第7話 生徒会長 椎名真衣


「はぁ……はぁ……はぁ……」


 息が切れる。呼吸が苦しくなる。それでも、決して足だけは止めなかった。


「ッ……!」


 唾を飲み込み、俺は校舎内を勢いよく駆けていく。


「ケン君はやーい! ちょっと待ってよー!」


 背後から化け物の声が飛んできた。息が少しも切れていないその余裕そうな声は、余計に俺の恐怖心を揺さぶってくる。やはりあいつは化け物だ。


 俺は何人もの生徒とすれ違いながら三階まで逃げ、そのまま廊下の突き当たりにある階段を駆け足で下りていく。校舎の端にある階段なだけあってそこには人気が一切なく、俺と雀のドタバタと駆け降りる音だけが周囲に響いていた。


 俺は背後から迫ってくる足音が大きくなっていくのを察知。その音に急かされて、一個飛ばしを選択する──が、一階に差し当たる最後の階段で突如視界が反転。


「あ」


 地面が、顔に近づいてくる。……いや、違う。顔が地面に──


「──ブゴフッッッ⁉」


 俺はつまずいて、地面に衝突してしまった。でも、柔らかった。


 ……ん? 柔らかい?

 

 手にほのかな温もりとともに、やんわりとした感触が走る。

 それは手にピッタリと収まる丁度いいサイズ感で、かつ溶けて交わる感じの、例えるならばそう……スライムのような触り心地であった。そしてその触り心地に、俺は覚えがある。覚えがあるから、絶句した。


「……ちょっとどいてもらえるかしら?」


 低い声音で、そう告げられる。

 俺は声の方へと恐る恐る視線を向けて、動転した。


 頭部にある二つの外跳ねが特徴的な薄桃色の長髪、可愛さを内包した端麗な顔立ち、モデルのようなスレンダーな体躯、明るい鮮緑の瞳。


 全体的に華やかな印象を受けるその女子生徒を、俺は知っている。


「す、すみませぇえええん‼ 椎名しいな風紀委員長ぉおおお‼」


 その名を叫んで、俺は跳ね返るように椎名真衣しいなまいから飛び退けた。

 椎名先輩は『風紀』という文字が刺繍された腕章を右腕に付けている通り、この学校の風紀委員会に所属している。それも現在二年生にして委員長という大役を任せられるほどの優等生で、かつ生徒からの信頼も厚い。あと、美人でもある。

 そんな憧れで美人な先輩を今、俺はクッション代わりにしたのだ。


「あわ……あわわわわわわ……!」


 その事実に、俺はめちゃくちゃ動揺してパニクった。加えて周囲には数多の書類が散乱していて、階段下の廊下を真っ白に染め上げている。

 恐らく椎名先輩が書類を運んでいたところに俺がぶつかってしまって、その衝撃によって散らばってしまったのだろう。

 俺は慌てて書類を拾おうとするが、背後から迫ってくる化け物の気配に背筋を凍らせる。


 マズ──!


 足音は着実に近づいてきていた。迷っている時間はない。

 俺は衝動のまま身体を駆らせて、咄嗟に椎名先輩の手を取り、引っ張った。


「来てください……!」

「え? なに⁉」

 隠れるならもうココしかないと、椎名先輩を廊下端にあった掃除用具入れに突っ込み、俺も入って扉を閉める。

 用具入れの中はとにかく狭くて、居心地なんてあったものではなかった。しかもそんな窮屈な場所に男女二人ともなれば、嫌でも密着してしまうわけで……、


 すっっっげぇ良い匂いする! それにこの柔らかいのって、まさか……⁉


 俺はこの密着した状況を堪の……じゃなくて必死に耐えた。


 少しでも身体を動かせば椎名先輩は吐息を漏らし、少しでも嗅覚に集中すればフローラルの芳醇な香りが鼻孔に充満し、少しでも身体を密着させれば脚が絡み合い……覚えのあるふっくらとした感触が欲を刺激してくる。


