第6話:夜毎綴ってきた魔法


 無事にアオバがこちらに帰って来たとの知らせは他でもないレオンから。

 アオバの懐刀として常に彼の傍に付き従うトウマもまた同様にして不在から戻っていた。

 久し振りに四人で夕飯でも、という流れになったのはおかしなことではない。

 祝杯のようにグラスを掲げ、アオバとトウマは久々に握ったらしいフォークとナイフを嬉々として操っていた。

 そんなアオバとトウマ……否、アオバだけを、になるのだろうか――見て微笑むレオンの横顔には我知らず小さな溜息。

 レオンの喜びは己の喜びでもあるのに、それを素直に喜べなくなってしまったワタシは随分と欲張りに、そして自分本位になってしまったような気がする。

 それを恥じ入るよう。

 ワタシはなるべくレオンとアオバの姿を視界の端に追い遣りながら、黙々とカトラリーを動かした。

 食事を終えて、暫し談話に耽ってから店を出る。

「シルヴ、オレたちはこれからもう一軒寄って行くから」

 夜遊びの時はワタシも着いて行く、と云ったのはいつのことだったか。

 今夜だって付き従いたいという気持ちは強いが、レオンの笑顔の裏に隠れた冷ややかな視線はそれを許す気などなさそうだ。

 くい、とワタシのベストのベルト部分に軽く指を引っ掛けたのはトウマで。

「シルヴァード、俺たちもたまには二人で飲みに行こうぜ」

 と。アオバを気遣ったのかワタシのことを気遣ったのか分からない口調で、トウマはレオンたちとは真逆の方向へと爪先の向きを変えた。

「アオバさん、余り飲みすぎないで下さいね」

 決まり文句なのだろう。

 分かっている、と苦笑するアオバに肩を竦め、トウマはテンプレートのような溜息を吐き出してから、行こう、と顎をしゃくってワタシの同行を促した。

「……レオンも、深酒は控えて下さいね」

 部下らしい、忠言をするような顔でそう云いながら。ワタシもまたトウマと爪先の向きを同じくした。

 ワタシとトウマが二人でグラスを打ち鳴らす店はしっとりとした時間を過ごすような静かなバーではなく、大衆向けの賑やかな酒場。

 賑やかだからこそ潜めた声での会話が目立たずに済むから、ワタシたちは敢えてこういう店を選ぶ。

 カウンターの隅でロングカクテルのグラスを傾けながら咲かせた花はアオバの本国で過ごした日々の話。

 異国の文化に触れることは好きだから、ワタシはトウマが語る――少々愚痴混じりの――話に興味深く聞き入った。

「全く、アオバさんを囲む爺共のしょーもなさっていったらないね」

 ヤケ酒を呷るような飲み方をするトウマに苦笑しながらワタシも酒を舐める。

「……シルヴァード、何かあったのか?」

「……? 何か、ですか?」

 少しだけ声量の下がったトウマの声に、何のことかと首を傾げる。

「何か、いつもと様子が違う気がしてさ」

 俺の気の所為か? そんな風に問われ、あぁと思い当たる。

 苦笑して、うぅん、とわざとらしく顎に手を掛けてから、肩を竦めて目を細める。

「……トウマは、」

 絶対に手に入らないと分かっているものを目の前にした時、どうしますか?

