第6章 血煙の戦場と裏切りの刃

王都から馬車で三日。

 私たちが辿り着いたのは、王国と魔物の領域を隔てる最前線の砦だった。


 石造りの城壁には無数の亀裂が走り、旗は血に染まり、空気には鉄と死の匂いが漂っている。

 城門をくぐった瞬間、胃の奥が冷たくなるほどの緊張が襲った。


「……これが戦場、か」

 レオンが低く呟く。

 彼ほどの歴戦の傭兵でも、目の前の光景に言葉を失っていた。


 砦の中では、負傷兵が呻き声をあげ、治療師の叫びが飛び交う。

 すでに戦いは始まっており、私たちはただの新手に過ぎなかった。



 砦の指揮官であるカラム将軍が、鎧のまま迎えに現れた。

 深い皺の刻まれた顔は、長年の戦場で鍛えられた鋼そのものだった。


「お前が……炎の刻印を持つ者か」

 私を一瞥し、将軍は腕を組んだ。

「王からの文には“勇者候補”とあるが、戯言は要らん。ここでは生き残った者が勇者だ」


 将軍の言葉は冷酷だったが、戦場という現実を突きつけるに十分だった。


「今夜、すぐに出陣してもらう。敵は森に潜む獣の群れだ。数は二百を超える」


「に、二百……!?」

 ミラが息を呑む。


「兵は半分しか残っていない。だからこそ、貴様らの力が必要だ。覚悟はあるな?」


 問われ、私は一瞬ためらった。

 だが、逃げ場はない。

 ここで刻印の力を示さねば、国に戻ることすら許されない。


「……はい」

 震えを押し殺して答えると、将軍はわずかに頷いた。



 日が沈み、森の闇が濃くなる。

 鬨の声が上がり、松明の列が砦を出発した。


 私は剣を握るレオン、弓を構えるミラと肩を並べる。

 兵たちの視線は冷ややかで、私を勇者ではなく“実験動物”のように見ていた。


 その中に混じって、ひそひそと囁く声が耳に届いた。

「奴が本物なら、楽に勝てるさ」

「偽物なら、ここで死ぬだけだ」


 喉が渇き、胸の奥で刻印が熱を帯びる。

 それが恐怖に応えるように、脈打つのを感じた。



 やがて森の奥から、獣の群れが姿を現した。

 狼に似た魔獣――だがその牙は異様に長く、目は赤く輝いている。

 地を揺るがす咆哮と共に、闇の海が押し寄せた。


「来るぞ!」

 レオンが盾を掲げ、兵たちが一斉に槍を構える。


 最前列が衝突した瞬間、血飛沫が夜空に散った。

 悲鳴、怒号、金属音。

 地獄の口が開かれたような惨状に、全身が凍りつく。


「アレン!」

 ミラの叫びで我に返り、私は炎を練り上げた。


「燃えろぉぉッ!」

 放たれた火球が群れを呑み込み、十数体の魔獣が黒焦げとなって倒れる。


 一瞬、兵たちの士気が上がった。

「やれるぞ!」

「勇者だ!」


 だが、倒しても倒しても群れは尽きなかった。

 獣の牙が盾を噛み砕き、槍兵が引き裂かれ、血と肉片が飛び散る。


「数が多すぎる!」

 レオンの盾が軋み、ミラの矢筒が空になる。


 私は必死に炎を繰り出すが、魔力の消耗が激しく、視界が霞んでいく。

 そのとき――。


『――炎ヲ解キ放テ。汝ハ異界ノ魂ナリ』


 まただ。

 耳の奥で、あの声が囁く。


 私は意識が遠のく中、刻印が脈打つのを感じた。

 炎が暴走するかのように広がり、視界を真紅に染める。


 次の瞬間、轟音と共に森の半分が炎に包まれていた。



炎の奔流が夜を焼き尽くした。

 森の木々は音を立てて倒れ、魔獣の群れは一瞬にして灰と化す。

 熱風が砦の兵たちを押し返し、誰もが声を失って立ち尽くしていた。


「アレンっ!」

 ミラの叫びが遠く聞こえる。

 視界は赤に染まり、刻印が焼け付くように疼いていた。


 暴れる魔力に身体が軋み、意識が炎に呑まれていく――。



「……っは!」

 気づけば、私は地に倒れていた。

 周囲には焼け跡が広がり、魔獣の残骸が煙を上げていた。


 砦の兵士たちがざわめきながら私を囲む。

「……これが、勇者……?」

「いや、化け物だ……」


 その視線に、胸が締め付けられる。

 助けるために放った炎のはずが、恐怖しか与えていない。


「アレン、大丈夫!?」

 駆け寄ったミラが震える手で肩を抱く。

 その温もりが、かろうじて私を人間に繋ぎ止めた。


「……なんとか」


 レオンが血まみれの盾を地に突き、低く言った。

「勝ったんだ。お前の炎のおかげでな。誰が何を言おうと、それが事実だ」


 だが彼の声にも、わずかな揺らぎがあった。

 恐怖と敬意が入り混じった複雑な響き――。



 戦場は鎮まり、夜明けが近づく。

 カラム将軍が馬で現れ、焼け跡を見渡して言った。


「……たった一撃でこれとはな。恐ろしい力だ」

 将軍の目には賞賛ではなく、警戒の色があった。


「報告は王に上げねばならん。だが、どう記すべきか……。勇者か、災厄か」


 その言葉に兵たちがざわめく。

 私を勇者と呼ぶ者は少なく、大半は怯えた顔をしていた。


 ミラが怒りを堪えきれずに叫ぶ。

「アレンは仲間を救ったんです! 化け物なんかじゃない!」


 だが誰も答えなかった。

 ただ沈黙が重くのしかかる。



 その夜、砦に戻った私は眠れずにいた。

 胸の刻印が赤く脈打ち、今もなお炎が暴れようとしている。

 あの声が囁いた通りに力を解き放った――その事実が恐ろしかった。


「……俺は、本当にこの世界に必要なのか」


 呟いた瞬間、背後で扉がきしんだ。

 レオンが立っていた。


「アレン」

 彼は一瞬ためらい、やがて低く続けた。

「お前の炎……あれを見た兵たちは恐れてる。正直、俺だって……」


 その言葉に胸が刺された。

 だが、彼の視線は真剣だった。


「けどな、それでも俺は信じたい。お前が俺たちの仲間であることを」


 その言葉に救われそうになった瞬間――。

 扉の隙間から視線を感じた。

 振り返ると、闇の中に人影が消えていく。


 誰かが聞いていた。

 そして、それは偶然ではない気がした。



 翌朝、私は兵舎の廊下で妙な視線を浴びた。

 囁き声が背後で交わされる。

「昨夜、勇者と傭兵が密談をしていたらしい」

「裏切りを企んでいるのかも」


 胸に嫌な汗が滲む。

 ――これは、仕組まれている。

 侯爵の影が、ここにも伸びているのだ。


 やがて砦の鐘が鳴り響いた。

 次の戦が迫っていることを告げる音だった。


 だがそれ以上に、私の胸を凍らせたのは、仲間の背中に落ちる微かな影だった。

 ――この中に裏切り者がいる。

 その疑念が、心を静かに蝕み始めていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る