8.魔女の嫉妬②

 問題は夕刻が迫った閉店間近に起きた。


 一人の店員がそのことに気づいたのだ。


「売り上げが足りない」


 もうすでにほとんどの客が帰った後の静かな店内にその一言はよく響いた。


 しんとした沈黙を経て店員がぞろぞろと集まってくる。


「ちょっとどういう意味それ!お金が足りないの!?」


「え?え?計算が間違ってるとかじゃなくてですか?」


 途端に騒がしくなる店内。だがそれは昼間のような明るい雰囲気ではなく、不穏な気配に満ちている。


 本を読んで暇を潰していたアルマスの耳にもその騒ぎは聞こえてきた。

 どうやら計算が得意な店員が何人か手を挙げて、改めて検算をするようだ。


「騒がしくしてすみません。ちょっと問題事があったみたいで」


 店長がアルマスの側に寄って来る。一応はまだ閉店前なので店員達がうるさくしていることへの謝罪というわけだ。売り上げの計算のやり直しは店員達に任せきりにしているらしい。


「いやいや。気にしないでよ。それにしても、お金が足りないって?」


「ええ、まぁ。やっぱり聞こえてしまいますよね」


「そりゃ、こんだけガラガラならね」


 店内に客と呼べる人間はもうアルマスしかいない。そのアルマスもリーリヤの仕事が終わるのを待っているだけなので客と数えるかは微妙だ。


「大丈夫なの?」


 聞いてみると店長はさほど気にしていない様子だった。


「よくあるんですよ。ちょっとした間違いくらいは。皆さんいろんなトッピングをされているでしょう?そうすると人によって料金も全然違ってきますし、少しばかりずれちゃうことがあるんです。お昼過ぎとか忙しい時間だと特に」


 アルマスも納得する。あれだけ複雑な商品だ。普通に対応していてもちょっとした拍子にトッピングの加算を間違えてしまいそうだ。


 それも次々に客が訪れる時間帯ともなれば猶更だ。多少の計算間違いは日常茶飯事というわけか。


「『魔女の嫉妬』ってやつだね」


「そうですね。困ったものです」


 しかし、店員からの更なる報告がそんな店長の表情に影を差す。


「やっぱり数字が全然合わない」


「全然、ね」


 アルマスは店員の発言の気になった部分を繰り返す。店長の言う『ちょっと』ではなくかなりの数字が間違っているらしい。


「アルマスさん、すみません」


 店長は一言アルマスに断りを入れるとすぐさま金額の確認に入る。

 

 そして、店長の息を飲む声が聞こえた。


「1万7000メナも!?」


 1万メナを軽く超える金額に店内にひりついた緊張が走る。


 100から200メナもあれば1食分のパンを買うことができる。この店の飲み物はトッピング次第で値段が変わるとはいえ、1つ1000メナを上回ることも珍しくない贅沢品だ。それが10杯以上分の料金がずれている。ただの計算間違いではすまない問題だ。


 ことによっては店員の誰かが売り上げを盗んだのではないかと疑いが出てもおかしくない。


 いや、すでに店員の誰もがその可能性に気づき、互いに互いを目線で確認しあっている。自分はやっていない、誰かが盗む場面も見ていないと無言で主張しあっている。


 これは長くなりそうかな、とアルマスが思っていると店員の一人の女性が声を上げる。緑色の制服を着た女性だ。


「あの店長、今日って特別にイベントとか、セールとかやってましたか?」


「いいえ。やっていませんよ」


 場にそぐわないちぐはぐな質問のようにアルマスには思えた。アルマスの記憶では店内で特別なイベントごとは何もしていない。


 そういった案内も説明もなければ、看板にも何も書いていない。それは働いていた彼女達自身が一番よくわかっているはずだ。


 きっと店長も同じことを思ったのであろうが、店長は無下にすることなく丁寧に答える。すると表情を変えたのは質問をした店員の方だった。


「そんな。私聞いたんです。お客さんが帰るときに『今日はいつもよりお得だったね。何かイベントでもあったのかな』って話してるのを」


 それを皮切りに他の店員も声を上げていく。


「あたしもそれ聞いた」


「確かにそんなこと言ってたわね」


 混乱するのは店長の方だ。イベントごとはしていない。店長がそういう以上、この店ではやっていないのだ。


 だがこの難問の答えは案外簡単に解決した。今度は赤い制服の女の子が前に出る。


「それってあれじゃないの。あの子がたくさん失敗するからそのお詫び的な」


 赤い制服の店員の指差す先にはリーリヤがいた。


「え・・・?わ、私・・・?」


 何か問題が起きていることはわかっても、何が問題なのかを理解しておらず、所在なさげに立っているだけだったリーリヤは急に周囲から注目を浴びてびくりと肩を震わせる。


「私もそれ思ってた。彼女が会計担当のときってなんか安いなって気がしてたの。これって店長が指示してたんですよね。ずれってこれのことじゃ・・・」


 どうやらリーリヤの仕事ぶりがあまりにもお粗末なものだから、店長の機転で対象の客の料金を値下げしてお詫びしていたのではないかと言う。リーリヤの周辺にいた店員達は皆そういう認識を持っているようであった。


