32.夫婦の喧嘩①

 誰もが羨ましがるとても仲の良い夫婦がいたとして、喧嘩をするとすれば一体どんなことで、どんなふうに喧嘩をするものなのか。

 それも長年連れ添い、周囲からもとても親密だと認知されているとしたら。


 リーリヤにはまったく想像できない。

 仲睦まじい夫婦自体はわかる。

 本や物語の中でたくさん見てきたから。


 師の屋敷には様々な書物があった。記憶を遡ってみれば人間関係を描く物語が多かったように思える。


 英雄譚、日常譚、そして恋愛のお話。

 温かくも冷酷で酸いも甘いもごちゃ混ぜとなった愛執渦巻く数々の本が揃っていた理由も今なら察することができる。


 きっと長く寂しい魔女の孤独を慰めるためだ。仮初であれど人の感情に触れることは生を実感させ、哀れな心の慰みになる。


 もちろん読めない書物も少なくなかった。リーリヤが知る言語―――アルマスから現在は使われていない古代語だったと聞いた―――とは別のもっと古くて複雑な言語だってある。

 師も読めないと言っていたので既に失われた言語だったのかもしれない。


 だが、作り話と現実はやはり違うのだと思う。


「で、どう?聞こえる?」


 リーリヤが尋ねるとヘレナは人差し指を唇に当てて見せた。


「しっ。静かにしてください。ただでさえ聞こえづらいんですから」


 リーリヤの前ではヘレナが厨房に続く扉にぴったりと張り付き、聞き耳を立てていた。

 厨房にいるであろうセルマの両親の会話を盗み聞きするためだ。


『いい加減にしろ』


 昼時の店内に響き渡った大声は男性のものだった。店の奥から響いてきたことからもセルマの父親が発したのは確実だ。

 普段は寡黙で落ち着いた父親なのだと震えながらセルマが言っていた。


 次いで何か金属が床に打ち付けられるような激しい音が鳴り響いた。それも一つや二つではない、けたたましいほどに金属の掻き立てる悲鳴が重なった。


 無論、何事かと気になったのはリーリヤ達だけではない。常連と思わしき客の何人かは心配そうに様子を確認しようとしていた。


 しかし、身内の不仲をおいそれと他人の目に触れさせるわけにもいかなかった。厨房のかまどの中にいる妖精のことも考えると尚更だ。


 セルマは心配する客達を宥める対応に追われている。


 その間にリーリヤとヘレナがセルマの代わりに状況を探っている最中だ。多分、大切な家族が口汚く罵りあう様子を見たくないという気持ちもセルマにはあるのだと思う。


 もちろん、喧嘩ではなくてただ単に料理の出来に不満があって叫んだとか、偶然体がぶつかって鍋などの調理器具が散乱してしまった可能性もなくはない。


 扉越しにも微かに漏れる男女の声の切迫さを聞く限りはそんなことはなさそうであるが。


「ううん。聞こえるには聞こえるんですけど、何を言っているかまではわからないですね」


 ヘレナはいつもの仏頂面に加えて険しく眉根を寄せる。


 深く考えることもなくただセルマに言われたとおりに厨房の状況を確認しようとしたリーリヤを引き留め、喧嘩の原因を探るいい機会だと言ったのはヘレナだった。


 セルマの家族のために真剣に考えるヘレナに対し、リーリヤは『ふうん』としか思わなかった。


 碌に話したこともない他人の喧嘩に特に思うことはない。魔女として常に人から疎まれてきたリーリヤにとっては喧嘩程度の細やかな悪意なんて気になるものではないし、自分に向けられているわけでもないのだから尚更だ。


 気になるとすればヘレナの方だ。


 ヘレナだって親であるトビアス達とは上手くいっていない。自身の家族との関係が拗れてしまっていることくらいヘレナも自覚しているだろうに。

 なのに自分の問題はそっちのけで、セルマのためにこんなにも必死になっている。


 だから単純に興味が湧いたのだ。セルマだけではなく、他人であるヘレナさえ悩ませる家族の喧嘩というのはどういうものか。


「ねぇ。ちょっと変わってよ」


 扉に耳を当てていたヘレナは迷惑そうにリーリヤを見やる。

 その目は邪魔をするなと語っている。


 しかし、リーリヤは引き下がらなかった。ヘレナの気持ちはわからなくもないが単純に興味が勝った。それにどうせ聞こえないと言っているのだからリーリヤに場所を譲ってくれても問題ないだろう。


