第4話




 帰りには市を覗いて来ます、と徐庶じょしょの母親に声を掛けて外に出た。


 冬の外気だが確かに雲一つなく晴れ渡っている。いい天気だった。

 早速歩き始めたが、ほどなく陸議りくぎは興味深そうに洛陽の街を見始めたので、決して馬鹿にする意味は無かったが徐庶は笑ってしまった。


「?」


「いや……あまりこうやって街を見回ったりはしたことがないのかなって」

「あ、はい……」

「勘違いしないで。馬鹿にしたんじゃない。

 俺は戦場での君や、完璧に司馬懿しばい殿の副官として振る舞う君しか見たことが無かったから。やっと君が年下なんだなと思えて安心した」


 陸議は子供のような顔を見せたんだと思って少しだけ赤面したが、その時、建業けんぎょうの街に行った時も、同じようなことを言われたことがあることを思い出した。

 あまりにも一つ一つの店を興味深そうに眺めるので、


『子供みてえ』


 と無遠慮に笑われたのである。

 自分がこういう事に関して世間知らずでやって来たことは隠しようがないもので、特に徐庶などは大陸を巡って色んな街を自分の目で見て来たはずだから、それは物珍しそうな自分が面白いはずだと納得してしまう。

 大体そういう時にムキになって「そんなことはない!」などと強がっても、そんなことすると余計ガキに見えるぞ、とこれもすでに言われたことがあったので陸議は諦めた。


「そうです。あまり時間を取って見たことがないので、折角なのでじっくり見ています」


 苦笑しながらそう答え、陸議はまた店が並んで、市民が買い物をしている様子を優しい表情で眺め始めた。

 その横顔に一瞬目を留めてから、徐庶は声を掛ける。


「良かったら市の方を見て行こうか?」


 興味深そうに陸議の琥珀の瞳が明るく瞬いたが、彼は小さく首を傾げて答えて来た。

「帰りにも市を通りますか?」

「うん。何か食べれるものを今日は買って帰ろうかと。昨日軽く見たけど、かなり色んな料理も出てた」

 陸議は安心したようだ。

「それなら先に【九条院くじょういん】へ行きましょう。じっくり中を拝見したいですし」

「そうだね。街の方はいつでも見れる」


 そう言って、二人は歩き始めた。

 洛陽の街にある九条院は巨大なので、ここからでもその建物の屋根は見えていた。


「でも……大陸を歩き回っておられた徐庶さんはともかく……、名門に育った方や、身分の高い方も、そんなに街に繰り出したりはなさないのではないでしょうか……」


 しばらく歩くと、隣にいた陸議がそんなことを突然言ったので、徐庶は何かなと思い、彼を見やった。

 どうやら自分だけが規格外の世間知らずなのだろうか、と誰かに聞きたいらしい。


「例えば、あの勇猛で名を馳せ、魏軍随一の武人と謳われる張遼ちょうりょう将軍や、魏の王となった曹操そうそう殿のご子息である曹丕そうひ殿下……魏の名門の出身で、曹操殿の腹心で、高潔な人柄で知られる荀文若じゅんぶんじゃく殿なども……市街をこうやって供もつけず歩き回っているとは思えないのですが……それとも、そんなことはなく密かにお忍びでちゃんと自分の目で見ておられて詳しいのでしょうか。

 夏侯惇かこうとん将軍などは、いつも曹操殿の傍らにおり、寝る時以外片時も離れない方だと楽進殿が言っておられました。

 夏侯惇将軍も街をふらふら歩かれたりするんですか?」


「いや……それは」


 澄んだ目で見上げられて、問いかけられ、少し徐庶はたじろいだ。


「あの張遼将軍が市をこうやってのんびり歩きながら眺められたり、直接買い物されたりする姿は想像できません……。それともそうなんでしょうか……」

「いや……陸議君……」

 高官や名門の出でも、彼らは「遊び」という形で市街を体験しているから、ずっと家や城にいるわけじゃないんだよ、といかにも自分らしい、つまらない答え方をしようとしたが、陸議はもう一度小首を傾げた。


