16.かくして魔女は追放される①
結論から言おう。
儀式は失敗した。
アルマスとリーリヤはひしゃげてぼろぼろになったソリの上で小さく身体を丸めて身を寄せ合っている。ぞんざいに木や岩にぶつかる度に聞こえる嫌な軋みに冷や汗を流しながら、振り落とされないように這いつくばってソリにしがみつく。
ソリを引く狼の妖精は一心不乱に駆けており、アルマスの言うことを聞く様子はない。もとより妖精を自在に制御する術などアルマスは持っていないので諦めるしかなかった。
がたんと小石を踏んで、ソリが大きく跳ねる。儀式を経て一切の雪が消え去った森はその姿を一変させ、乱雑に茂る草木の隙間を埋めるように茶色い土くれがむき出しになっている。雪のない大地を滑るソリのなんと乗り心地の悪いことか。せめて落ち葉でもあれば違ったのだろうが、ガリガリとソリの滑り木が地面と擦れて削られる音がまるで自身の精神がすり減る様のように錯覚する。
リーリヤは未だ呆然としている。気を失っているわけではないものの話しかけてもぼんやりとしていて相槌の一つも返ってくることはない。当然と言えば当然だ。あんなことがあったのだから。
アルマスは暴走する狼に振り回されることになった原因を思い返した。
発端は儀式の失敗にあることは間違いない。
霞の森の女主人こと当代魔女が激怒したのだ。その怒りはまさに壮絶。使い魔である梟の一撃は一つの丘を破壊して余りある威力だった。
アルマスとリーリヤは崩壊する丘に巻き込まれた。アルマスが咄嗟に魔具で身を守らなければ、今頃生き埋めだったであろう。
なんとか土砂崩れから逃れたアルマスの頭上から巨大に膨れあがった梟が睨め付ける。
「遍歴の智者よ。念のため、確認をしておきます」
理性が弾ける寸前。アルマスにはそう思えた。それほどまでに激された煮えたぎる感情が漏れ出ている。
「なにを、ですかね・・・?」
「此度の惨事、他の魔女共の介入があったのか。知りたいのはそれだけです」
魔女。黄金の栗鼠であったり、蛇であったりを使い魔にして此度の儀式を見守る、もとい監視していた存在。彼女らが儀式に余計な手出しをしたせいで森開きの儀式が失敗したのか。その確認をアルマスに求めていた。
そもそも魔女だけでなく遍歴の智者までもが儀式に列席するのはそれが理由でもある。諍いと軋轢の多い魔女同士では妨害が入る可能性がある。そのため魔女の抑止となるように、正当に儀式が行われるように第三者の立場として遍歴の智者が求められるのだ。
そして、その正当性が妥当であったかをアルマスは尋ねられている。
間違いなくアルマスの返答次第でリーリヤの立場が変わってくる。陥れられた哀れな魔女見習いなのか、それとも自らの力を見誤った愚か者なのか。
一度だけ唾を飲み込む間を置いてから、アルマスは観念して答えた。リーリヤにとっての絶望を。
「嘘ついてもばれるだろうから言いますけど。俺の見た限りでは横槍はありませんでした。あの儀式は真っ当に行われていましたよ」
もちろん村の人間の邪魔があったのは一つの原因なのは間違いないだろう。しかし、村人は所詮何の力も持たない只人だ。魔女ならぬ彼らでは森や妖精に影響を及ぼすことは決して出来ない。だから、それに気を取られたリーリヤの落ち度と解釈される。
「―――そうですか」
灰色の毛並みの梟の色が変わっていく。いや、あれは羽の色が変化しているのではない。信じられないことに影が黒いへどろのように沸き立ち、梟の足から這い上がっている。
「魔女に親愛の情はありません。家族も友人も我らにはいない。孤独こそが魔女に許された唯一の在り方」
魔女は訥々と語る。
それはなんと寂しい生き方なのだろうか。そんなものは人の暮らしではない。
「リーリヤ。貴女を弟子として育てたのは、あくまでこの森を預かる魔女としての責務があったから。そこに情があったわけではない」
リーリヤの身体が小刻みに震える。その顔色は真っ青を通り超して白に近い。もともとの肌が白いだけにより病的に見える。師であり、育ての親であるはずの魔女からの無慈悲な告白。アルマスにはリーリヤの心情を慮ることすらできない。
