第9話「艦長の席」
——再起動回数:009。
数字の輪郭が、夜の寝汗を一筋吸いこんだように重かった。枕元のフラグメント・ノートは、昨日のEVAの湿りと、ヴァルドの親指の記憶で、紙の背がわずかに膨らんでいる。上段のピクトを並べ直す。⚓・(刻印/分岐の親:あさのくろ)、□//(空ポッド二)、葉(ソラ/EVA役)、波×(ヴァルド/漂)、■空(ミナ不在)、{ }(デン)、S(マルタ)、△×(リラ吊り済)、|(カイ)。鉛筆の先で**|**の横に小さな点を打ってから、指を止めた。同時の点。二人で運ぶ嘘の点。そこにだけ、今朝は少し強く触れた。
虚無区画の扉に手を置く。金属は黙って冷たい。笑いはない。無いという情報を拍に置き、食堂へ向かう。砂時計。透明筒は空。黒板の骨は昨日の位置。朝一の手順は、紙の太字で増粘してある。
——朝一:紙片読み上げ/沈黙一分/監察結果/自己矛盾一行/短句質疑/投票。
「沈黙一分」カイが砂時計をひっくり返す。砂は落ちる。呼吸は四拍。まだとすでにが、場の四隅に杭を打つ。
砂が止み、ミナの席の空白が光の角度で揺れた。誰もその揺れに言葉を貼らない。評価語は今日も薄い。ユウトはノートの〈見た〉に、「虚無:笑い無し」「EVA後:外装パッチ持続」と書き、〈自分だけの違和感〉に「危険度注記→紙に書かない」とだけ記した。
昼。光は食堂の角度を変え、テーブルの金属脚は短く影を落とし始めていた。白昼、と言い切っていい透明さ。そこで事件は起こった。艦長席のパネルが、突然、青白く目を覚ます。今まで何度見ても沈黙していたCAPTAINランプが、白昼堂々、指一本置く前に点った。
誰かが座ったわけではない。最初に座ったのは——ユウトだった。起立と着席の一歩手前の身体が、拍の合図みたいに自然に腰を沈め、革の座面が短く鳴った。指先が無意識にコンソールの縁に触れ、CAPTAINの文字が呼吸を始める。
「認証、通過」AIの声は淡々としていた。「あなたは前周回で艦長でした。退避プロファイルを一部復元。閲覧/手順設計を許可。命令権限は限定」
場が、音のない拍手の前で止まったように静まる。デンは冗談を飲み込み、マルタは酸素曲線のペン先を止め、ソラは肩の高さを半センチ落とし、カイは眼差しだけをこちらへ寄越す。**“はず”**は喉に上がる前に砂へ吸われる。
額の内側に、針の痛み。短いフラッシュ。黒い座面、#4726、Backspace。ユウトはそれらを「観測」に押しこみ、評価語を閉じた。
「形式を更新する」ユウトは短句で言った。CAPTAINランプが低く頷いた気がした。「議論のUIを変える。場の速度が上がる前に、粘度を足す」
黒板の隅に、新しい枠が描かれる。チョークの白が太く、矢印は少ない。——
——形式更新(艦長席案)
①問いはYes/Noで返す(短句。今/ここを含める)
②反問は各自二回まで(砂で管理)
③最終弁明は“自分の矛盾の提示”を義務化(一行。短句)。
④議長は半回転で回す(砂時計)。
⑤自己矛盾欄は投票用紙の上(目が先に矛盾を見る)。
「Yes/No、嫌いじゃない」デンが小さく笑う。「でもYesが嘘の近道になる時もある」
「だから、矛盾を先に置く」ユウト。「Yes/Noの刃を、矛盾の鞘に入れる」
カイが短句で続ける。「反問二回、効く。速度を落とす」
ソラは手を挙げた。「今、ここで試。——私に三問」
ユウトは頷く。問いを短句で並べる。①「昨夜、索チェック、二重?」ソラ「Yes。今、ここ、言える」。②「咬み痕、見た→生物と仮説?」ソラ「No。仮説、紙」。③「リラの黒CO、落書き、見た?」ソラ「No。二人には見える、私は見えない」