「いいから。私にも聞かせて」


 そう言うとリーリヤは扉の前に張り付いていたヘレナを肩で押しのけるように無理やりどかす。


 年齢に見合わない大人ぶった振る舞いや生意気なほど丁寧な口調をしていても体格はまだ子どものそれ。リーリヤがその気になればヘレナが敵うはずもない。


「ああっ、もうっ。押さないでくださってば」


 ヘレナの不満を聞かなかったことにして、リーリヤは扉の向こうに意識を集中する。


『か・・・く・いいかげん・・・・・さい。こん・こども・・・・まねを・・』


『おま・・そどう・・わかっ・・・ない・だ』


 ヘレナの言っていたように扉越しではかなり聞き取りづらかった。

 セルマの両親がなにやら揉めている程度には聞こえる。けれども、途切れ途切れ過ぎて内容がわかるほどではない。


 もっとよく聞こうとリーリヤが扉に耳を押し付けようとしたところでリーリヤの身体があらぬ方向に弾き飛ばされた。


 犯人はヘレナだ。


「邪魔しないでください。セルマさんのご両親の喧嘩の理由を突き止める貴重な機会なんです。あなたはあっちにでも行っててください」


 小声なのに不機嫌さをたっぷり含めた声色だ。

 さらにはしっしっと手で追い払う仕草までしてくる。


 これにはリーリヤも癇に障るに決まっていた。


「あんたね・・・!」


 もとはリーリヤの興味本位だったのでちょっと聞き耳を立てたらそれで引き下がるつもりでいたのだ。


 だが、そんな気は失せてしまった。


 やられて黙っているリーリヤではない。当然、やり返す。こうなったらヘレナよりも先に喧嘩の原因を突き止めてやる。


 そして、悔しがるヘレナを焦らしに焦らしてから慈悲深いリーリヤは教えてやるとしよう。それが仕返しだ。


「あうっ」


 リーリヤが勢いをつけて身体ごとヘレナにぶつかれば、小柄なヘレナは簡単に体勢を崩して地面に尻をついた。


「ふんっ」


 床に転がるヘレナに対して鼻を鳴らしてから、リーリヤは再度扉に耳をくっつけた。


『たの・・・・・ゆび・をはず・・・れ。き・・・・くなりそ・・』


『・・どもいうけ・・・げさがす・・わ。ゆび・・みにつけ・・・わた・・かっ・・・ょう』


 やはり今度もはっきりとは聞き取れない。それでも引っ掛かる単語があった。


「今、『指』って言った?」


 二人とも『指』がなんたらと言っていた気がする。しかし、指が一体どうしたというのか。


 もっと詳しいことを、と思ったところでリーリヤはまたも突き飛ばされそうになる。


「よくもやってくれましたね!お返しです!」


「ぐむっ」


 なんとか倒れこむのを耐えた代わりに口から奇妙な悲鳴がこぼれた。

 恥ずかしさを隠すようにリーリヤは今も体重をかけて押しのけようとしてくるヘレナに文句を言う。


「何すんのよっ。というか、喧嘩を売ってきたのあんたでしょ」


「はい?何を言っているんですか?やっぱりおバカさんなんですね。あなたから嫌がらせしてきたんでしょうが。今、わたしはとっても大事な調査をしているのに。あなたこそ大して関係ないんだから余計な手出ししないでください」


 リーリヤとヘレナは扉に顔を押し付けて耳をそばだてながらも器用に押し合っていがみ合う。


 そこでリーリヤは気付く。そういえば厨房の方から聞こえていた声が聞こえなくなっている。


「へ?」


 次の瞬間に身体の支えにしていた扉が急になくなって、リーリヤとヘレナは崩れるように倒れこむ。


「あいたっ」


「うぅ。痛いです・・・」


 二人揃って受け身すら取れずに間抜けにも床に転がってしまう。


「あら?」


 リーリヤ達が呻きながら打ち付けたところを摩っていると頭上から声が降ってきた。

 そこで扉が開けられたのだとやっとリーリヤは状況を把握する。


 なにせ、その声はさっきお茶会の最中にも聞いたばかりだ。その上、今の今まで扉越しにも耳にしていた。


「セルマのお友達の・・・?」


 首を傾げるセルマの母に対して、リーリヤは下手糞な愛想笑いを浮かべるしかなかった。

 こっそり喧嘩の原因を探る作戦は残念ながら失敗に終わった。

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