 未だかつてないほど女の子と密着した俺は、その全てに感動し、欲望のままに浮足立つ。


 フッ……断言しよう。これは、エロいッッッ‼


 あ、勿論故意ではないです。

 俺は純潔な心持ちでこの状況を受け入れていると、用具入れの目の前で足音がピタリと止まる。


「……あれ? ケン君何処行ったんだろう……?」


 用具入れの金網の隙間から、キョロキョロと辺りを見渡す雀を確認。どうやら本当にバレていないらしい。

 俺は息を潜める。

 だが事情を知らない椎名先輩は俺にギロリと睨みを利かせ、開口しようとした。


「ちょ──ムグッ⁉ ンンンンンンンンンッッッ‼」


 俺はすかさず、椎名先輩の口を手で塞ぐ。漏れる息すらも抑え込む勢いで、力いっぱいに押さえる。するとやはり唇に触れてしまうもので、潤いのあるプニプニとした感覚が手の中に蠢いた。

 それでも俺は性欲よりも雀への恐怖心が勝り、唇の感覚など気にも留めずに死ぬ気で押さえ続ける。

 やがて雀も廊下の角を曲がり、姿を消す。

 俺はそれを確認して、ホッと一息ついた。

 しかし安堵も束の間、痺れを切らした椎名先輩が俺の局部に膝を突き立てる。


「さっさと離れなさい‼」

「オ゛オ゛ッ⁉」


 俺が嗚咽を漏らしている間に、椎名先輩は腹部に足を付け、蹴り飛ばす。


「ブゴッッッ⁉」


 用具入れから弾き飛ばされ、尻もちをつく。局部から生じる痛みから惨めったらしくのたうち回り、悶絶した。

 用具入れから出てきた椎名先輩は、ゴミを見るような目で俺を見下ろす。


「フンッ、いい気味ね。……って、貴方は隣の……」

「うぅ……ぐっ……あっはい……、一年の国枝賢人と申します……」


 嗚咽交じりそう答え、持てる力で正座する。


「その……、本当にすみませんでした……。俺、急いでいたばっかりに……」


 頭を下げ、手を床に付け、俺は土下座の態勢を取った。そして、精一杯の謝罪をする。

 が、椎名先輩は威厳に満ちた様子で叱咤してきた。


「えぇ、そうね! 急いでいたという言い訳をして、勝手に女の子を用具入れに詰めちゃ駄目! あとそもそも廊下も走っちゃ駄目!」


「はいっ! めっちゃ猛省してます! どんな罰でも受ける所存でございます!」


 俺の誠心誠意の想いを椎名先輩にぶつける。

 その大真面目で真剣な言動に面食らったのか、椎名先輩はたじろいではため息をつき、めんどくさそうに口を開いた。


「……まぁでも今回はその誠意に免じて特別に許してあげる。……そんな事よりも、何事かしら? 見た感じ、女子生徒に追いかけられていたようだけど?」


 ギクッと、俺は肩を竦める。


「あーえっとそれは……ちょーっとしたトラブルが起きていまして……」


 視線を彷徨わせて、うやむやに誤魔化す。


 言えない、言えるわけがない……。二股を持ち掛けられているなんて、絶対……!


 俺は自身の学生生活を守る為、必死に言葉を繕い続けた。

 だが冷静な椎名先輩は冷や汗ダラダラの俺を見据えて、目を細める。


「貴方、何をしでかしたのかしら?」


 流石は風紀委員長。ものの見事に俺の焦りを見透かした。

 俺は言い逃れの言葉を吐く。


「いやぁ……どちらかと言うとしでかしたのは彼女と言いますか何と言いますか……」


 そう、俺は被害者なのだ。……ただ、関与している立場がヤバいというだけで。


「……?」


 椎名先輩は首を傾げ、訝しむ。

 恐らく、俺の異様な焦り具合に違和感を抱いたのだろう。まぁそうやって勘付いて気に掛けてくれるだけならありがたい事ではあるが。

 俺はアタフタと目を回す。すると床に散らばった書類が目に入った。


 そうだ、これだ!


