第22話 初訪問

「♪」

 自室に帰ってきた凛は、鼻歌交じりであった。

 彼女以外に誰も居ない。

 大家族で住めそうなくらいに広々とした部屋なのだが、1人暮らしなのだ。

 同居人は当初、黒服が想定されたが、流石に令嬢と暮らすのは、倫理的に良くはない。

 また、隣近所の住民からも恐れられる可能性がある。

 そういったことから凛は1人で生活し、家事も全てこなしている。

 初めての1人暮らしは、当初、組員が周囲に居ない為、楽しかった。

 しかし、数日もすれば孤独感を覚える。

 帰っても誰も居ないのは、非常に寂しいものだ。

 調理しても1人前。

 洗濯もすぐ終わる。

 何より恐ろしいのが、孤独死だ。

 急病や事故で倒れた際、気づかれない限り、誰も助けに来てはくれない。

 また、救急車を呼んでも1階のオートロックを突破しなければならない。

 更に高層階に居る為、駆け上がるにも相応の時間がかかる。

 その上、部屋の玄関に設置された電子錠も開く必要がある。

 この間、苦しみ続けなければならない。

 時間が経てば経つほど、死亡率は上がりやすい。

 現に2016年にカナダの医師会が報告した資料では、心停止の場合、高層階ほど生存者は少なくっている。


 心停止で搬送されて生きて退院できた割合

 対象者:心停止で搬送された8216人

 期間 :2007~2012年

 場所 :トロント市等

・1~2階  4・2%(5998人中252人)

・3階以上  2・6%(1844人中48人)

・16階以上 0・9%(216人中2人)

・25階以上 0%  (30人)

(出典:カナダ医師会誌『CMAJ』 2016年1月18日発行)


