第二章 数の断層
朝の光は、やけに白かった。
カーテンを通り抜けた陽射しが、教室の窓から差し込み、机の上に置かれたノートを無理やり照らし出す。
余白は白すぎて、文字が書かれていないこと自体を責め立てるようだ。
黒板に並ぶ教師の文字は確かに目に入っているはずなのに、美緒の頭には意味を結ばず、ただ通り過ぎていく。
——昨日の「19番」のことが、まだ消えない。
返事はあった。
声は確かに響いた。
でも、顔は思い出せない。
名前も、髪の色も、席の位置さえも。
「……」
鉛筆を握る手に、じわりと汗がにじんだ。
ただの物忘れなら、誰かに聞けばいい。
でも、それを口にした瞬間、自分の方が「おかしい」と断罪されそうな恐怖があった。
チャイムが鳴り、授業が一旦区切られる。
椅子を引く音が重なり、教室は一気にざわめきに包まれた。
笑い声、机を叩く音、廊下からの足音。
その雑音の中で、美緒の視線は自然と教室の後ろにある掲示板に吸い寄せられていた。
そこには去年の行事写真がずらりと貼られている。
入学式、遠足、文化祭、体育祭。
どれも色彩豊かで、笑顔にあふれている。
女子たちが肩を並べ、ピースサインをしている姿。
紙の中の彼女たちは、今より少し幼く見えた。
だが——。
美緒の目は一枚で止まった。
体育祭のリレー。
バトンを受け渡す瞬間を切り取った写真。
列の後ろに、ぽっかりとした空白がある。
最初は光の加減かと思った。
逆光で顔が潰れているだけだと。
だが、近づいて見れば見るほど、それは「影」ではなかった。
誰かが確かにそこにいたのに、その存在だけが塗りつぶされたように黒く濁っていた。
まるで写真そのものが、強制的に修正されたかのように。
美緒は思わず前に歩み寄り、写真に顔を近づけた。
指でそっとなぞる。
冷たい光沢紙の感触しかない。
なのに視覚だけは欺けない。
そこに「消された誰かの痕跡」がはっきりと残っている。
「美緒、どうしたの?」
背後から声がして、美緒ははっと振り返った。
綾乃が怪訝そうに立っていた。
美緒は迷いながら口を開いた。
「……ねえ、去年の体育祭って……全員、女子だけだったっけ?」
綾乃は一瞬目を丸くしたが、すぐに笑って肩をすくめた。
「当たり前でしょ。うち女子校なんだから」
「……でも」
言葉を続けようとした瞬間、美緒の耳の奥で声が弾けた。
——み、て、る。
子どもの高さで囁いているのに、同時に男の低さで胸の奥を震わせる。
二重に重なった、不可能な響き。
美緒は息を詰めた。
「何?」
綾乃が不思議そうに覗き込む。
「美緒、変なこと言うじゃん。らしくないよ」
彼女の笑顔は自然なはずなのに、口元だけがわずかに固まって見えた。
美緒は視線を落とし、唇を噛んだ。
教室の空気は賑やかなのに、美緒にはそのざわめきが遠く、うすっぺらな膜の向こうにあるように聞こえた。
周囲の女子たちは、楽しげに写真を指さしていた。
「懐かしいね」「来年はもっと盛り上げようよ」
誰一人として、あの空白に触れようとしない。
胸の奥に、冷たい鉛のようなものが沈んでいく。
——去年、本当に女子だけだったのか?
放課後。
美緒は無意識に図書室へ向かっていた。
木の扉を押すと、埃を含んだ冷たい空気が流れ込む。
窓からの光は斜めに差し込み、本の背表紙を縞模様に染めていた。
アルバムの棚に手を伸ばし、「令和×年度 一学年」と記された冊子を取り出す。
表紙をめくった瞬間、心臓が大きく跳ねた。
——クラス写真。
整列した女子たち。
その列の端に、また黒い塗りつぶしがあった。
黒インクのように濃く、それなのに紙に沈まず浮き上がっている。
澪は指先でそっと触れた。
ざらりとした感触。
次の瞬間、ぬるりとした柔らかさがまとわりついた。
生きた皮膚に触れたような感触に、思わず息を呑み、手を引いた。
背筋に冷たいものが這い上がる。
心臓の鼓動が速くなる。
——そこには、誰がいたの?
