第5話

***








ツン、とした、消毒液の香りが鼻をくすぐる。ぼんやりと「(保健室……)」なんて、連れ出してくれた今の場所が思い当たった。





ほんの少しだけ、落ち着いてきた呼吸。けれど、震えは馬鹿みたいに収まらない。


遠矢仁が、丁寧に丁寧に、私を硬いソファーへと乗せる。膝を立てて自分を抱き締めるように小さくなりながら、背凭れに擦り寄った。








カーディガンを1度も手放せないまま、視界を覆ったまま、深呼吸を繰り返す。


私の目の前に、遠矢仁が屈んだ気配がした。遠矢仁以外の誰かの気配は、感じない。保健医も利用者も、誰もいないのかも知れない。





いつまでもこのままじゃ駄目だ。

お礼、ちゃんと言わなくちゃ。




だって、それでなくても。

遠矢仁は、だって。








ゆっくりと、カーディガンを身体から話していく。涙で濡れた頬や、情けなく赤く染まっているだろう鼻や目を隠すことなくさらけ出した。


やっぱり屈んでいた遠矢仁と顔を合わせる。その眉間や表情は、分かりにくいけれど悲しそうに歪んでいた。





小さく息を吸い込む。


ごめんなさい。


そう伝えたくて、小刻みに揺れてしまう唇を開いた。








瞬間、ガチャリと扉が開く。ズカズカと我が者顔で入ってきた男に、私の中の時間が止まった。








「百花……?」





馴れ馴れしく呼ばれた名前に虫唾が走る。それなのに、どこか懐かしく暖かく感じるのだから、私の頭はどうにかなってしまったらしい。





遠矢仁の存在を無いものに、駆け寄ってきた男。当たり前のように伸ばされた手のひらを、咄嗟に振り払った。








ぱちん。





条件反射のよう、鳴った爽快音。けれどそこには、裏腹な拒否や完全なる否定が隠されている。








「……ごめんなさい」


「……ももか、」


「……でも、触らないで」





相手の男────私の幼なじみが、酷く傷付いた顔で立ち尽くす。重力に従い落とした手のひらは、行き場もなく下がった。








走馬灯みたいに、さっきの続きが頭を過ぎる。

私の過去が現実が、無音映画みたいに流れていく。




















奪われた、私の身体。


変わってしまった、私の環境。





好奇の目。

怖くなった人間。

上手く話せなくなった心。





味方だった幼なじみ。

支えてくれていた筈の幼なじみ。








けれど。








中学の校舎。

通いなれた教室。

オレンジ色の箱の中。





別に、好きでもなんでもなかった。

ただ可哀想で、ほっとけなかった。

それは人として、当然のこと。





私の側にいる理由を説明していた声。


全部が嘘だった、救いの言葉。

偽りだった、優しい想い。








彼女に語っていたあの日。

彼女と寄り添って帰っていた昨日。

彼女がいるくせに手を伸ばしてきた今日。




















近寄らないで。

私を汚す人間は。


もう誰も、側にこないで。








「……大丈夫だ。」





しん、と静まり張り詰めた保健室。黙りを決めていた遠矢仁が、低く落ち着いた声で、私に告げる。








「お前、何も悪くない。」





遠矢仁を見つめる。その瞳は、似合わなく柔らかい何かで象られていて、息が苦しくなった。


そっと、唇を噛み締める。


それでも私の我慢は、いとも簡単に崩れてしまう。








ぽつ、ぽつ、ぽとり。

ぽたぽた、ぽた。


あの日の放課後と同じよう、私の頬に、熱い涙が伝っていった。

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