第16話 『増川、詰められる。』
翌日、増川は出社した。
昨夜、道端で弾き語りしていた加賀屋先輩を追いかけたが、逃げられた。人混みに紛れて、あっという間に姿を消されてしまった。
井上さんには、その後連絡を入れた。何度も謝罪したが、彼女からの返信は短かった。
『大丈夫です。お疲れさまでした』
その一行が、すべてを物語っていた。
そして営業部に着くと、増川のデスクに、中津さんが座っていた。
「増川さん、ちょっといい?」
その声は、とてつもなく低かった。
「はい」
会議室に連れて行かれると、なぜか小松原さんも待っていた。二人とも、険しい表情で増川を睨んでいる。
「昨日、何があったの?」
中津さんが、真っ直ぐに聞いてきた。
「井上ちゃん、泣いてたんですけど。なんか、デート中に置き去りにされたみたいなんですけどぉ?」
増川は、言葉を失った。
「増川先輩、何か事情があるんですよね? でしたら、せめてきちんと説明をしてください」
小松原さんも、静かだが強い口調で言った。
「みなみさんは、増川先輩を信頼してたんですよ。それなのに、理由も言わずに走って行くなんて、私だったら傷つくと思います」
「……事情が、あります」
「事情?」
中津さんの声が、少し大きくなった。
「どんな事情があったら、デート中の彼女を一人にしたりするんでしょうかぁ? もしかして、元カノにでも見つかりかけましたかぁ? そうでもなきゃ、あんなに可愛い子を、突然一人ぼっちにしますかねぇ?」
「すみません」
増川は頭を下げた。
「でも、事情は話せません」
「話せないって……」
小松原さんが言いかけたとき、増川は顔を上げた。
「必ず、けりをつけます。そうしたら、お話しできるかもしれません。それまで、待っていただけませんか」
二人は、黙って増川を見つめた。
「井上さんには、僕からきちんと謝ります。でも、今はまだ……」
「増川さん」
中津さんが、ため息をついた。
「お願いだから井上ちゃんを、これ以上傷つけないでよね」
「はい」
増川は、もう一度頭を下げた。
*
会議室を出ると、営業部のざわめきが聞こえてくる。いつもと変わらない日常が、そこにあった。
でも、増川の中では、明らかに何かが変わっていた。
昨日の井上さんの笑顔と言葉が、胸にずしりとのしかかる。
井上さんは、増川がこんなことを抱えたままで触れていいひとでは、決してないように思う。
加賀屋先輩を見つけて、きちんと、話をしなければ。
そして、井上さんに、すべてを説明しなければ。
それまでは、増川は前に進めない。
そう、静かに決意した。
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