18.かくして魔女は追放される③
生ぬるい風が肌をざりざりと擦る気味の悪い感覚が全身を襲う。背骨を身体から抜き取って直接神経をぞんざいに捕まれたような不快感も一緒だ。
腐った汚物をどろどろに煮詰めたかのような異臭が鼻の奥に入り込み、目や耳からも無理矢理に染み込んでくる。
強烈な感覚に思わず目を閉じて堪え忍び、再び目を開いたときには水を頭から被ったかのように冷や汗でびしょ濡れだった。
「気持ちが悪い。頭がおかしくなりそうだ」
周囲を見れば大地はどす黒く染まり、そこら中から鼻が曲がりそうな黒紫色のガスが吹き出ている。青々としていた木々は枯れ腐り、枝も幹も歪みに歪んで巨人に握りつぶされた後のようだ。
どういう原理なのか、煌々と光っていたはずの満月は滴る血を浴びたかのごとく鈍い紅色を放っている。
「『魔境』」
魔女が追跡を止めるはずである。アルマス達は知らぬうちに魔境に迷い込んでいた。
横ではリーリヤも辛そうに両手で口元を押さえている。その額にはアルマス同様に汗が浮かび、息をするのも苦しそうだ。
呼吸する度に喉が焼け、瘴気の毒が身体を侵し、命が削られる感覚が絶え間なく続く。魔具を使って少しでも瘴気を遠ざけようとしても魔境の異様な環境は魔具にも干渉するらしく励起することすらできなかった。
「なんだ。やっぱり魔女でも辛いんだな」
「・・・来たの自体初めてよ。ここにはししょ・・・、あの人しか立ち入れなかった。まさか、こんな場所だったなんて」
魔境の狂気が心を失いかけていたリーリヤに正気を戻したのはせめてもの救いだった。リーリヤは極端に参っている様子ではあるがその瞳に光を取り戻していた。声に力がないのはこのひどい環境のせいだけではないのは明白だ。師である魔女からの徹底的な拒絶が彼女の精神を蝕んでいる。
「疲れ切っているところ悪いけど、こいつをどうにかできないか。悪霊に見つかる前にここから抜けたい」
アルマスは魔境に入ってなお暴走を続けている狼の妖精を指し示す。どういうわけか先ほどからぐんぐんと速度を増しており、凄まじい速度で流れていく魔境の異質な景色は視界に映るだけで生きた心地がしない。
魔女であるリーリヤならば妖精を制御するのは容易いはず。彼女の力を借りられるならば魔境はもちろんこの森から抜け出すのも難しくない。魔具が使い物にならない現状では最善にして唯一の方策と言えた。
だがリーリヤは弱々しく首を横に振った。
「無理」
「は?」
「さっきからやってるけど全然言うこと聞いてくれないの。きっと、この瘴気のせい。命令するどころか私達を攻撃しようとする意思すら感じる。せいぜい瘴気に染まるのを遅らせて私達に襲いかからないようにするのが精一杯」
アルマスは状況を把握し、事態を正確に理解するにつれ、じわりと強烈な危機感が湧き上がる。
「いや、やばいでしょ」
「うん」
力なく頷いたリーリヤは眠るように目を閉じる。魔力の消耗で気を失ったのだ。慌てて揺すり起こそうとしたアルマスだが、そのとき遠くに恐ろしいものを見つけた。『
魔境の狂気に染まった妖精は悪霊と呼ばれる。そう、悪霊。あれはもはや妖精ではない。人間の尊厳を踏み躙り、嬉々として壊して弄ぶ災害にも等しい存在だ。
それも森の悪魔の代名詞、悪名高き『絡み茨の猿人』である。無数の木の枝や蔦が絡み合い、ぐちゃぐちゃにこねくり回して、無理矢理人の形に押しとどめたような姿。ぽっかりあいた二つの眼窩に不気味に浮かぶ朧げな暗い光。その危うい眼差しをアルマス達の方に向けて、おぞましい笑みを浮かべた。
このままでは二人とも死ぬ。
瘴気のせいで手足に碌な力も入らず、魔具もまったく使えない。ソリから飛び降りたところで魔境から出る前に悪霊共になぶり殺しにされるだけだ。
『いいか、アル。本を読め。あらん限りの智を身につけるんだ。それがお前自身を守る盾になる』
