第2話:絶望に紛れた僅かな希望
飽きた頃に別の男の手元へ流されることを繰り返してたこの身。初めこそ品の良い男だったけれども、誰しもがそんな紳士然としている訳では勿論なかった。
もう何人目かの男は粗野で下卑た男だった。
他に乱暴がなかったかといえば、皆無ではなかったけれど、この男は誰よりもワタシをぞんざいに扱った。
昼夜問わず、機嫌の良し悪しでワタシを組み敷き貪る。
暴力的な行為の連続により、ワタシの心は荒むばかり。
果たしてワタシは一体何の為に生きているのか。
残滓を拭う気力も体力も奪われ、ただただ深いシーツの波間に沈みながらそう思う。
いっそ自分の存在価値は『誰かの玩具になること』しかないのだ、と。そういった思考に深くまで堕ちていたら、きっと随分楽に生きることが出来たのではないか。
それでも低俗な快楽に溺れきらず、意志のない人形にならなかった……なれなかったワタシは、良くも悪くも賢明を有しながら成長してしまったのだろう。
荒んだ心を抱えながら、ワタシはもう二人の男を主人にした。
もうそろそろまた別の男の元へ流されるのだろうか、と暗澹たる思いで見上げた夜空。
ひとつ流れた屑星を見付けたワタシは、あぁと嘆息。今でこそまだ可愛がられる歳だから良いかも知れない。それでも人は否応なしに歳を取る。
いつ不要を唱えられるようになるか分からない身。ワタシもいつかはあのような屑星と同じ末路を辿るのだろうかと思ったら、途方もない嫌気が差した。
そんなワタシの人生に訪れた転機は急展開だった。
そろそろ首輪の色が変わるだろうと思ったある日。邸の中が喧騒に包まれた。何が起こったのだろうかと恐る恐る檻の外を覗けば、幾つもの発砲音が耳をつんざく。
どうして発砲音なんかが邸で飛び交うのか。そんな不思議は込み上げなかった。
この度の主人は中規模マフィアの幹部だったのだ。大方『ヘマ』でもしたのだろう。奇襲を受けたのだろうなという考えは幸か不幸か大当たり。
あっという間に過ぎ去った喧騒の後に残されたのは、赤い飛沫の中に沈む主人の抜け殻だった。
詰まりワタシは奇しくもここで初めて『主人』という存在を失くし、天涯孤独を知ることとなった……筈なのだが。
鼠駆除係が残っていたのだろう。
無を纏い主人『だった』抜け殻を見下ろしていたら、ひとつの発砲音がワタシの頬を一閃掠めた。
反射的に振り向けば、色を持たない表情をした男が一人。
だらしのない恰好のワタシを細めた目が射抜いてくる。
「囲われ、か?」
低い声に、ふ、と揺れた肩。
「そうですね」
ワタシはマフィアの事情には一切関わりのない『人形』だと自嘲の笑みで訴えれば、鼠取りは銃を下ろしワタシの目の前まで歩んで来て、品定めをするようにワタシを視線で舐め回した。
「着いて来い」
くい、としゃくられた顎。
「嫌です、と云ったら?」
怯みもせず返した声音に返ってきたのは喜色を孕んだ笑みひとつ。
「野良猫になりたいのか?」
それなら愚かな選択しか出来ない本当の『人形』だなと侮蔑されたワタシは緩く瞬き、
「せめて着替えさせて下さい」
と鼠取りの横を擦り抜けた。
外を歩くのに恥ずかしくない姿になってから着いて行った先には小さな貨物車。中には同じような歳頃の青年たちが数人、それぞれ非友好的な態度で腰を落としていた。
ワタシを最後の『荷物』だと判断したのか、下手くそなエンジン音が明けの近い世界を直走る。
そうして車が停まったのは大きな邸前だった。
連行されるように放られた広い部屋には既に数人の青年の姿。
椅子に座っている者が居れば、薄い絨毯の上に座っている者も居る。
パーソナルスペースを他より少し広めに取ったワタシは地べたに腰を落とす。立てた片膝に顎を乗せながらそっと巡らせる視線。
誰もがやはり非友好的な雰囲気を纏っている。
ここが『アルカファミリー』の本拠地だと教えてくれたのは、邸へ入る前に不躾なボディチェックを行ってきた男。
アルカファミリーの名を知らないワタシではない。まさか自分の主人だった男を駆逐したのがアルカファミリーだとは思わず、多少なり驚きを隠せはしなかった。
数あるマフィアの中でもアルカファミリーの名は高い。