アルバムのページが、風もないのにひとりでにめくれた。
美緒は立ち尽くしたまま、その黒い塗りつぶしを凝視し続けた。
夕暮れが迫るころ、美緒は寮へ向かって歩いていた。
校舎の影が長く伸び、石畳に縞を刻んでいる。
昨日案内されたばかりの寮——塔を抱えた古びた洋館——が、赤い光を背に不気味な影を落としていた。
初めてのはずなのに、胸の奥に妙な懐かしさがあった。
角を曲がれば何があるのか、廊下の先にどんな部屋が並ぶのか、美緒はなぜか知っていた。
擦り切れた絨毯の模様や、手すりに刻まれた細い傷。
その一つひとつが「既に見たことのあるもの」として脳裏に浮かび上がる。
「どうしたの、美緒?」
隣を歩く綾乃が首をかしげた。
「……ううん、なんでもない」
「緊張してるんだよ、初めての寮生活だから」
綾乃は軽やかに笑った。
——初めて。
その言葉が胸に重く沈んだ。
本当に「初めて」なのだろうか。
食堂の掲示板の横に、古い学校案内の冊子が何冊か並んでいた。
美緒は一冊を手に取り、表紙をめくる。
そこで息を呑んだ。
——男子制服の写真。
紺色のブレザーにネクタイ。
下には「男子生徒も同じ寮で生活します」と小さな説明文が添えられていた
心臓が凍りつく。
しかし瞬きをした次の瞬間、その文字も写真も消えていた。
ページは真っ白な余白に変わり、最初から何もなかったかのように。
「どうしたの?」
背後から声がして、美緒は振り返った。
春野美咲が立っていた。
黒曜石のような瞳が光を吸い込み、口元に静かな笑みを浮かべている。
「今……ここに、男子の制服が」
声が震える。
美咲は首をかしげ、ゆっくりと首を振った。
「古い冊子なんて誤植ばかりよ。男子なんて、最初からいなかったじゃない」
その声音は柔らかいのに、胸を突き刺すような冷たさを帯びていた。
否定の言葉が、世界の方に重みを与える。
美緒の中でかすかに灯っていた「違和感」が、ひと息で押し潰されそうになる。
だが——。
冊子を閉じた途端、風もないのにページがひとりでにめくれた。
ぱらり、と音を立てて開かれた先に印字されていたのは——
——二年C組。
まだ始まったばかりのはずの今年度のクラス名。
あり得ない。
こんなものがもう冊子に載っているはずがない。
喉が固まり、声にならなかった。
そのとき、耳の奥で声が響いた。
——み、て、る。
子どもの高さで囁くのに、同時に男の低さで胸を震わせる。
二重にずれた声が、美緒の体を縫い止めた。
矛盾ではなく、現実ではあり得ない重なり。
その響きこそが怪異の証だった。
美緒は振り返った。
廊下には誰もいない。
ただ窓ガラスに映る自分の姿があった。
その隣に、背の高い影が立っていた。
影は美緒の肩に寄り添うように並び、わずかに首を傾けた。
美緒が慌てて振り返ると、そこには誰もいなかった。
けれどガラスの中ではまだ、その影だけが確かに息をしていた。
その夜、美緒は布団に潜り込んでも眠れなかった。
耳の奥で微かな呼吸が続いている。
胸の上に、見えない誰かの重みがのしかかる。
冷たい汗が首筋を伝い、背中を濡らした。
——今年もまた、何かが“消されていく”。
美緒は暗闇の中で目を閉じられず、ただ息を潜め続けた。
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