脳裏に蘇るのは幼い頃に聞いた父の声。今更あの男の声を聞くとは皮肉である。今までさんざっぱらアルマス達家族に迷惑をかけてきたくせに。
ソリが急速に『絡み茨の猿人』に近づく。
悪霊が腕を振り上げてアルマス達を叩き潰そうと待ち構えている。覚悟を決めるほかなかった。
「いいよ、やってやる」
アルマスは寒くもないのにかじかむ指に力を込めて、暴走する狼の妖精の尻尾を握りしめた。すると、狼が奇妙な雄叫びとともに更に速度を上げる。タイミングをずらされた悪霊の一撃はアルマス達の頭上をかすめるだけで済んだ。
だがそれで終わりではなかった。
そこからは確かに地獄であった。
魔女が主導した妖精の追撃とは比にならない悪霊達の歓迎が始まった。
悪意も狂気も妖精とはまるで違う。人を殺し、喰らうための力と姿を持った悪霊は容赦なくアルマス達を襲う。非力な餌を奪い合うように悪霊達が押し寄せ、互いに互いを蹴散らし壊しながら獲物であるアルマス達を狙い続ける。
アルマスは無我夢中だった。
意識すら曖昧になる死闘の中、遠目に視界が捕らえたのは醜くいほどの暗黒の世界でそびえ立つ白い一本の樹。純白の大樹がなぜこんな場所に生えているのか、一瞬疑問を覚えたものの考える余裕もなくそのまま思考の彼方に消えていった。
気付けば太陽が昇っていて、アルマスは森から随分と離れた街道に寝転がっていた。
ソリは完全に砕け散り周囲に散らばっている。氷の狼の妖精も力尽きた末に溶けて消えかけていた。
リーリヤはアルマスの隣で横になっている。静かに呼吸をしているのがわかるのでまだ気を失っているか、寝ているのだろう。
アルマスは地面に寝たまま空を見た。澄んだ青が広がり、ゆったりと白く細い雲が泳いでいる。
息を吸って、吐いた。
自分が生きていることを自覚する。アルマス達はあの地獄のような魔境を生き延びたのだ。
「ここは、どこ?」
真横からリーリヤの困惑の声が聞こえてくる。アルマスは空から視線を外さずに返答する。
「おや。起きたんだ。一応、どこかの街道だろうね。けど、少なくとも白霞の森じゃないよ」
「っ・・・!」
白霞の名を聞いてリーリヤは息を飲むように震えた。あれだけのことがあったのだ、思うところも多いだろう。
彼女の心に去来したのはどんな感情だったのか。あの恐ろしき魔境から逃げることが出来た安堵か、それとも儀式に失敗して師の期待に添えなかった後悔か。もしかしたら慣れ親しんだ故郷を追われることになった悲しみだってあるかもしれない。
「―――逃げて来ちゃった」
まるで悪いことでもして叱られるのを待つ子どものように怯えるリーリヤにアルマスは首を横に振った。
「あの状況じゃ仕方がなかった。あのままだと君はきっと大変なことになっていたよ。だから、逃げて良かったんだ」
「それでも、あそこは私の居場所だったのに・・・」
心の準備をする間もなく森から追放されたリーリヤの気持ちがアルマスにも少しは理解できた。いつまでもあると思っていた故郷や家が自分の意思とは無関係に奪われ、または失われる。その虚無感は計り知れない。
でもアルマスは思うのだ。それは世界を知らないからだと。
居場所だって人との繋がりだっていくらでも作ることが出来る。視野を広げ、新しい世界に飛び込めばすぐにわかる。しかし、きっとこれは言葉だけでは伝わらない気がする。
「私、これからどうなるの」
ぽつりとリーリヤが言葉を漏らす。
アルマスは答えなかった。
それは役目も立場も何もかも失った彼女自身がこれから考えるべきことだからだ。
人が倒れてると街道を通りがかった馬車から慌てて人が飛び出してくるまでアルマスとリーリヤはずっと空を眺めていた。
この日、一人の魔女見習いはその立場を追われ、どこにでもいるただの平凡な娘となった。
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