 グラスを置いて僅かに首を回したら、トウマは「うーん」と頬杖をつきながら斜め上の間接照明を見上げた。

「ものによるだろうな」

 それがどうしても欲しいものだったら手に入れようと思うだろうけど、そうしたことで僅かにでも自責なり呵責なりを感じるんだったら奪うのは諦めると思う。

 手に入れたことでもし自分が後悔するなら、それはキッパリ諦めると思う。

 だって、わざわざ自分を苦しめるようなことをしたって誰も何も得しないだろうし。

 そんな不毛なことをするなんて時間の無駄だろ、というトウマの言は恐らく尤も。

「シルヴァードは、どうしても手に入れたいものがあるのか?」

 頬杖をついたままグラスの中に小さな渦を作るトウマに向けたのは苦い表情。

「どうしても、欲しいと思っていました……」

 けれど、と次いだ台詞。

「けれど、ワタシはその本能に従い手に入れたところで、ある程度の罪悪感は覚えるのだろうな、と……」

 トウマの言葉を聞きながら何となくそう思いました。

 グラスの中を見詰めながらポツポツと呟けば、トウマの爪先がワタシの爪先を軽く蹴った。

「シルヴァードにそんな顔をさせるものが何か……別に聞きやしないけど、どんなものなのかは少し気になるな」

 くすくすと小さく笑うトウマのそれは鬱々とし始めそうになったワタシを引き戻す為のよう。

「……とても、綺麗なものです」

 トウマの笑声に付き合うよう僅かに声を明るくする。

「喩えるなら……そうですね。ウィスキー色に染まった満月、とか」

「……悪い、ちょっとよく分かんねぇ」

 もう少し具体的な例はないのか、と眉を顰められて、ふふと笑う。

「夕陽が沈もうとしている空、と云ったら少し分かりやすいでしょうか?」

「あぁ、まだマシだ。でも、空が欲しいのか? それはまた規模がデカいな」

「ふふ、別に夕空すべてではなくて良いのです。ワタシが握ったガラス玉ひとつに映るだけで充分です」

 けれども、喩え一部分でも空が欠けては人々が困るでしょう? だからワタシはそれを人々から奪ってしまったらきっと罪を感じるのだと思います。

 グラスの汗を手の平で拭い、ぬるくなり始めた液体を口に含む。

「なるほどなぁ」

 俺は基本的にすぐ目の前のことしか見てないから、シルヴァードの視野の広さは見習うべきところだろうな、だなんて。トウマのワタシへの評価は誇大だと苦い笑みが滲む。

 だって、ワタシは手で握れるガラス玉ひとつ分にしか焦点を当てられないのだから。

「ワタシは、トウマの方が視野が広いと思います」

「謙遜するなよ」

「トウマの方こそ」

 クスクスと笑い、もう殆ど残りのないグラスを目の高さに掲げる。

「まだ飲みますか?」

「……どうせアオバさんたちも暫く帰らねぇだろうしな」

 俺たちももう少し飲んでいこうぜ。

 そう云いながら次のグラスを求めたトウマに倣い、ワタシも次のグラスを求めた。

 それからもう二杯グラスを空にしたワタシたちは、足取りを危うくすることなく各々帰るべき道へと足取りを別にした。

 レオンの邸へ帰るにはこの角を左に曲がらなければならないけれど、ワタシの革靴の先は右に方向を変えた。

 暫く歩くと風の匂いが変わる。潮の混じった匂いだ。

 遠くに聞こえ始める漣の音。

 誘われるように近付いて行って、胸の高さ程まであるコンクリートにシャツの袖を捲った腕を乗せた。

 髪の毛を揺らす風はほんの少しだけベタ付いている。

 そのベタ付きは自分の浅ましい名残惜しさのような気がして気分が悪くなった。

 それでもそこから動かずにいるのは、このまま戻ったらもっと自分が浅ましいままになってしまいそうな気がしたから。

 醜い名残惜しさをすべてこの潮風に溶かしてしまいたかった。

 今夜は満月。まん丸の白黄銅からはまるでシャラシャラと光の粒が舞い落ちてくるように星粒が天から海面へと散らかっている。

 ざん、ざざん――

 海鳴りが、近付いては離れていくのを繰り返す。

 濃紺に散らばる銀砂はさながら魔法の粉のよう。

 僅かにずつ冷えていく風。

 この肌が覚えてしまった体温は消していかなければならない。

 知ってしまった優しい体温は陽炎のようなものだったのだと認識を塗り替えていかなければならない。

 先の、アオバと一緒に居るレオンの表情といったらなかった。穏やかで、大事な大事な宝物を見詰めるような、優しい眼差しは他の誰へにも向けられることのないもの。

 レオンの中で、アオバが如何に特別な存在なのかがよく知れる表情だった。

 彼の腕は今、きっと抱き締める為にではなく、抱き締められる為に広げられているのだろう。

 もう二度とあの腕の中に収まることは出来ないのだろうな、と思ったら。

 少し前まで体温を融かし合った夢のような日々は、自分が自分に魔法を掛けて見せていた夢物語のように感じた。

 否、そう感じなければならない。

 ほう、と零れた溜息には憂色。

 『忘れる』ということは至極難しいことで。

 殊『昔』を忘れることが下手なワタシは水平線が白み始めるまで、ただ虚ろな目で白波が目立つ暗い海を眺めることしか出来なかった。

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