「【臥龍がりゅう】と呼ばれるような人も市で果物を買ったりしたことあるんでしょうか?」


 子供みたいに聞かれて、駄目だった。

 徐庶が声を出して笑った。


「うん……まあ、張遼将軍がどうかは知らないけど……。

【臥龍】でも市で物を買うよ」


「そうなんですか?」

 陸議は驚いたようだ。


劉備りゅうび殿に仕官するまではあの人はむしろ、民として暮らしてた人だからね。

 自分で買い物もするし、畑も耕す。

 劉備殿も元々、とても貧しい民の暮らしをしていた人だった。

【臥龍】が劉備殿の許に行った理由はそういうものだったんだと思う」


 徐庶は穏やかな声で話した。

 陸議が見た所では、徐庶もそうだ。

 この人も名門や高官よりは貧しい出身で、民に近い方で生きていた。


「貧しい世界で生きていると――、

 何とかその世界から抜け出したいと強く願う人もいるし、

 物事が自分で分かるようになって来ると、豊かな場所にも高潔ぶった部分があることが分かって来る。そういう時は自分の手で買い物をしたり、畑を耕し作物を得て、自分の手で料理をすることの価値や意味や……時には幸福に思うことだってある」


 呉でも、孫策そんさく周瑜しゅうゆは豪族や名門だったが、彼らはその気になれば何でも自分の手でやった。孫策は江東こうとうを平定したが、幼い頃から戦で苦労をして来た。周瑜も苦労を共にした。

 戦場では高貴な身分など何の言い訳にもならないから、彼らは戦場でそういった全てのことを学んで、知って来たのだと陸議は思っていた。

 

 唯一、戦場で学べないことがある。

 それが市街のことだ。

 実際の民の暮らしだった。


「だから戦功や身分は関わりないよ。

 民の暮らしを知っているかどうかは、興味を持つか興味を持たないかだ。

 君が民の暮らしに無関心だとは思ってない。

 何事も一生懸命になる君のことだから単純に時間が無かったんだろうし、市をただ歩いて表面上の民の暮らしを眺めても、その本質などは知ったことにならないと思う部分もあるのかもしれない。

 確かに、ああやって整えられた、洛陽のように豊かな街の市を眺めて、民は豊かに暮らしているなどと決めつけるのは愚かだ」


「……はい」


 確かに徐庶の言う通りだと思う。

 民の暮らしと言っても、江東と洛陽の民の暮らし方は違うだろうし、風土も違う。

 季節によって豊かに取れるものも違う。涼州や成都もだ。

 彼らは様々な土地に住み、様々な暮らしをしている。

 広く、それを理解することが大切だ。


「誰しも自分の足で街を歩いて、自分の手で土を耕している可能性がある」

「はい」


 陸議は穏やかな声で返した。

 今まではそういうことをして来れなかったけれど、自分もこれからは出来る限り自分の足で色んな街を歩き、人々の暮らしぶりを見るようにしようと思った。



「着いた。【九条院くじょういん】だ」



 低い階段が連なる。

 青い瓦の美しい学院だ。

 ここは学び舎なので門番がいない。

 ただ、階段を上がって行くと門のところで人の出入りを管理する部署があった。

 こちらに気づいて窓から人が姿を現わす。

 学士の姿だ。


「御用でしょうか?」


 徐庶が一礼して、持って来た紹介状を差し出す。


司馬叔達しばしゅくたつ殿からの紹介状です。孟公威もうこうい殿にお取次ぎを」

「かしこまりました。少々こちらでお待ちください」

 学士は二人を庭にある休憩室に案内してくれた。

 中には多くの絵が飾られている。

 数は多かったが、描かれている共通の題材があるようだ。


「九条院の人が描いたみたいだね」

「同じ題材で取り組んだのでしょう。でも、皆さんとてもお上手です。

 ……叔達しゅくたつ殿も私塾で、同じ題材で友人たちと詩を作ったり講義をしたりしていたようですから。こんな風に自分で作ったものを持ち寄っていたのかな……」


 司馬孚しばふとは長安ちょうあんまで共に来て、そこから離れただけだったが、陸議が少し思い出すようにそんな風に呟いたので、徐庶じょしょは優しく陸議の肩に触れてから歩き出した。


