15.森開きの儀式③
静寂が森を支配する中、リーリヤが丘の先へと歩みを進める。
あれだけ騒がしかった魔女達も今ばかりは静かに彼女を見守っている。
アルマスは緊張で汗を垂らすリーリヤの横顔を無言で眺めているほかなかった。
リーリヤが枝の杖を空へと掲げる。そして、魔女の歌を紡いだ。『森開き』が始まったのだ。
「聖なる木」
朗々とリーリヤの声が森に響く。決して大きな声ではないのに、染み渡るように未だ雪で白く染まったままの森に伝わってゆく。
リーリヤから白い魔力がたゆたうのと同時に、森にも白い霧がじんわりと沸き立つ。
「守護の白樺」
白い霧は止まる気配がなく、どんどん吹き出て瞬く間に森中を覆っていく。
背の高いトウヒの木を悠々と飲み込んで、霧は白い濁流のように森の果てを目指して広まる。
輝く粒子を纏った白霞が月の光を受け止めて虹色に波打つ様子はまさに幻想的だ。
「生贄のトウヒ」
この短時間に何度も耳にした詩を唱え終わったときには見渡す限りの森が白い霧に満たされていた。もう雪の白さなのか、霧の白さなのか判別がつかない。
だがこれで終わりではない。『森開き』はまだ始まったばかりだ。
リーリヤは枝の杖を下からすくい上げるように大きく振り上げた。亜麻色の髪が風に煽られて舞い上がり、横顔が月に照らし出される。
「蜜の付いた手を差し出して、森のベールをめくりましょう―――」
視界の先、森の深奥に濃霧が切り裂かれるようにして黒々とした一画が突如として現れる。異様な領域だ。どす黒く染まった枯れた木々がひたすらに連なっているだけの荒れ果てた大地。不思議なことにその黒い森にだけは雪が残っておらず、白い霧も入り込めないようだった。傍目からは白い雲海の中に浮かぶ黒い孤島のように見えた。
遙か遠く離れたこの丘の上にいても息が詰まるような圧迫感を覚える。
「あれが魔境か」
アルマスの呟きに肩の上にいたままだった小鳥がアルマスを見上げ、あわせて魔女の影が応えた。
「おや。見るのは初めてかな。あれこそが我らを縛る忌まわしき地。魔境だよ」
アルマスは黒い森から目を離すことができなかった。
今にもおどろおどろしい何かが伸びてきて、アルマスの首を絞めにかかるようないい知れない悪寒がずっと途切れない。目を離した瞬間に命を奪われる。そんな予感がしてならなかった。きっと死の大地というのはこの場所のことを言うのだろう。
「なんとも情けない。『遍歴の智者』の代理殿はどうやら恐怖で言葉もでないようだ。震えて動けなくなる前に帰ったら如何かな」
黄金の栗鼠の影が嘲るように言う。
怖い。苦しい。それは間違いではない。それでもアルマスは振り払うように笑ってみせた。
「ご心配どうも。でも、この程度どうってことないですよ。自分の身くらい自分で守れますからね」
栗鼠の影はつまらなそうにするとリーリヤの方に向き直った。
「ひとまずは、かのぅ。あの娘、魔女としての素質は十分ある。流した魔力もこの地によく馴染んでおる。今のところ悪霊共も動く気配はなさそうだしの。しかし、酷なのはここからじゃぞ」
蛇の影が淡々と様子を伺っている。
「言っておくが小僧。もし万が一にも森が暴れ出すことがあれば妾はすぐに『戻る』からな。他の魔女共も同じであろうよ。それだけは心しておくがよい」
アルマスは気を引き締めた。
森が暴れる、というのは儀式の失敗を意味する。それこそ、およそ考えられる最悪の事態と言える。そうなったら魔女達はリーリヤやこの土地すら見捨てて逃げると言っているのだ。
薄情とは思わない。優先順位の問題だ。単純に、この森は彼女達の守るべき土地ではないのだ。
「さあ、次です。森を目覚めさせなさい」
梟の魔女に従って、リーリヤは次の段階に移ったようだった。
「聖なる木、幸運の林檎、祭壇の松。銀の鎖を伝って森の腕で迎えましょう―――」
一言ずつ区切るように時間をかけて歌い上げる。
その効果は顕著だった。
重たい地響きが微かに鳴ったかと思ったら、立っていられないほどの揺れがアルマス達を襲う。
