第15話 『みなみと増川さん、横浜デート。』


 桜木町駅の改札を出る。

 人混みの中でも、増川さんの姿はすぐに分かった。


「増川さん! お待たせしました!」


 小走りで駆け寄ると、増川さんは優しく微笑んだ。


「いえ、僕もたった今来たところです」


 その言葉に、みなみは少しほっとした。

 遅刻しなくて、よかった。


「今日は、どこに行くんですか?」


「まずは、少し歩きましょうか」


 増川さんの声は、いつもより柔らかかった。

 横浜デートだからかな、とみなみは内心微笑んだ。



   *



 みなとみらいの大通りを並んで歩く。

 海からの風が心地よくて爽やかだった。


「あっ、あそこ!」


 ガラス張りの建物の中に、本が並んでいるのが見えた。


「ブックカフェですね」


「入ってみてもいいですか?」


「もちろんです」


 店内は明るくて、本の匂いがした。

 みなみは自然と、やはり本棚に引き寄せられる。


「やっぱり、どうも僕たちは本から離れられませんね」


 増川さんの言葉に、みなみはくすっと笑った。


「増川さんも、ですか?」


「ええ。気づけば、本のそばにいるんですよ」


 二人でコーヒーを飲みながら、本の話をする。

 増川さんが静かに話を聞いてくれて、時々相槌を打ってくれる。

 初めて話した日のように、とても幸せな時間だった。



   *



 大さん橋に着いたとき、みなみは思わず声を上げた。


「わあ、広いですね」


 海が目の前に広がって、遠くに橋が見える。

 風が強くて、髪が顔にかかった。


「ここで少し休みましょうか」


 ベンチに座る。


「増川さんは、どうして営業部に?」


「本が好きだったからです。大学を出るとき、本に関わる仕事がしたいと思って」


「私も同じです」


 みなみは嬉しくなった。増川さんと、同じ気持ちだった。


「編集の仕事は、大変ですか?」


「ええ。でも楽しいです。作家さんの想いを形にできるのが嬉しくて」


 増川さんは静かに頷いてくれた。


「井上さんは、本当に本を大切にされていますね」


「増川さんも、でしょう?」


 その言葉に、増川さんは少し驚いたような顔をした。

 でもすぐに、優しく微笑んでくれた。



   *



 夕暮れ時、ランドマークタワーのレストランに案内された。


「えっ、ここですか?」


 みなみは驚いた。こんな高級そうなところ。


「はい。予約してあります」


 窓際の席からは、横浜の街が見えた。

 少しずつ灯りが増えていく景色が、とても綺麗だった。


「きれい……」


 思わず、声が出た。


 運ばれてくる料理は、どれも美味しい。

 増川さんと話しながら食べる時間が、夢みたいだ。


「増川さん」


「はい?」


「私、すごく幸せです」


 照れくさかったけど、言葉にしておきたかった。


「僕もです」


 増川さんの優しい声に、みなみの胸が温かくなった。



   *



 食事の後、観覧車に向かった。


「観覧車、久しぶりです。何年ぶりかなあ」


「僕も、久しぶりです」


 ゴンドラに乗り込むと、ゆっくりと上がっていく。

 窓の外には、夜景が広がっていた。


「今日は、本当にありがとうございました」


「こちらこそ。楽しかったです」


「次も、また……」


「もちろんです。また一緒に」


 観覧車が一番高いところに着いたとき、みなみは夜景を見つめた。

 きらきら光る街が、まるで宝石みたいだった。


「増川さん」


「はい」


「こんなに幸せでいいのかな、って思います」


「いいんです。井上さんは、幸せになってください」


「増川さんも、ですよ」


 二人は見つめ合って、微笑んだ。


 観覧車がゆっくりと降りていく。

 この時間が、ずっと続けばいいのにと、思った。



   *



 観覧車を降りて、駅に向かって歩く。

 みなみは増川さんの隣を歩きながら、今日一日を思い返していた。


 本当に、幸せな一日だった。


 帰宅途中の人、どこかへ向かう人、急いだり、騒がしい人々であふれている路上には、どこかでアコースティックギターの音が鳴り響いていた。


 ギターの大きな音と、男性の力強い歌声。

 みなみの視線も、何気なく声の主を探してそちらに向いた。


 そのとき増川さんの足が、ぴたっと、止まった。


「増川さん?」


 追い越してしまったみなみが振り返ると、増川さんは、道の向こうを見つめていた。

 その表情が、今まで見たことのないほど真剣で、強張っている。


「あの……」


 みなみが掛ける言葉を選ぶより前に、増川さんがつぶやいた。


「……加賀屋、先輩……?」


「え?」


 みなみが聞き返すと、増川さんは一目散に走り出し、人波を縫ってどこかへ向かって行く。


「すみません、ちょっと! 通してください! すみません!」


 そう言い残して、増川さんの人影が、あっという間に人混みに消えていく。


 みなみは、ただその場に立ち尽くした。


 何が起きたのか、分からなかった。


 さっきまでの幸せな時間が、嘘みたいに遠くなっていく。


 周りの人たちは、何事もないように、あたりを通り過ぎていく。


 みなみは一人、置き去りにされた。


 また。


 ……また、置いて、いかれた。


 増川さん、にも。


 胸の奥が、きゅっと痛む。


 いつの間にか、ギターの音は消えていた。


 そして増川さんは、もうどこにも、見えはしなかった。

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