「ゆっくり見せてもらおうか」

「はい」


 しばらく好きに飾られた絵を見ていると、十分ほどして一人の学士が入って来た。

 徐庶が近づいて行く。


徐元直じょげんちょく殿ですね? ようこそ【九条院】にいらっしゃいました。

 私は孟建もうけんと申します」


「徐庶です。孟建殿、お忙しいところをありがとうございます」

「いえいえ。ここでは気ままな研究暮らしなので」

 孟建は穏やかに笑い、遅れてやって来た陸議にも気づき一礼する。


陸伯言りくはくげん殿ですね」


 陸議はおずおずと礼を返しながらも不思議そうな顔をした。

 何故自分を知っているのだろうと思ったのだ。

 紹介状には徐庶のことは書いてあっても、自分のことは書いてないはずだ。

 魏に自分を知っている人間がいるはずがない。

 すぐに孟建は不思議そうな陸議に気づき、朗らかに笑った。


「紹介状とは別に、叔達殿から個人的に文を頂いていました。

 近々、九条院に大切な友人が訪ねるのでぜひ案内して欲しいと。

 陸議殿は涼州遠征で腕を負傷されたとか。何か読みたいものがあれば遠慮なく仰ってください。ここには片腕が使えない学士もおりますので、彼らが書物を読めるようにする卓なども揃っています」

「司馬孚殿が手紙を書いてくれていたのですね」

「はい。叔達殿の兄上、司馬仲達しばちゅうたつ殿の副官を務められているのだとか。あの方は洛陽でも博学で知られた秀才です。しかしあまり社交なさらない方なので、その副官の方はどんな方かと思っていたのですが、これほどお若いとは。驚きました」


「今日は、お世話になります」


 陸議は感謝を込めて、深く頭を下げた。


「とんでもない。徐庶殿も陸議殿も司馬懿殿に信任を受けて涼州遠征に帯同なさったほどの方。そういう方がご自分で九条院に足を運んでくださるのは学問の使徒として私も嬉しく思います。

 都合がよろしければ、早速大まかに院内をご案内しましょう。そのあとは興味のあるものをゆっくり見ていただければ良いかと」


「はい。よろしくお願いします」


「良かった。ではどうぞこちらへ。長安の【黎明院れいめんいん】には量では劣っても、この九条院も古都を守る学び舎として貴重な数多の書物や宝物を保管しております」


 孟建もうけんの案内で休憩室を出て、庭を抜けて行く。

 大きな池に浮島があり、ところどころに小さな四阿と、中央には長い朱色の屋根付き通路が掛かっていた。

 通路では腰かけられるようになっており、何人かの学士の姿が見える。

 複数の人間で話し合っている姿もあるし、一人で考え事をしている者もいるようだ。


「少し、足場が悪いですが」


 浅い階段をゆっくりと歩いて行く。やがて本殿らしい建物が見えて来る。

 これも巨大な建物で、屋根の上に白虎びゃっこが見えた。


 門の前で一度礼をし、孟建が中に入る。

 徐庶と陸議もそれに倣った。


 まず中央の白砂を敷き詰めた、美しい庭が目に入って来た。

 四方に回廊が走っており、対面の部屋が見える作りだ。

 棚にびっしりと書簡が重なっている。


「一階に六つの部屋、二階にも同じく、三階は責任者の執務室になっており、更に許可がいるような貴重な書物などはあの北の宝物殿に収められています。

 書物などの区別は部屋の入口に掛けられた飾りの色で出来ます。

 一階は政治、伝承、戦記、歴史、建築、地理。

 二階は大陸に伝わる文献、天文、都市報告書、芸術、武術秘伝、薬術。

 向こうの離れにはその他の文献があり、あの朱色の建物には判別前の新しい文献などが日々持ち込まれています」


「すごい……」


 孟建もうけんが布を差し出して来た。


「どうぞこれを。一度では覚えられないでしょうから」


 布には今まさに彼が説明した、部屋ごとの区別が色の説明と一緒に書かれている。

「迷いそうだったのでこれは助かります」

 徐庶が礼を言って、受け取った。

「孟建殿はここでは日々、どのような研究をなさっているのでしょう?」


「私は洛陽の行政官としてここに派遣されているので、公の使命は持ち込まれる書物を管理し、収蔵の許可を出すことですが、優秀な補佐官がいるので、日々気ままに昔から取り組んでいる大陸各地の地理の研究を」

「地理を……では長江などにもお詳しいのですか」

 孟建は頷いた。

長江ちょうこう黄河こうがは大陸の地理を語るに避けられませんから」


「では、洛陽にいるうちに長江域のことについて御教授をお願いしてもよろしいでしょうか。私は若い頃大陸各地を流れていたのですが、長江より南には行ったことがなく……。周辺域の現状などを聞かせていただければ」


 孟建が明るい表情を浮かべる。

「勿論、そのようなことならばいつでもお声がけください。そうだ、長江域の研究を長年している友人がいます。彼も叔達殿の学友で、親しい間柄。貴方がたにお会いすれば喜びます。彼も呼びましょう」