反問の枠にソラがひとつだけ投げる。「艦長席。今、ここで動いた理由、わかる?」
ユウトは「No」と短句で返し、自己矛盾欄に静かに書いた。——矛盾:権限を使う/権限に使われる。
形式は場の拍を揃え、速度の尖りを削った。Yes/Noの往復は音叉のように場を整える。反問二回は、早口の舌にブレーキを掛ける。最終弁明の矛盾一行は、刃を一度、自分に向けさせる。
その日の終盤、形式はさっそくひとりを救い、ひとりを追い詰めた。
救われたのは、ソラだった。彼女は最終弁明でこう書いた。——矛盾:見えない嘘を信じたい/見えない嘘に寄りかかりたくない。短句の一行が、場の心拍を正直に打った。見えない落書きの件に乗らないことを正直と名付け、それでも場の拍に合わせる意志を短句に映した。Yes/Noの返答は静、反問は一回で止めた。速度を生まない。彼女の矛盾は、矛盾としての形を保っていた。
追い詰められたのは、デンだった。彼はYes/Noのフォームに器用すぎた。冗談をYesに変換し、深呼吸をNoで笑いに包もうとした。しかし最終弁明の欄に置いた一行は、こうだった。——矛盾:笑いで救う/笑いで隠す。紙の上では正しい。声の端で、逃げが鳴った。反問二回のうち二回ともを自分の説明に使い、場へ戻す矢印が薄かった。Yes/Noの刃が、矛盾の鞘から滑って自分の指を切った。
投票。砂時計。自己矛盾欄が投票用紙の上にあるせいで、目は無意識に矛盾を先に読む。評価語は紙に乗らない。矛盾だけが残る。票は割れ、保留が重く置かれ、最後の一票をユウトのフォームが受け取る。CAPTAINランプが低く灯り、Yes/Noの整列の上で、矛盾が決定の粘度を上げた。冷凍拘束。扉が開く。デンは一度だけ笑いの呼吸を作り、飲み込んだ。それは、救われる笑いではなかった。救いそこねた笑い。場は静かに見送った。
夜。護衛(清掃員)の話題は、二人COの闇を引きずりながら、今日も名乗られず、匿名投函は二枚落ちた。「守り先:艦長席/守り先:食堂」という奇妙な文がAIから読み上げられ、ソラが眉を寄せ、マルタが「場所を守るの、好き」と小さく笑った。場所に拍を貼る護り。人に貼らない護り。合理は曖昧に見えて、速度を落とす。
虚無区画の扉は静かで、笑いはない。無音は無関心ではない。ユウトとカイは沈黙一分を扉の前で行い、同時に息を吸い、同時に吐いた。二人の拍が、金属の内壁に薄く残る。その薄さは、紙のインクの薄さと似ている。寄りかかるな。手順は支えだが、言い訳ではない。
——明け方。AIの声が糸を切る。「消失。|(カイ)。入室ログ:白紙。通路:落書きなし」
ユウトは自分の胸が音でなく沈黙で鳴るのを、初めて恐ろしく思った。固定点の外側。最終日に信じろ、と言った彼は、最終日まで辿りつく前に、消えた。守れない誰か。儀式は万能ではない。拍は万能ではない。二人で運ぶ嘘は——今夜だけは、ひとりに落ちてきた。
眠りは、来なかった。来ないことが、拍を狂わせた。ユウトは初めて、泣きながら眠った。泣き声を拍に合わせる術が、今夜だけはどうしても持てなかった。枕の綿が湿り、紙が湿り、点が滲む。二人の点が、ひとりの滲みに広がる。Yes/Noも短句も、砂の音も、今日は彼の喪失には追いつかない。
——起床手順。
目を開くまでの時間が、ひどく長かった。手首の小窓に、数字が跳ねる。010。ユウトは深く吸い、短く止め、浅く吐き、長く止めた。呼吸の配分が、**崩れている**と紙に書く前からわかった。
