第6章 血煙の戦場と裏切りの刃
王都から馬車で三日。
私たちが辿り着いたのは、王国と魔物の領域を隔てる最前線の砦だった。
石造りの城壁には無数の亀裂が走り、旗は血に染まり、空気には鉄と死の匂いが漂っている。
城門をくぐった瞬間、胃の奥が冷たくなるほどの緊張が襲った。
「……これが戦場、か」
レオンが低く呟く。
彼ほどの歴戦の傭兵でも、目の前の光景に言葉を失っていた。
砦の中では、負傷兵が呻き声をあげ、治療師の叫びが飛び交う。
すでに戦いは始まっており、私たちはただの新手に過ぎなかった。
◆
砦の指揮官であるカラム将軍が、鎧のまま迎えに現れた。
深い皺の刻まれた顔は、長年の戦場で鍛えられた鋼そのものだった。
「お前が……炎の刻印を持つ者か」
私を一瞥し、将軍は腕を組んだ。
「王からの文には“勇者候補”とあるが、戯言は要らん。ここでは生き残った者が勇者だ」
将軍の言葉は冷酷だったが、戦場という現実を突きつけるに十分だった。
「今夜、すぐに出陣してもらう。敵は森に潜む獣の群れだ。数は二百を超える」
「に、二百……!?」
ミラが息を呑む。
「兵は半分しか残っていない。だからこそ、貴様らの力が必要だ。覚悟はあるな?」
問われ、私は一瞬ためらった。
だが、逃げ場はない。
ここで刻印の力を示さねば、国に戻ることすら許されない。
「……はい」
震えを押し殺して答えると、将軍はわずかに頷いた。
◆
日が沈み、森の闇が濃くなる。
鬨の声が上がり、松明の列が砦を出発した。
私は剣を握るレオン、弓を構えるミラと肩を並べる。
兵たちの視線は冷ややかで、私を勇者ではなく“実験動物”のように見ていた。
その中に混じって、ひそひそと囁く声が耳に届いた。
「奴が本物なら、楽に勝てるさ」
「偽物なら、ここで死ぬだけだ」
喉が渇き、胸の奥で刻印が熱を帯びる。
それが恐怖に応えるように、脈打つのを感じた。
◆
やがて森の奥から、獣の群れが姿を現した。
狼に似た魔獣――だがその牙は異様に長く、目は赤く輝いている。
地を揺るがす咆哮と共に、闇の海が押し寄せた。
「来るぞ!」
レオンが盾を掲げ、兵たちが一斉に槍を構える。
最前列が衝突した瞬間、血飛沫が夜空に散った。
悲鳴、怒号、金属音。
地獄の口が開かれたような惨状に、全身が凍りつく。
「アレン!」
ミラの叫びで我に返り、私は炎を練り上げた。
「燃えろぉぉッ!」
放たれた火球が群れを呑み込み、十数体の魔獣が黒焦げとなって倒れる。
一瞬、兵たちの士気が上がった。
「やれるぞ!」
「勇者だ!」
だが、倒しても倒しても群れは尽きなかった。
獣の牙が盾を噛み砕き、槍兵が引き裂かれ、血と肉片が飛び散る。
「数が多すぎる!」
レオンの盾が軋み、ミラの矢筒が空になる。
私は必死に炎を繰り出すが、魔力の消耗が激しく、視界が霞んでいく。
そのとき――。
『――炎ヲ解キ放テ。汝ハ異界ノ魂ナリ』
まただ。
耳の奥で、あの声が囁く。
私は意識が遠のく中、刻印が脈打つのを感じた。
炎が暴走するかのように広がり、視界を真紅に染める。
次の瞬間、轟音と共に森の半分が炎に包まれていた。
◆
炎の奔流が夜を焼き尽くした。
森の木々は音を立てて倒れ、魔獣の群れは一瞬にして灰と化す。
熱風が砦の兵たちを押し返し、誰もが声を失って立ち尽くしていた。
「アレンっ!」
ミラの叫びが遠く聞こえる。
視界は赤に染まり、刻印が焼け付くように疼いていた。
暴れる魔力に身体が軋み、意識が炎に呑まれていく――。
◆
「……っは!」
気づけば、私は地に倒れていた。
周囲には焼け跡が広がり、魔獣の残骸が煙を上げていた。
砦の兵士たちがざわめきながら私を囲む。
「……これが、勇者……?」
「いや、化け物だ……」
その視線に、胸が締め付けられる。
助けるために放った炎のはずが、恐怖しか与えていない。
「アレン、大丈夫!?」
駆け寄ったミラが震える手で肩を抱く。
その温もりが、かろうじて私を人間に繋ぎ止めた。
「……なんとか」
レオンが血まみれの盾を地に突き、低く言った。
「勝ったんだ。お前の炎のおかげでな。誰が何を言おうと、それが事実だ」
だが彼の声にも、わずかな揺らぎがあった。
恐怖と敬意が入り混じった複雑な響き――。
◆
戦場は鎮まり、夜明けが近づく。
カラム将軍が馬で現れ、焼け跡を見渡して言った。
「……たった一撃でこれとはな。恐ろしい力だ」
将軍の目には賞賛ではなく、警戒の色があった。
「報告は王に上げねばならん。だが、どう記すべきか……。勇者か、災厄か」
その言葉に兵たちがざわめく。
私を勇者と呼ぶ者は少なく、大半は怯えた顔をしていた。
ミラが怒りを堪えきれずに叫ぶ。
「アレンは仲間を救ったんです! 化け物なんかじゃない!」
だが誰も答えなかった。
ただ沈黙が重くのしかかる。
◆
その夜、砦に戻った私は眠れずにいた。
胸の刻印が赤く脈打ち、今もなお炎が暴れようとしている。
あの声が囁いた通りに力を解き放った――その事実が恐ろしかった。
「……俺は、本当にこの世界に必要なのか」
呟いた瞬間、背後で扉がきしんだ。
レオンが立っていた。
「アレン」
彼は一瞬ためらい、やがて低く続けた。
「お前の炎……あれを見た兵たちは恐れてる。正直、俺だって……」
その言葉に胸が刺された。
だが、彼の視線は真剣だった。
「けどな、それでも俺は信じたい。お前が俺たちの仲間であることを」
その言葉に救われそうになった瞬間――。
扉の隙間から視線を感じた。
振り返ると、闇の中に人影が消えていく。
誰かが聞いていた。
そして、それは偶然ではない気がした。
◆
翌朝、私は兵舎の廊下で妙な視線を浴びた。
囁き声が背後で交わされる。
「昨夜、勇者と傭兵が密談をしていたらしい」
「裏切りを企んでいるのかも」
胸に嫌な汗が滲む。
――これは、仕組まれている。
侯爵の影が、ここにも伸びているのだ。
やがて砦の鐘が鳴り響いた。
次の戦が迫っていることを告げる音だった。
だがそれ以上に、私の胸を凍らせたのは、仲間の背中に落ちる微かな影だった。
――この中に裏切り者がいる。
その疑念が、心を静かに蝕み始めていた。
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