「ありがとうございます。その方は……」


「ここで毎日研究三昧で籠っていますよ。今日もいます。

 なので都合のいい時にいらっしゃってください」


「感謝します。ではその件はまた後日」


 孟建はそれから、一階と二階の部屋を一つずつ丁寧に案内してくれた。

 収蔵されている主立った文献や、どういった用途で利用されているのかなども彼は教えてくれた。


 案内が済むと、好きに見れるようにと一度別れた。

 彼は三階に私室を持っているため、帰る時に声を掛けてくださいと言ってくれた。

 じきに任務が下されるのだが、それまでは洛陽に留まる為、洛陽にいる限り、通える限りここへ通いたいと頼むと、孟建は快く通行許可の印だという銀の牌を徐庶に貸してくれた。


 これでいつでも気兼ねなく訪ねて来れることになったので、安心出来た。


「君も好きに見てみる?」

 腕が動いたらそうしようと思ったが、今日の所は徐庶と一緒に見て回ることにする。

「何か見たいものがあったら言っていいからね」

「はい」


 徐庶はまず、地理の文献が収められている場所に行った。

 大陸のどの程度の範囲が網羅されているかが分かりやすいからである。

 部屋に入ると、入口の所に書棚の大まかな判別状態が描かれている図があった。

 それを見ながら、ゆっくりとまず見て回る。


「涼州もこんなにあります」


 徐庶が立ち止まり、涼州の分類を現わす色の筒に入った布を広げた。

 陸議にとっても見覚えのある涼州の地理、地形が詳細に描かれた地図だ。

「村の場所だけが不完全ですね」


「今までは涼州騎馬隊が、天水てんすい砦を魏軍が越えて来たら攻撃を加えてたからだ。

 彼らは涼州の村に敵を近づけさせなかった。だから村の位置が分からなかったんだ。

 賈詡かく将軍は若いころ涼州に住んでいたが、時間が経っているからね」


郭嘉かくか殿が徐庶さんに村の位置をまず聞いていたのにはそういう理由から……」

「今回は天水砦を越えても、涼州騎馬隊が姿を見せなかった。それに司馬懿しばい殿も賈詡殿も驚いて不審がっていた。ああいうことは今までになかったんだ」


「でも……今回の涼州遠征でまた新しい詳細な地図が作り直される」


 今度は祁山きざん固山こざんから南も網羅している。

 龐令明ほうれいめいも陣容に加われば、涼州北方の地図も詳細に描けるようになる。


「……その通りだ」

 徐庶は少し考える声で小さく答えた。


「こちらの棚は長江周辺域の街などのものが揃えてあります。

 江陵だけでこんなに」


「すごい量だ。君が来てくれて助かったよ。どれだけ滞在するかは分からないけど、二人で目を通せば出来るだけ多くの文献に目を通せる。

 明日から俺はここに通うよ。出来るだけここに留まって資料を読み込む。

 君は怪我を治すことが第一だからね。好きな時に来ていいけど、体もちゃんと休めてほしい」

「はい」


 徐庶は薬術の部屋も少し見てみると入っていったので、陸議は同じ二階に確か、天文の部屋があったと思い、そこへ足を踏み入れた。


 すぐに立ち止まる。天井絵だ。

 夜空に見立てて黒く染められたそこに、数多の星座が描かれている。

 宝玉を埋め込んで描いてあって、見事だった。


 星座に見覚えがある。

 思わず腰に手をやったが、今日は目立つので、家に置いて来た【干将莫邪かんしょうばくや】の鞘の模様と同じだ。


 二十八宿にじゅうはっしゅく


 同じように書棚に様々な文献が詰め込まれている。

 部屋の中に入って行くと、ここの棚が妙な角度で置かれている理由が分かった。

 部屋の中央の床に、こちらは銀板に彫られた巨大な天文図が描かれていた。

 緻密に、芸術品のような美しさで星座と方位が埋め込まれている。

 

 陸議は星は読めない。

 見覚えのある星座などはあるけれど、詳しくは知らなかった。

 