「それでも魔女としての持ちうる全てを授けたはずです。貴女が魔女として、このヴェルナの森を長く安らかに治めることができるように」
「ぅ・・・。ぁ、ぁ・・・」
リーリヤはか細く嗚咽を溢す。その宵闇色の瞳は悲嘆と悔恨で曇り、梟を、自らの師である魔女を正面から見据えることさえできないようだった。
「私は何度も伝えましたね、この儀式は魔女の人生でただ一度の機会しか与えられないことを。貴女が森に認められることができるのは今宵だけなのだと」
梟の胸の辺りまで黒い闇が浸食していく。
冷え冷えとした魔女の声色にアルマスの背筋に冷たいものが走る。この後になにが起こるのか察したアルマスは黒々と塗れた梟に注意を払いつつ、取るべき手立てを模索する。
「貴女は失敗した。この地を、ヴェルナの森を、そして私を裏切ったのです」
梟の頭が黒い粘液のような影に完全に飲み込まれた。猛禽類特有の無機質な赤い瞳が憎しみに彩られる。
「愚かな娘、リーリヤ。―――古来より、儀式に失敗した魔女は命をもって森を宥め鎮めるのがしきたり。師として最後のけじめをつけましょう。その命、森に還すがいい」
「それは遠慮させていただきますよっと!」
影の怪物と化した梟が身構えるよりも先にアルマスはリーリヤを抱えて走り出す。
駆け込んだのは森の中、そこには儀式が始まるよりも前に丘の上から落下したソリの残骸が木に引っ掛かっていた。氷の狼の妖精とソリを繋いでいた何本もの革紐はほとんどが千切れている。けれど幸運なことに1匹だけ革紐が繋がったまま残っていた。
アルマスは力任せに木から紐を外すとリーリヤを抱えたまま壊れかけのソリに乗り込んだ。
「そら、走れ!早く!今すぐ!走れったら!」
アルマスが声を張り上げるが氷の狼は聞く耳を持たない。地面に伏せたまま身動きすらしない。
「無駄なことを。今このときよりこの『ヴェルナの森』の全てが貴女を敵と見なす。『遍歴の智者』よ、邪魔立てするというならば貴方も生きて森から出られるとは思わないことです」
影と一体化した化け物から不気味に反響する魔女の声が発される。
「たかが儀式がダメになったくらいで大袈裟な。いいじゃないですか。人間誰だって失敗の一つや二つありますよ」
「物事には限度があります。子どもの些細な間違いとはわけが違う。これは森開きの儀式、この森の、引いてはこの大陸の安寧を懸けた重要な祭事でした。失敗など万に一つも許されなかった。たった一つの糸のほつれがやがて布に穴を空けるように、此度の過ちは世界をまた一歩滅びへと近づけた。遍歴の智者、貴方にも聞こえるでしょう。森の嘆く声が。苦しみ悶える怨嗟の叫びが」
森がさざめき軋みを上げる、そんないい知れない感覚こそが魔女の言う森の悲鳴だというならばアルマスにでさえ理解できてしまった。
「さて、時間稼ぎは終わりでいいですね?」
「くそっ。リーリヤ!・・・は、無理か」
狼の妖精を動かすならば魔女の力を持つリーリヤの方が適している。だが、儀式をしくじり、あまつさえ師に命を狙われる状況に彼女は心を失った人形のように静かだ。虚空を見つめ、目の焦点があっていない。
いっそのこと魔具を駆使して戦うか。魔女相手に勝てる気は微塵もしないが時間稼ぎくらいにはなるはず。
「お?お?おい、急にどうした、って。ぐおっ」
アルマスがソリから立ち上がろうとしたそのとき、氷の狼が機敏に身を起こす。そして、とてつもない勢いで走り始めた。態勢を崩して倒れこんだアルマスは、揺れるがままにソリから振り落とされそうになっているリーリヤを慌てて捕まえる。
背後では巨大な黒い化け物が小枝でも折るかのように木々を蹴散らしているのが見えた。どろどろとした粘液のようにも見える黒い影を纏った化け物は梟のときにあった飛行能力を失ったみたいだ。代わりに洒落にならない馬力で森を粉砕しながらアルマス達を追ってくる。
あまりの恐怖に我を失って逃走する氷の狼に引きずられ、アルマス達は必死にソリに縋りつくしかなかった。
こうして真夜中の長い追いかけっこが始まったのだ。
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