何が起きているのかを見定めるべく眼下の森を見やればあまりの事にアルマスは間抜けにも口を開けてしまった。
「これは、また・・・。とんでもない、な」
とてつもない地震と地鳴りを伴って発生したのは、まさしく伝承に聞く神々の御業と見紛うほど。
森が、変動していた。大地がうねり、木々ごと盛り上がって動いている。森全体が脈動し、木や地面を覆っていた白い雪は地面に飲み込まれ、若々しい葉の緑色が顕在化する。瞬く間に冬の白は春の緑へと切り替わった。木も石も丘も湖でさえも等しく移り変わり、作り替えられていく。
古き森が跡形もなく壊され、生命力の溢れる新しき森が再生する。
これこそが『森開き』。霧として伝わったリーリヤの魔力に森中の妖精達が応えている。
恐るべき魔女の秘術。そして、妖精の力。
こんなものを見せられたら、人間の智恵や技術などなんてちっぽけなんだと思い知らされる。
「それでも、なんだよな・・・」
アルマスの呟きは誰にも聞かれることなく轟音にかき消された。
リーリヤはさすがに消耗したらしく、肩で息をしながら汗だくになっている。ぽたぽたと垂れ落ちる汗が彼女自身のすべてを振り絞って必死に儀式に臨んでいることを教えてくれる。
未だ鳴り止まぬ地響きの中、リーリヤが絶えず見据えているのは黒き森だった。あれだけの大規模な地形の変動があったにも関わらず、黒い森は健在だ。それどころか、アルマスの見間違いでなければ黒い森の範囲が広がっているような気がする。
いや、やはり見間違いではない。現在進行形で黒い領域が徐々に広まっている。
「これは、まずいのでは」
「まずいとも。押されてる。よく耐えてるとは思うけど、それでも浸食が強すぎる。『魔境』の領域の縮小どころか拡大するなんてね。『ヴェルナ』が『森開き』を強行するだけのことはあったわけか」
アルマスの予感に小鳥の魔女が同意する。
他の魔女達も明言はしないながらも概ね同じ考えのようであった。リーリヤの能力をなじる者はいない。それ以上に土地の状態が悪化しているとみている。
それでも押され気味ながらもなんとか抑えられるはずだった。黒い森の拡大を許しながらも儀式自体は完遂することもできるはずであったのだ。このまま何も起きなければ。
「なんという・・・!馬鹿なことを!」
梟の魔女の怒りの滲んだ叫びが耳に届く。
アルマスも見た。森の片隅で赤々と火の手が上がっていた。
「あれは村の方か」
村にほど近い部分で濁った煙を纏ってたくさんの木が燃えていた。
何があったのかを想像するのは容易かった。
村の人間が森に火を放ったのだ。故意なのか偶然なのかは知りようもない。会話を一方的に打ち切った魔女への腹いせの可能性もあれば、無謀にも森に分け入って遭遇した妖精から身を守るために火を放ったということも考えられる。
どちらにしろ大差はない。重要なのはすでに森の広範囲に火が燃え移ってしまっていることだ。
その勢いは弱まることなく激しさを増していく。
せっかく雪化粧が落とされたばかりの瑞々しい緑の森が無残にも焼け落ちている。
「霧が仇になったのか」
まだ小火であったのであれば対処も簡単であっただろう。
しかし、森に満ちた白い霧の中ではちょっとの煙など見分けがつかない。火が付いて直ぐに気付けというのも無理な話だ。
例え森が燃えてしまうのだとしても、この場は無視して儀式を継続するべきであった。焼けた森は魔女の力があれば再生するし、深奥より浸食を強める黒い森の方が遙かに脅威だったからだ。
だが、リーリヤはそうしなかった。その理由を小鳥の魔女が教えてくれた。
「愚か者達が妖精から逃げ惑っているね。大方この霧の魔力に酔って不安定になった妖精を無闇に刺激でもしたんだろう」
魔女を、リーリヤを追いかけようとでもしたのか。
幾ら錬金術師の作った魔具があるとはいえ、妖精の潜む夜の森に踏み込むとは考えなしが過ぎる。