 あの夜空に浮かぶ無数の星、

 ある日には鮮やかでも、ある日には曇って見えないこともある。

 あんな曖昧で、莫大な星の位置をここまで読んだ人間がいる。


 この天文図はその人間がいた証だ。

 陸議は膝をつき、覗き込む。


「……すごい……」


 一つ一つを記録したのだろうか。

 どれだけ莫大な時間を費やして観察したのだろう。

 そんなことが気になった。


 学ぶだけの人生なら平和だと思っていたけれど。


 余程の覚悟がなければ、研究だけに時間は費やせない。

 それに研究も、形とならなければ無意味だと陸議は考えている。


 そっと、銀の天文図に手のひらで触れた。

 こんな風に形になれば、後世まで人々とその成果を共有出来る。


 ただ一人の研究が、大いなる知識になり、

 多くの人の導きになる。

 それは凄いことだ。



「陸議君」



 徐庶がやって来た。

 彼もまず、見事な天井の星座に圧倒されたように上を見ながらやって来たが、すぐにそこへしゃがみこんだ陸議に気づいた。


「これは……すごい天文図だね」


 徐庶も膝をついてしゃがみこんでいる。陸議は頷いた。

「一つ一つの星が彫ってあります。美しいですね……。あんな莫大な星の位置を、知りたいと思って調べた人がいるんですね。一体どれだけの膨大な時間を費やして記録を取ったのでしょう。果てがないと思って、諦めたりしなかったんでしょうか」


 徐庶は少し考えてから、答えた。


「……果てを探していたわけではないんだろう。俺たちのように、次に派遣される場所があるとか、時間を区切られた人間は果てを探すけど、学者は学ぶこと自体に価値を見出す。彼らはある時果てを見つけても、恐らく新しい、何か学びたいことを探すだけだと思うよ。 探し求めている過程も、意味があると信じられるから」


「……。戦は勝敗が全てです」


 徐庶は陸議を見た。

 陸議は天文図をじっと見つめながら、静かな声で言った。


「どのような過程を辿っても、究極には勝てばいいのだと思います。

 負けて多くの兵を失わせ、言い訳は出来ません。

 ……でも、こうも思います。

 芳しくない成果の戦いが全て無意味かというと、そうではないんじゃないかと。

 もちろん続けざまに戦闘になることもあるので、一戦一戦に一喜一憂しても仕方ないという意味もありますが、それだけじゃなくて……」


 言いたいことが上手くまとまらなかった。

 陸議が想ったのは、陸康りくこうのことであり、

 孫策そんさく周瑜しゅうゆのことで、


 ……龐士元ほうしげんのことだった。 


 彼らは大きな存在だった。

 誰かの為に、大きな意味を持った人たちで、

 失ってはいけない人たちだったのだ。


 それが失われてしまった損失は、揺るぎなくそこにある。


 だが陸康が亡くなった時、後を託されて、陸議自身は勇敢になれた。

 彼に託されたのだから、どんなに辛くても陸家と陸績を守り抜かねばならないと思えた。

 

 孫策と周瑜が失われたから、彼らが守ろうとしたものを奪われるわけにはいかないと、呉軍は赤壁せきへき後も士気は高く、総崩れにならなかった。


 龐統の死は、陸議の深い傷になった。

 それは確かだ。


 ……でもその痛みが、自分にとって龐統がどういう存在だったかを教えてくれたと思う。


 もっとあの人と話してみたかった、

 あの人のことが好きだったのだと今はそう思える。


 彼は諸葛亮しょかつりょうの死を望み、また生も望んだ。


ついの星】を滅ぼして自由になる。

 その望みを捨て、諸葛亮を救った。


 だがそのまま共に生きず【剄門山けいもんさん】に出陣して来た。

 彼がこの世界でどう生きたかったか……それがあの戦いに隠されていたような気が、どうしても陸議にはする。


 それを、いつか解き明かしてやりたいと思う。

 

 それが出来た時、一度も生前見ることの出来なかった龐統ほうとうの笑顔を、見ることが出来るのではないかと思うのだ。

 よくやったと、初めて自分を認めてもらえるのではないかと。


 学び、知りたいと願う過程にこそ意味があると徐庶は言った。

 陸議もそれは理解出来るし、信じたいとも思った。


 例え膨大な量の星が瞬いていても、

 一つずつそれが解き明かされて行くことで、心の平穏に繋がる。


 人は誰しもが大望だけを望んでいるわけではないのだ。


 たった一つの願い、

 ささやかな願いが幾つか叶えば、それだけで幸せを感じることも出来る。


 数多の民の生活が大陸各地にあるように、

 誰かの抱く幸福の祈りもまた、他者には計り知れない。






【終】




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花天月地【第109話 その、星に似たもの】 七海ポルカ @reeeeeen13

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