 死亡率が上がるのは、


・救命士が現場に到着するのに時間がかかりやすいこと

自動体外式除細動器AED等の救命処置が遅れやすいこと


 等が指摘されている。

 これはカナダでの資料なので必ずしも日本と同様かは分からない。

 しかし、内容的には、日本で起きていてもおかしくはない話だ。

 高層階は人気を集めやすい場所であるが、現実的には短所もあるのが現実である。

 更に災害の際、エレベーターが停まる可能性がある為、発生時に閉じ込められたり、復旧までの間に買い物等で沢山の階段を上り下りる必要がある。

 何はともあれ、凛はこのマンションで不安を抱えながら生活していた。

 学校に通いやすい場所にあり、なおかつ防犯設備が整っていることから選んだ家だが、いざ住んでみると色々と面倒だ。

 かといって組員に頼んで同居するのも、私生活プライベート的には望んでいない。

 複雑な思いの中、生活していたが隣室のの存在は、非常に心強い。

 制服を脱いで入浴を済ませ、ジャージに着替える。

 そして玄関から出ていき、隣の部屋の前まで行くと、チャイムを押す。

 ピンポーン。

 たりな機械音だ。

 しかし、人々から避けられることが多かった凛には、ほぼ初めて他人の家のチャイムを押した。

『はーい』

 カメラで確認したらしく、入居者は尋ねること無く玄関を開けた。

「紅葉さん、早いね。もう着替えたんだ?」

 そういう東郷もまた、ジャージ姿だ。

 その体からは、シャンプーや石鹸の匂いがする。

 ほぼ同じ時機タイミングで帰宅したのに、凄い早さだ。

「うん。東郷君も早いね」

「そうだね」

 長風呂派だったり、風呂上がりにスキンケアを欠かさない人ならば、長時間かかるだろうか。

 が、東郷は基本的に短時間で済ましている。

 長風呂はしたい所だが、風呂は裸であり、更に自衛用の武器を持ち込みにくい場所である為、攻撃を受けやすい。

 事実、日頃、鍛えて戦場に慣れている筈の武将であっても風呂場が最期になった者も多い。

 平治元(1160)年に平治の乱を起こした指導者の1人、源義朝は敗戦後、逃走中に立ち寄った家臣の家で入浴を行った。

 平治の乱の顛末てんまつを描いた軍記物語の『平治物語』によると、しかし、家臣の父子は恩賞欲しさに裏切り、入浴中の彼を襲い、殺害したという。

 その後、裏切り者の父子は、義朝の三男・頼朝によって討たれている。

 その頼朝の次男・頼家も元久元(1204)年、鎌倉~南北朝時代前期の歴史を記述した歴史書である『保暦間記』によれば、風呂場で祖父・義朝同様、殺害された。

 死因については諸説あるものの、鎌倉時代初期の史論書の『愚管抄』によると、襲撃者は頼家の首にひもくくりつけ、陰嚢ふぐりを切り取って殺害したという。

 源氏以外では、後世の戦国武将・太田道灌も風呂場で亡くなった。

 当時は下剋上の時代でもある為、その有能さを恐れた主君・上杉定正は、文明18年(1486)年、彼を現在の神奈川県伊勢原市に在った居館・糟屋館かすややかたに招き、入浴を勧める。

 そこで道灌は入浴中に刺客に襲われ、殺害された。

 日本以外では、フランス革命の指導者である、ジャン=ポール・マラーも入浴中に殺害された。

 恐怖政治を行う山岳派モンタニャールの指導者の彼は、持病の皮膚病を治療する為に入浴していた所、1793年、若い女性の訪問を受ける。

 そして彼女から胸部を短刀で刺され、殺害された。

 暗殺犯は山岳派と対立関係にあったジロンド派の支持者で山岳派を嫌悪していたシャルロット・コルデーであった。

 その後、彼女は、24歳という若さで断頭台ギロチンに送られた。

 こうした事例ケースから、東郷が危機管理の見地けんちから入浴を短時間で済ますのは、理解できる話だろう。

「入って良い?」

「良いよ。でも、そんなに面白くないよ」

「それでも入りたい」

「分かった」

 凛の強い意志に、東郷は嫌がることなくすんなり受け入れる。

「どうぞ」

「失礼します」

 初めて同年代の異性の部屋に入って行く。

 玄関とそこから見える廊下は、何一つゴミが落ちていない。

 また、お香がいているのか、室内は良い匂いだ。

「これ、ラベンダー?」

「そうだよ。ああ、匂い、大丈夫?」

 東郷が気にしたのは、嗅覚過敏や化学物質過敏症のことだろう。

 前者は匂いを敏感に感じ取り、後者は匂い等の成分に触れると頭痛等の症状を引き起こす。

 東郷にはその傾向が無い為、お香を焚いても問題は無いのだが、世の中にはこのような人々も居る為、接する際には配慮が必要だ。

「うん。大丈夫だよ」

 ここでも気遣われ、凛は嬉しくなる。

「それよりも煙害えんがいは大丈夫なの?」

 お香の煙には、発癌性物質の一つのベンゼンが多く含まれていることが東京都健康安全健康センターの研究によって示されている。

 それによれば、お香を焚いて1時間燃焼した後の部屋のベンゼン濃度は、仏壇用線香の約2倍という結果になっている。

 更に九州大学の発表では、お香と原材料が似ている線香の煙がマウスの肺に有害な影響を与えていることが示されている。

 お香に含まれる有害物質が原因とされる健康被害としては、


・呼吸器の炎症

・結膜炎

・咽頭炎


 等が考えられる。

 お香は精神が落ち着く長所も有するが、健康上でいえば、被害が大きいのもまた事実だ。

 凛の心配を他所よそに、東郷は笑顔で答える。

「心配してくれてありがとう。原材料を確認して無添加の物を買っているから。あとは適度に換気もしているし」

 どちらも有害性を避ける為の方法だ。

 安全性の高いものを買い、使用中も部屋に匂いが充満しないように換気をおこたらない。

 健康被害に遭う可能性を下げる方法をちゃんとっている辺り、これも危機管理の観点から重要なことだ。

「凄い考えているね?」

「義妹と同居しているからね。俺1人ならそこまで深くは考えないかもだけど、同居人が居る以上、そこはやっぱり重視しないと」

「うんうん」

 公私問わずクラリッサを大切していることを知り、凛の心は温かくなっていく。


[参考文献・出典]

 東京都健康安全研究センター「線香、お香及び蚊取り線香の煙中ベンゼン濃度」

 九州大学「線香の煙を吸入すると喘息が悪化する?」

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