 これで解決という空気が彼女達の間に広がるが、肝心の店長は難しい顔をしている。


 それが示すのは一つ。店長はリーリヤにそんな指示はしていない。迷惑をかけた客の料金を割り引くようになんて伝えていないのだ。


 結局のところ原因は単純だった。

 間違えたのだ。リーリヤは会計をするときに計算を間違えた。それも周りにいる店員がただの計算間違いだと思わず、特別割引だと誤認するくらいには盛大に。


「ど、どーしよ・・・」


 己の失敗に気づいたらしいリーリヤは血の気が引いて顔が真っ青だ。

 何も言わずに黙っている店長の様子に違和感を覚えた店員達がざわめき始めたところで、アルマスは大きな音を立てて本を閉じた。


 店内の視線が自然とアルマスに集まってくる。


「あの方ってもしかして」


「ほら、先生よ。すごい錬金術師の」


「やっぱり。こんな近くで初めて見たかも」


 若い女性ばかりの店員達はアルマスを見てひそひそと内緒話をする。この街ではそこそこ有名なアルマスは面倒事を避けるために客や店員から見えづらい隅の席にいたのだが、気づいていなかった店員もそれなりにいたのだろう。


 アルマスは彼女達に爽やかに微笑みかけてから店長の方を向く。


「お取り込み中ごめんよ、店長。会計をしたいんだけど」


「あ、はい。ただいま」


 駆け寄ってきた店長にアルマスはすっとヴァル金貨を1枚テーブルに置く。


「えっと。アルマスさん?」


 店長が対応に困るのも仕方がない。

 ヴァル金貨は1枚で10万メナに相当する。金貨では額が大きすぎるのだ。今日アルマスが注文した品は全部で5000メナにも達していない。こういう場合、銀貨や銅貨で支払うのが一般的なマナーでもある。


「今日一日この席を占領してしまったからね。お詫びを兼ねてお釣りはいらないよ」


 アルマスは店長の目を真っ直ぐに見る。程なくしてその意図は伝わったようだった。


「そう、ですね。ではこれはありがたく頂いておきます。・・・いつもありがとうございます」


「いやいや、こちらこそ。とても有意義な時間を過ごすことができたよ。ここは素晴らしい店だ。また来させてもらうね」


 店長はアルマスにもう一度礼を言うと店員達を振り返った。


「そう言えば計算が合わないという話でしたね。すみません。私の一存で何人かのお客様には特別に料金の割引をしていました。誰にどれくらいの割引か、ちょっと私も覚えてなくて悩んじゃったんですが思い出せました。ちょうど今足りないくらいの金額だったので何も問題ありませんよ」


 なーんだ、と言って肩の力を抜く店員達。空気が弛緩したところでちょうど良く鐘の音が鳴るのが聞こえた。教会の時を告げる鐘だ。気付けばもう閉店の時間を迎えていた。


「皆さん、遅くならないうちに帰ってくださいね」


 ぞろぞろと店員達が店の従業員スペースに戻っていく。制服から着替えて帰り支度をするのだろう。


 離れていく店員達の中で一人だけリーリヤをじっと見つめる視線があった。先ほどリーリヤを指差していた赤い制服の娘だ。しばらく意味深な視線を向けていたが何をするでもなく彼女も奥に引っ込んでいった。


 残ったのは棒立ちになっているリーリヤと店長だけだ。


「きっと初めてのお仕事で緊張しちゃってたんですよね。まったく『魔女の嫉妬』は本当に嫌になります。リーリヤさん、あまり気にしないでくださいね」


「・・・はい」


 店長はリーリヤを責めなかった。新人がよくやる間違いの延長としてリーリヤの失敗を受け止めている。労りの笑みを浮かべている店長とは対照的に、リーリヤの表情は固いままだった。


 こうしてリーリヤの仕事初日は表向きはつつがなく、けれどリーリヤの心にさざ波を立てて終了した。

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