平時ならまだしも、儀式の最中となればリーリヤに遠く離れた妖精の制御を期待するのは難しい。幸いというべきか、不幸というべきか、派手に火の手が上がったことからも『火泡の篝火』は準備しているはずだ。魔女という枷が外れて凶暴になった妖精相手にどこまでできるかはわからないが自力でどうにかして貰うしかない。そうでなければ死が待つだけだ。
「何人かは死人がでるか・・・」
「はっ。代理殿は甘いことを言う。運が良ければ何人か生き残る、の間違いだろう」
栗鼠の魔女が断言する。
悪辣な物言いだが、正直なところを言えばアルマスも同じ考えだった。
「優しいのう。次代の『ヴェルナ』は」
蛇の魔女がどうでもよさげに呟く。そして、続けた。
「だがそれは傲慢じゃぞ」
リーリヤは苦しそうに眉をしかめながらも枝の杖を振るう。アルマスの目には燃えさかる森の一部がほんの少し動いたような気がした。おそらく村人を助けるためだ。
「ぐぅ・・!」
「リーリヤ!村の人間など放っておきなさい!彼らは自らの責任で無謀にもこの森に踏み入った。それも、この儀式の日に!その代償を払うことになったまでのこと。そんな些事よりも儀式に集中するのです!」
村人に意識を割いただけ、黒い森の勢いもまた強くなる。森の奥と外から、黒と赤の津波が押し寄せてリーリヤを苛む。
村人の犠牲を見なかった振りして儀式を完遂すれば、これ以上の『魔境』の浸食を留めることができる。もし村人の救出を優先すれば、それだけこの白霞の森は黒く染まり荒廃する。
取るべき選択肢は明かだ。自分勝手な村の人間なんかよりも森を守る大義を優先する。
だがときとして人は合理的な判断を選べないときがある。
リーリヤは両方を取った。森を守り、村人も助ける。出来たのであれば、最善であろう選択肢を。それが間違いであるとはアルマスも言いたくなかった。
「っ、森を、守るおまじない。森を縛る、おまじないっ。赤と、白っ、と、黒の絹糸で、束ねましょうっ―――!」
最後の歌が紡がれる。『魔境』から溢れ出る瘴気を遮るために、膨大な木々が防壁となるよう森が変化する。同時に炎が天へと昇る燃えさかる森の区画は地面から水が噴き出て雨を降らす。
そして、黒き森は儀式が始まる前のように白い霧のベールに囲まれてその姿を隠した。
儀式の完遂、その言葉がアルマスの脳裏に過ぎる。
リーリヤは力を使い果たしたかのようにその場に座り込んだ。
「・・・リーリヤ。我が弟子。なんと、なんと」
梟が夜空に浮かぶ。高く、高く、月にすら届くのではないかと思わせるほどに。いつのまにか、周囲には魔女達の使い魔がいなくなっている。栗鼠も蛇も、あの巨躯を誇った熊さえも姿が消えている。
「愚かなことを!!」
霞の森の女主人、遠雷のような彼女の呪詛が吐き出された直後に森の一部で白い霧が吹き飛んだ。
汚泥がごとき真っ黒な瘴気が恐ろしいほどの速さで森を黒く染め上げる。『魔境』が急速に範囲を拡大していた。
ほぼ同時に上空で白が弾けた。
その勢いは凄まじく、アルマスは白い津波に飲まれたのだと思った。
白い津波は霧だった。それもリーリヤが生み出したものよりも遙かに濃密で重く身体に纏わり付いてくる。
霧の奔流の中、アルマスは頭上から巨大な影に覆われていることに気付いた。空に浮かんでいた梟は膨大な白い霧状の魔力を森中に撒き散らすとともに、その体積を巨大に膨れ上がらせていた。羽ばたくことを止めた梟が重力に従い落下する。その真下にはリーリヤがいた。
「リーリヤっ!」
巨大になった梟がリーリヤを踏みつぶそうとする。
呆然とへたり込んだままのリーリヤは逃げることさえできない。駆け込んだアルマスが彼女を抱えて助け出す。だが、巨体となった梟はアルマス達に直撃こそしなかったものの、その一撃は丘の一部を破壊するには十分すぎるものであった。
足場が崩壊する。もはや立つことすらできず、アルマスはリーリヤを守るように抱きしめながらただ落ちて行くしかなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます