ハピネス・ライクパヒューム

白井

第1話:屑は一等星になれない

「人は必ず誰かの何かになる為に生まれてくるんだ。だから決して命を粗末にしてはいけないよ」

 幼い頃、いつか誰かが云っていたその言葉は、いつまで経っても鼓膜の内側に張り付いて剥がれ落ちることはなかった。


 遥か遠く、ワタシが生まれた国では食い扶持を減らす為に子供を売って対価を得るという風習が当然のように存在していた。

 男児に限った話をすると、長子は比較的売りに出されにくい。その家を継ぐという役割を生まれながらに持っているからだ。

 売られるのは大体長子と末子の間の子供。年頃を考えると、末子ではまだ売りに出しても『使い物』になるか分からないからだ。そうして真ん中の子供だったワタシはとびきり甘い飴玉と引き換えに、何の悪びれもなく親族に売り飛ばされた。

 売られる子供は本当に無知な子供か、少々賢い子供がその標的になりやすい。そんな両極の天秤に掛けられた時。ワタシはどちらかといえば、賢い方の部類に振り分けられたらしい。

 心身共に健康、かつ賢い子供はより売値に箔が付く。

 その方が買い手の幅が広がるからだ。例えば養子縁組をしたい人間が子供を買うとしたら、当然賢い子供を選ぶだろう。

 しかし、無知な子供は無知な子供で重宝されることもある。

 イチからその身に『躾』をすることが出来るからだ。

 どちらにせよ、買われた先がアタリかハズレかは買われてみないと分からない。売られた子供当人にとっても、何を以てアタリとするか、ハズレとするかの判断はそれぞれ違うのだから。

 ワタシが輸送中の船から脱走したのは、同じ年頃の子供たちがひそひそと囁き合っていた会話を聞いた後。

 売られた子供の末路なんて大抵は『玩具』にされるのだという幾つもの諦観がワタシを衝動的に突き動かした。

 道楽人間の『玩具』にされるということは、概ね人権を剥奪されるも同然のこと。

 人権なくして生きていかなければならない不自由などごめんだった。

 ここで自死を選ばなかったのは、そうしてしまったら自分が生まれてきた意味が無価値なものになってしまうと思ったからだ。

 喩え売られようとも、売られたという事実は逆に自分にはまだ生きている価値があるということ。

 自分に存在価値がないとハッキリ自覚するまで、ワタシは生きることに貪欲でありたかった。

 考え方を少し変えてみれば、売られたということは親族の期待を背負った身でもある訳で。

 ワタシはワタシが生まれてきた価値。生まれてきた意味を、人生に疲れ果てるまで模索したかった。

 誰かが云っていた、人は必ず誰かの何かになる為に生まれてくるのだ、という言葉を信じ続けたくて。

 そんな模索すら出来ないような扱いを受けるのは勘弁ならず、ワタシは持ち得る知恵をありったけ振り絞って船から脱走したのだった。

 そうして『流れ着く』という言葉に相応しい様相で波間を漂ったワタシは、運良く豪華客船の船員に助けられた。

 丁度下働きが足りなかったところなんだ。このまままた海に放り出されたくなかったら下働きとして働かないか?

 脅しは形ばかりの響き。本当に下働きが足りずに困っているようだと判断したワタシは、衣食住が確約されることに重きを置いて首を縦に振った。

 事実。下働きは少々足りず、ワタシは多くの雑用を任された。それでもここに『自分が生きている価値』を見出したワタシは何の文句も唱えずに労働に勤しんだ。

 そんなとある日。

「ねぇ、君」

 背中で受け止めた呼び掛けに振り返れば、身綺麗な男が一人。青年というには歳がいっているが、壮年とまではいかない。そんな男が品の良い笑みでワタシを手招いた。

 何でしょうか、と歩み寄れば、まじまじと顔を見詰められる。まるで品定めをするかのような眼差しに内心不快感を覚えつつ、表面上は純朴な少年を装いながらその男の眼差しを受け続ける。

「勿体無いな」

 ふむ、と口許に手を遣った男の台詞に、何が? と首を傾げる。

「こんな見目の良い子が下働きをしているだなんて勿体無い、という意味だよ」

「……はぁ」

 見目が良い、とは確かに初めて云われた言葉ではない。

 ツヤのある褐色の肌に、ダークチョコレートのような色をした癖の少ない髪の毛。

 双眸は深い青色をしていて、光の加減によっては時折金色の粒が瞳の奥で瞬くらしい。

きっとこの点に於いてもワタシの売値には箔が付いたに違いない。

「僕の元に来ないかい?」

「……は?」

 男の誘いの意味が分からずキョトンとすれば、肩に手を置かれた。

「僕の元へ来れば、今よりもずっと良い暮らしをさせてあげられるよ」

 悪い話ではないと思うけれどどうかな?

 肩に触れる体温を感じながら、それはワタシの一存では決め兼ねることですと丁重に一歩足を引く。

「じゃあ船長と話をしてこよう」

 船長が良いと云ったらワタシと一緒にこの船を降りてもらいたい。

 願望のような言葉遣いは、しかし既に決定事項のように放たれる。

 けれども、ここでワタシに『否』を紡ぐ権利はない。

 衣食住を確保してくれた船長に恩義のあるワタシだから、船長が男の話を呑めば、ワタシはただその選択肢に身を委ねるだけ。

 結論から云えば、ワタシはその身綺麗な男と一緒に船を降りた。

 それが『売られた』のだと気付いたのは、男に色を求められた時のこと。

 成程、己の人権を守る為にと命からがら逃げてきたというのに、結局こうなってしまうのか。船長を信じ、男の云う通りにした結果はワタシに少なからず苦渋を味合わせた。

 それでも色を求められる以外、ワタシに対する男の待遇は悪くなかった。

 これはこれで誰かの何かになっているのだと思えば、悲惨な経験ではない気もする。

 それに、この男はワタシに多少の学を身に付けさせてくれた。

 曖昧だった文字の読み書きを数ヶ国語学ばせてくれたし、社交場でのマナーを覚えたのも悔しいけれどこの男のお陰。

 初めて求められた色事は何度回数を重ねても苦痛しか感じなかったが、それを上回る利をワタシに与えてくれたのだから、一概に悪いばかりではない生活を送らせてもらっていた。

 ……そう。もらっていた、のだ。

 ある日の社交場で、ワタシは別の男に声を掛けられた。今度は壮年といって間違いない男だった。

「可愛い顔をしているね」

「ありがとうございます」

 社交辞令を学んでいたワタシは、その男に人当たり良く微笑む。

「君の主人とは懇意にしていてね」

「それは、存じ上げず申し訳ございませんでした」

「いや、構わないよ。それより、少しここで待っていてくれないか?」

「ワタシに何かご用でも?」

「用向き、といえば用向きかな」

 これを飲みながら暫くここに居て欲しい。

 通りすがりの給仕からノンアルコールのグラスを取ってワタシの手にそれを握らせた男は、人波の向こうへと消えて行った。

 その男が戻って来たのは数十分後。いたく機嫌良さそうな顔をしたその男は極々自然にワタシの肩を抱いて「さぁ行こうか」と足を踏み出した。

「どちらへ?」

 壮年の男を見上げれば、その男は満面の笑みを浮かべながらこう云った。

「今日から君の主人はワタシだよ」

 ほぅ、と胸中に落ちた溜息は呆れの色。

 ここでも売買があったのだろうと悟ったワタシはもうどうにでもなれという気持ちだった。

 予感はあったが、やはりこの男にも色を求められた。

 気乗りしない色事を、そうとは悟られぬように受け入れる。

 ワタシの生きる価値は『己の身体を求められる』ところにあるのだろうかと思ったら、苦虫を噛み潰したような顔をしたくなった。

 その後もワタシは何人かの男の元を渡り歩くことになる。

 愚かしくも、次の主人こそワタシを『人間』として扱ってくれるのではないかと信じて。

身寄りを失くしてから視界の端にチラつくノイズが消えてくれる日をワタシは待ち続けた。

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