「そ、そんな事よりも書類拾いますね! えーっとあれとこれと……ん? 何だこれ?」


 話題を逸らそうと拾い出した書類だったが、埋まったそれらの中から冊子のような物を発見する。分厚く、カバーを巻いているのを見るに本だろう。


 どれどれぇ~? 先輩は一体どんな本を……、


「……?『純潔王子と孤狼のナイショゴト』……?」

「⁉」


 その本は、いや漫画はカバーに男子高校生と思しき二人が描かれている。……問題なのは、その肝心の二人が乱れた服装で見つめ合い、抱き合っているという事。ちなみに純潔王子であろうキャラが蠱惑的な目で赤面する孤狼を押し倒しているので、結構主従関係が明白な作品であると窺える。

 俺はそれを鑑みて、確信した。


 うん間違いない、これBLだ! 


 そしてそんなBL漫画を落としたのは、ただ一人。


「あの……椎名先輩、これってもしかして……」

「⁉ いいえ⁉ それはさっき生徒が授業中に読んでいたのを没収したやつよ⁉」

「そ、そうなんですね……!」


 椎名先輩からの怒涛の否定に俺は動揺しながらも、その言葉を信じた。


 まぁそうだよな、あの椎名真衣風紀委員長がBL漫画を嗜んでいるわけないか。


 俺の知っている椎名先輩は、文武両道、成績優秀、厳格で威厳のある、憧憬のような人だ。そんな人が際どいBL漫画を読んでいるはずがない。もはや邪念ですらある。

 俺は顔を振り、改めてBL漫画に目を落とす。覚えのあるキャラが居たからだ。


「……にしてもこの純潔王子枠のキャラ、何処かで見た気が──」

「──秋一あきひと

「ん?」

「秋人こと新田秋一にったあきひとは私立高校に通う三年生。学校では生徒会長を務めていて、人々から絶大な信頼を置いている。しかしその裏では男女構わず気に入った人を性的に貪る癖があり、言わばビッチの権化的なキャラ。でもある一人の男子生徒との出会いをきっかけに、その運命の歯車は大きく回りだす。愛称はアッキーよ」

「…………」

「…………」

「先輩のですか?」

「いいえ、違うわ」

「そうですか」

「ええ、そうよ」

「…………」

「…………」


 この人は馬鹿なのだろうか?


 顔色一つ変えない椎名先輩を見据えて、俺は思う。

 そんな先輩の本心を暴く為にも、俺は今度孤狼を指で示した。


「この孤狼枠は──」

「──狂介きょうすけ、狂介こと牙狼狂介がろきょうすけは新田秋一と同じ私立高校に通う二年生で、精悍の顔つきから生まれながらにして周囲に怖がられ、常に孤独に生きてきた。そんな人生を歩んできたから狂介は結構寂しがり屋で、見た目に反してかなりピュアな性格をしているわ。そんなある日、狂介は秋一のビッチな一面を目撃して激変の人生を迎えることとなる。愛称は狂ちゃんで、ガッキーというあだ名はご法度。ちなみに私の最推しよ」

「…………」

「…………」

「……絶対先輩のですよね?」

「いいえ、絶対違うわ」

「そうですか」

「ええ、そうよ」

「…………」

「…………」


 馬鹿だ、この人めちゃくちゃ馬鹿だ!


 俺はジト目で椎名先輩を見つめ、カバーに書かれている作者の名を上げる。


森山もりやま──」

「──森山小五郎もりやまこごろう。漫画家兼イラストレーター。二千二十四年にTwixに投稿した短編漫画、『純潔王子と孤狼のナイショゴト』が好評を得て、商業デビューを果たした。その後も『純潔王子と孤狼のナイショゴト』や他作品は数々の賞を受賞し、かつイラストレーターとしても画集の販売やラノベの挿絵を担当するなど幅広い分野で活躍している、今話題沸騰中の人物よ。……本当にマジで先生は神。私めちゃくちゃ大ファンで先生の作品全部揃えてる。ちなみにこれが先生のサイン入りの画集。家に残り三つあるわ」


 椎名先輩の懐からサッと画集が現れる。


「…………」

「…………」

「絶対ぜーったい先輩のですよねぇ⁉」

「いいえ! 絶対ぜーったい違うわ‼」

「そうですかっ‼」

「ええ‼ そうよ‼」

「はぁ……はぁ……」

「はぁ……はぁ……」


 往生際が悪い馬鹿とか救えねぇな! おい!