食堂。砂時計。透明筒。黒板。席。——カイの席は、最初から空だった。椅子ははじめからそこになく、代わりに壁のフックに予備の工具ベルトが掛けられている。皆はその空白を**“最初からそう”の薄い膜で覆い、通りすぎる。マルタは「遅延:二・二〜三・〇」とだけ報告し、ソラは「EVA準備:持続」とだけ書き、ベラは透明筒のゴムを横に二ミリずらし、AIは「投函:ゼロ」を読み上げる。誰も「|」を口にしない。誰も彼の沈黙を喪わない。“最初から”**が、また場の口に甘い。
ユウトはノートの上段に、|のピクトを描こうとして、鉛筆の先を空中で止めた。紙に載る前に、手が震える。ひとりで運ぶ嘘は重い。二人の点が、ひとつしか残っていない指の腹で転がり、紙を汚す。ユウトは評価語を飲み込み、替わりに手順の濃度をさらに上げることを選ぶ。癖を濃くする。形式を太らせる。歌を短く、冷たく。
黒板の端に、新しい掲示が貼られた。
——形式の補遺
・Yes/Noの前に沈黙一拍。
・反問は場へ返す(自分の説明に使わない)。
・最終弁明の矛盾一行は語尾を落とす(言い切らない)。
・艦長席は議長回しの一員(特権の速度を薄める)。
「速度は刃」ユウトは短句のポスターの下に、鉛筆で小さく添えた。「刃は歌で鞘に入れる」
その下にさらに一行。——拍が消えそうな夜は、泣いてもよい。
文字は薄い。誰のためでもない。自分の骨のためだけに置いた儀式。泣くことを、拍へ戻すための短句。
会議は動く。EVAの続き、外殻E-17のパッチの再点検、咬み痕のピッチの再測。Yes/No。反問二回。矛盾一行。医官のいない現実、監察の白、デンの霜花、ヴァルドの親指——全部が紙の上で文に変わり、歌に吸われる。カイの沈黙は、紙の上に描かれない。描けないものは、拍でしか持てない。ユウトは呼吸を四拍に割りながら、指の震えを砂の音に合わせて小さくしていく。小さく。小さく。小さく。
昼の光は、艦長席の革にまた薄い呼吸を乗せた。CAPTAINランプは点り、ユウトの手の影がパネルにかかる。AIは淡々としている。「形式の更新は場の速度を抑制しています。危険度評価——保留。備考:共同記憶の喪失により、二者の拍がひとりの癖へ変換されました」
「知ってる」ユウトは声に出さず、口だけで言った。知ってる。でも書かない。紙に書くと、刃になる。言葉にすると、速度が上がる。泣くことは、拍に戻した。嘘は、ひとりで運ぶ。運ぶ間だけ、歌を短く、冷たく。Yes/Noの刃が、矛盾の鞘でぎしりと鳴る音を、場の低音にして——最終日へ、歩く。
夜、虚無区画の前。扉は静か。砂時計。沈黙一分。耳の内側で、同時の相手がいない拍の余白が、今夜はやけに広い。広い余白を、ユウトは骨で埋める。胸の中で、カイの短句が薄くうなり始める。「最終日の俺を信じろ」。俺はいない。最終日はまだ。ここは今。——拍。拍。拍。
個室に戻る。ノートの端に、小さな点。・。昨夜滲んだ点の横に、新しい点を乾いた手で置く。乾いた点は、泣いた痕の隣で、歌になる準備をしている。頁を閉じる前、ユウトは一行だけ、今日という日へ合図を残した。
——艦長の席は、座面ではなく、拍。
指の震えは、明日の沈黙一分の砂の音で、また少しだけ小さくなるはずだ。“最初から”が甘く囁いてきたら、Yes/Noの前に沈黙を置く。矛盾は、語尾を落として差し出す。反問は、場へ返す。嘘は、ひとりなら軽くはならない。それでも、運ぶ。運ぶ途中で、歌がまた誰かと二人になる日が来るまで。拍を数え、紙に触れ、CAPTAINランプの呼吸を見て、目を閉じた。砂の音は、遠くで一定だった。一定は、刃ではない。一定は、骨だ。骨は、まだ折れていない。折れないように、歌を短く、冷たく。明日へ。
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