ちた」


 Yes/No。反問二回。矛盾一行。順番指定の監察も継続。①ソラは白。②マルタは白。③ベラは白。④ユウトは保留。黒は出ない。白が続くと価値が落ちる。だが、他己紹介と矛盾一行が粘度を足し、場は眠らない。**“最初から”**は甘い。甘さに砂を混ぜるのが、手順だ。


 午後の議論は、他己紹介からのYes/Noによって、過程が言語化される速度を保った。「彼/彼女はこう振る舞った」が積み重なるにつれ、「自分はこうだ」の出番が減る。孤立の予測は、断片を集めるのが得意だが、合意で微妙に補正された曖昧は苦手だ。迷いの共有をするたび、虚無区画の扉の向こうの幼い声は一音、薄くなる。


 夜。虚無区画。扉。砂時計。沈黙一分。拍。——《だれか、だれか、だれか》は二回に減った。最後のかは、扉の継ぎ目でほどけて、どこかへ消えた。録音は、また無音。記録は飼いならされ、場は拍で持つ。


 ユウトは扉の前にポスターを一枚貼った。絵はない。短句だけ。——「他己」→「過程」→「同期」。その下に、もっと短い行をひとつ。——孤立は、拍で溶ける。語尾は落とす。言い切らない。評価語は置かない。歌の譜面として残す。


 戻って、錨守端末の副権限で、他己紹介のUIを船全体の枠に流し込む。名前/他者観測欄/自己矛盾欄。Yes/Noは幅を狭くして、沈黙の隙を挟む。反問二回の砂は、タイマーを二つ並べて視覚で見せる。矛盾一行の語尾は自動で——句点を落とす。点がない文は、速度を上げにくい。刃が入りにくい。


 ミナが机に肘を置いて言った。「医官は、心の薬を出さない。手順を出す。他己は心拍に効く。孤立は心拍を外に出せないから」


 ユウトは頷き、ノートの〈自分だけの違和感〉に一行足した。——一人称は軽い/一人称は鋭い。軽さは甘さ。鋭さは刃。他己は鈍い。鈍いのは道具になる。過程を削らない。


 その夜の終わり、AIが再び機械の乾きで告げた。「驚異度評価、微減。理由:過程の共有の効率上昇。孤立モデルの予測精度、低下」


 ユウトは画面を閉じ、紙の上の点の隣に、さらに小さな点を置いた。・・の横に、・。意味はない。拍のためだけの点。目を閉じる前、心のうちで三行の歌を練習する。朝一で紙片/沈黙一分/矛盾一行。そこへ今夜、一本、ひっそり加える。


 ——導入:他己紹介。


 眠りは、浅いが静かだった。夢の隅に、CAPTAINの文字が滲み、#4726の穴が柔らかく詰められていく。Backspaceの音は遠く、代わりに、紙のざらつきが骨に近い。だれかという幼い声は、今夜は一度も来なかった。代わりに、知らない子どもが黒板に**「すでに」「まだ」を練習で書いている光景が見えた。すでに。まだ。二語は、時間を柔らかく**する。


 ——起床手順、完了。


 砂時計。透明筒。黒板。導入:他己紹介。紙の上の点は乾き、艦長席の革は薄く呼吸する。Yes/Noは今日も刃物だが、矛盾の鞘に収められ、反問二回は場へ返される。監察は順番指定で流れていく。孤立は、拍で溶ける。結果が先に来たがる口は、過程の合唱で塞がれる。


 自己紹介を封じた朝の場は、静かで、丈夫だった。他己が増えるほど、自分に貼る形容は減る。形容は刃だ。観測は道具だ。道具は、拍に似ている。拍は骨に似ている。骨は折れにくい。最終日まで、折れないように、歌を短く、冷たく、皆でゆっくり運ぶ。


 昼の少し前、ミナが黒板の端に小さな絵を描いた。四角い卓のまわりに、八つの点。点は二つ欠け、薄い丸で囲まれている。丸の外に、孤立と書かれた小さな点がひとつ。矢印が、丸の中へ向かっている。矢印の途中に、沈黙、短句、紙、他己、矛盾、Yes/Noの言葉が小さく並ぶ。


 「道具は通路」ミナは短句で言った。「孤立から場へ通す。通した先で迷う。迷いが過程。過程が弱点。エコーの」


 ユウトは、うなずいた。迷うための勇気は、道具で作れる。他己は、その最初の扉だ。一人称の死角は、他者の手で埋める。彼/彼女の振る舞いで、自分の速度を削る。結果は、最後にくる。最後は、最終日に回せばいい。


 午後の光が、CAPTAINランプのガラスに淡く溜まった。AIは、乾いた声でひとつだけ付け加えた。「備忘。他己紹介は、共同記憶の代替。二者の拍を失った場に、多者の拍を増やす」


 ユウトは、心の奥でひとつだけ笑った。救われる笑い。カイがいない最終日に向けて、彼の沈黙を場で薄め直す。ひとりで運ぶ嘘は重い。みんなで分けた観測は軽い。軽さは、逃避じゃない。運搬の効率だ。だれかの声に「ここにいる」と返すための、拍だ。


 夜の前、ユウトは黒板の最下段に、ちいさく書いた。——「私は」より先に、「彼は/彼女は」。語尾は落とす。拍で終わる。拍で終わる文は、結果を先に呼ばない。文は残り、場は生きる。エコーは、過程の合奏の中では、孤立する。孤立が孤立する。孤立は、弱る。


 虚無区画の扉の前に置いた砂時計は、今夜、二度ひっくり返された。幼い声は来なかった。代わりに、扉の金属が、場の拍に合わせて、薄く呼吸した。金属は生きない。だが、拍は金属にも映る。映った拍は、場の骨になる。骨は、まだ折れていない。折れないように、他己で支える。一人称の死角は、皆で埋める。埋めながら、ゆっくり、最終日へ向かう。

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