そんなファミリーに目を付けられたのは名誉か不名誉か。
どの道、もう抜け殻の存在は記憶から消えかけていてどうでも良かったけれど。
暫くして、真っ白なスーツを品良く着こなした男が大部屋に踏み入って来た。
アルカファミリーの幹部をさらりと名乗った男は穏やかさの内側に微かな気怠さを孕ませつつ、ワタシたちを視線でひと舐めしてから優雅に喋り始めた。
彼が話している最中。ワタシの斜め後ろで何やら気配が揺れた。何を察したのか、ワタシは咄嗟に前へ飛び出そうとしたその気配の動きを捕まえて制する。手首を捻り上げると、カツンと床に折り畳みナイフが落ちた。
白いスーツの男の目配せで、何人かの男がナイフを落とした男をワタシから引き剝がして外へと連れ出していく。
その様子を見送り、首の位置を元に戻したら、すぐ目の前に白いスーツの男が立っていて驚いた。
「ふぅん、随分と綺麗な目をした子猫ちゃんだ」
子猫ちゃん、という呼び方にワタシが憤慨するより先に、白いスーツの男がワタシの肩を気安く抱いた。
「気に入った。今日はこの子を迎え入れることにする。さ、この場はもう解散だ」
空いている手を顔の横でひらひらさせながら、白いスーツの男はワタシの肩を抱いたまま部屋を出る。
「キミは今日からオレの側近になってもらうよ」
廊下を歩みながら浮かべられた整った笑みに、ワタシはこの時内心で戸惑うことしか出来なかった。
ワタシを側近にすると云った彼の名はレオン。つまり、彼がワタシの新たな主人となったのだ。。
夕陽色の髪の毛が眩しいその人は、ワタシを子猫だと揶揄しながらもワタシの人権を極めて尊重してくれる主人だった。
そんな当然のことが当然のことではなかったワタシにとって、レオンの優しさは逆に落ち着かない。
それでもいつ何が起こるか分からないのが人生というもの。
優しさを信じた直後に裏切られることは珍しくはない。
だからワタシはレオンの優しさを真っ向から受け止めることはせずに暫し警戒を解くことはしなかった。
レオンがワタシを側近にした真意を掴むまでは、心を閉ざしたままで居ようと決めていたからだ。
けれども、レオンの言動の真意には裏も表もなかった。
何の他意もなく、極々単純にワタシを気に入ったという様子のレオンがワタシに求めたのは小間使いのような役目ばかり。
確かに明確な立ち位置を求めてここに来た訳ではないけれど、小間使いのようなことばかりをさせられるとは思わなかった。
それも、ファミリーの中ではそこそこ上層部に食い込もうとしている幹部に、だ。
それに対して不満を唱えたら、レオンは背伸びをしようとする子供を嗜めるように笑うだけ。
銃の扱いを心得ていないワタシを撃ち合いに連れては行けない、などと云った矢先に連れて行かれた抗争現場。
心の裡が全く見えないレオンに対する警戒心は募るばかり。
しかしこの現場を経て、ワタシが銃の扱いに得手の気配を感じたらしいレオンは、その後積極的にワタシを射撃の訓練に参加させるようになった。
そこから漸くワタシはレオンに対する警戒を解き始めた。
レオンが求めているのは色ではなく武器なのだと確かに知れてきたからだ。
成程、レオンはどうやら過去の主人たちとは全く違う性質をしているらしい。
いつだか、レオンは笑いながらワタシにこう云った。
「武器は持ち主よりも先に壊れたら意味がないんだよ」
それが比喩表現なのだと気付くまでワタシは少しの時間を要してしまったが、確かにそれもそうですね、とどうにか比喩の理解を示す。
「ワタシは決してアナタより先には壊れません」
主人の目を真っ直ぐ見詰めながら紡いだ言葉には、無意識に誓いの念がこもっていた。
レオンの元に居ればワタシはこれまでとは全然違った人生を歩めるのかも知れない。そう思ったら、ワタシはレオンに対して抱いている警戒心などこれっぽっちも意味がないのだと考えを改め、憑き物でも落としたかのようにレオンへの警戒心を解いたのだった。
そうしてその後すぐに、ワタシは更なる誓いを胸に宿した。
ワタシはこの人の――レオンの為に生きよう、と。
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