 俺は胸中で悪態をつき、お出しされた画集を睨みつける。見ると画集は透明なファイルに包まれていて、埃一つ付かないよう綺麗に保管されていた。


 大好きな先生の画集を大切に持ち歩いているとか名誉腐女子かよ! 偉すぎだろ……!


 もはや感動すら覚えて、感嘆する。しかしこれ以上は埒が明かないと判断し、俺は目上とか女性とか関係なしに椎名先輩を陥れることにした。


「じゃあもう分かりました。せっかくですから俺が直接この漫画を職員室に届けますよ」

「なっ……! そ、それは……」


 分かりやすく動揺して、しどろもどろになる椎名先輩。

 俺は更に畳み掛ける。


「まぁ風紀委員長様はお忙しいでしょうからぁ? ここは俺に任せてくださいよぉ。まぁそれにぃ? 風紀委員長様は心優しいお方ですからぁ、後輩の親切心を無下にするはずないですよねぇ?」

「クッ……」


 歯噛みする椎名先輩の眼前で、おちょくるようにBL漫画をフラフラと揺らす俺。

 我ながら、さいっこうに性格が悪いと思う。とはいえ致し方なし。名誉腐女子の一面を完璧に曝け出すには、今はこの方法しかないのだ。

 などと供述する俺は、断腸の思いで椎名先輩を試す。そう、決してこの状況を楽しんでいるわけではないのだ。……楽しんでないぞ?


「いやぁ早く届けなきゃなぁ。そんでもって、授業中にBL漫画を読んでいた奴の面を拝んでみたいなぁ……」


 チラチラと、椎名先輩にいやらしい視線を送る。


「椎名先輩は知ってるんですもんねぇ? それが、誰なのかを」

「……うっ」


 椎名先輩は追い詰められ、涙目になる。

 だが、俺の猛攻はまだまだ終わらない。

 今度は漫画のページをペラペラと捲りながら、言った。


「しっかしこのBL漫画、非常に興味深いですねぇ。ペラペラとページを捲っていると、あるキャラが登場する場面だけ開き癖になっていますよぉ? たしかこのキャラ、牙狼狂介でしたっけぇ?」

「……!」

「おっ? ここの狂介のページだけやたら開き癖になっていますねぇ。え~なになにぃ?『お、俺! 新田会長の事が好きなんだッ‼』ですとぉ⁉ うっひょぉぉぉ~! いつも寂しがり屋でピュアな性格のキャラがここぞという時に見せる、めちゃくちゃかっこいいぃぃぃシーンじゃないですかぁ!」

「……っ‼」

「うぉおおおおおおおおお! BL最高‼ BL最っ高ぉおおおおおおおおおおおお‼」


 漫画を天高く掲げ、豪快に叫ぶ。

 椎名先輩は羞恥心からなる赤面と涙を堪えるあまり崩れ落ち、空に手を伸ばす俺から漫画を取り戻そうと必死に縋る。

 俺はそんな椎名先輩を見下ろして、高笑いをした。


「わーっははははははははははは──」

「──何やっているの……、ケー君……」

「あ……」


 突如廊下の角から現れた楓に、俺は完全に思考が止まる。

 楓は疑問でも問い詰めるわけでもなく、ただただ俺と椎名先輩を見て、絶句していた。

 その瞬間、初めて気付く。

 俺は、楓や雀と同じ側の人間なのだと……。

 我に返って、冷静に周囲を見渡した。


 赤面して悶えては悪魔にしがみ付く椎名先輩、際どい表紙のBL漫画を掲げて叫ぶ俺、それらを見て絶句する楓。


 ……これを地獄と言わず、何と言おうか。

 俺はもういっそ振り切って清々しい態度を取り、爽やかな笑みを浮かべた。「やれやれ……」と言いたげに、頭を押さえる。


「フッ……認めたくないものだな、自分自身の若さ故の過ちというものを……」

「それケー君が言ってもカッコよくないよ……?」

「…………」


 彼女からの無慈悲で辛辣な一言は、俺を燃え尽きた灰のように意気消沈させるのだった。

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