第4話

***








月明かり。

アスファルト。

遠矢仁。

中学。

プリント。

赤。

ポスト。

旋毛。

制服。

腕。

手のひら。

泥。

黒い帷。

夜。





月明かり。








遠矢仁に送られて帰宅して眠って起きても、月が去って太陽がやってきても、私の日常は特に変わらない。当たり前だけれど、そんな当たり前が少し苦しくて、情けなかった。


既視感のよう、思い出していく風景に歯止めを利かせる。これ以上は、だめ。もう、終わり。





大丈夫だ。

大丈夫、大丈夫。








廊下を歩く。午後の授業開始10分だろうといつだろうと、校内は騒がしい。でも今は、賑やかな音が有難かった。たくさんの色に紛れて、私の黒も薄れていける気がしていた。








「ぅおっと……って、宇佐見さん?」





曲がり角を、俯きがちに進む。そのすぐ先で、たくさんのプリントやノートを抱えた担任と出会す。嫌悪感と、私の不注意でたくさんのモノが落ちそうになった気まずさ、申し訳なさが同時にやってきた。


驚きから、不自然に甘い声に変わった大人を見上げる。こういうところだ。こういうところが、私が担任を苦手意識の中に取り込んでしまうんだ。







だって、豹変ともとれる態度は、怖い。



近付かないで。

触れないで。



もう2度と、私の前に現れないで。








「お詫び」


「……え?」


「少し、手伝って?」





子犬のよう、くるんと愛想を丸めたよう。小首を傾げる仕草に鳥肌が立つ。きっと、担任のことが好きな他の女の子たちにバレれば、非難轟々。逃げ場などなくなる。


仕方なく、手渡されるノートを抱える。それはとてもじゃないけど少なくて、手伝いになってないんじゃないかと心配にもなった。








普段、あまり使われていない資料室。担任に指定された場所へとノートを重ねていく。すぐ側にある窓の向こうには、重たいグレーが重なっていた。








「宇佐見さんは、遠矢と仲良しなんだ?」





ぽつ、ぽつ。2粒だけ、透明なガラスに雨が張り付く。そして、次の瞬間には一気に降り注いできた。日本史で習った、鉄砲銃での撃戦みたいに、休む間もなく、ザアザアと。








本能的に、頭の奥で警告が鳴った。けたたましいサイレンのよう、ナニかが危険だと身体中が報せてくる。





がちゃん。

がちゃり。



扉が、しめられた。

鍵が、まわされた。








どさとざバタバタと、たくさんのノートやプリントが床に落ちる。担任の双眸は、闇に染まっていて吐き気がした。














「きのう、送ってもらってたじゃん」


「………………」


「いつもいつも、毎日欠かさず、僕が責任を持って見届けてあげてたのに……」





最近、私は帰宅が遅かった。会いたくない人がいたからだ。それはまあ、いい。自業自得だし、誰も悪くない。


担任が、ポケットからキーケースを取り出し翳してくる。貼り付けたような笑顔から、車で先回りして私の自宅付近に潜んでいたんだと理解した。








担任が近付く。

壁のギリギリまで後ずさる。


豹変した態度。

意味深長に撫でられた肩。


湿っぽい手のひら。

ひらいた瞳孔。

興奮気味な呼吸。














私の中の時間が、滅茶苦茶になった。














中学校

セーラー服


アブラゼミの生き急いだ鳴き声

アスファルトに擦れる背中側


陰湿な体育館裏


押さえつけられる腕や足

たくさんの気持ち悪い笑み


興奮した男たちの声

生臭い息





奪われた、私の身体








「─────────!!!」





断末魔のような、悲鳴が飛び出した。

もう、嫌だ。


あんな地獄は、もう、嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌しにたいしにたいしにたいしにたい許されるのなら死にたいんだよ本当は。

















ダ レ モ ワ タ シ ニ フ レ ル ナ

















肩が激しく上下する。呼吸さえおかしくなって、息をしているのか止まっているのかもう判らない。視界は滲んで、手も足も痺れて、崩れ落ちるように蹲る。








すると、ガンッ、と破裂音のような扉を裂くような音が数回続いた。最後に一際大きなそれが鳴り、ひとつの足音が部屋の中に増える。








ふわり、床から身体が離れた。


顔からお腹まで、視界は真っ暗で包まれる。

柑橘系の香りで染まるカーディガン。








「違うんだ!話してたら急にこうなって、」





誰も何も言っていないのに、担任が言葉を重ねる。単なる言い訳にしか聞こえなかったのは、私だけじゃなかった。











私を抱きかかえた相手の足が、思いっきり振りかぶる。耳馴染み悪い暴力音。容赦なく鳩尾に入った蹴りに、担任は情けない嘔吐きを重ねる。








「黙れよ」





低い低い遠矢仁の声は、純粋な怒りだけで象られていた。

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