第三章 呼びかけの空洞

夜は、静かに、しかし確実に寮を呑み込んでいった。

夕食のざわめきも、消灯前の談笑も、廊下に響く足音も、すべてが霧のように消えていく。



古びた洋館のようなこの建物は、闇に覆われるとまるで別の存在に変わる。

昼間は古びた寮舎にすぎなかったはずなのに、夜になると壁は煤けたように黒く沈み、窓は冷たい光を吐き出す。

塔の影は地面に裂け目のような模様を刻み、建物全体が生き物の臓腑になったかのように思えた。



美緒はベッドに身を横たえていた。

毛布を胸元まで引き寄せても、体の芯から這い上がる冷えは消えない。

瞼を閉じると、昼間の光景が否応なく蘇る。

黒く塗りつぶされたアルバムのページ。



一瞬だけ見えた男子制服。

窓ガラスに映り込んだ背の高い影。



それはただの記憶ではなく、体に刻まれた美緒傷のようにの中に残っていた。

思い出すたびに胸が締め付けられ、呼吸が浅くなる。

「気のせいだ」と心で繰り返しても、鼓動は勝手に速さを増していった。



同室の二人はすでに眠っている。

月光に照らされた頬は白く、呼吸は静かで穏やかに見える。

だが耳を澄ませば、その寝息はあまりに均一すぎた。

揺らぎもなく、寝返りの気配もない。

寸分違わぬ間隔で繰り返される吐息は、人間のものというより録音テープの再生のように感じられる。



美緒は喉の奥がひりつくのを覚えた。

本当に眠っているのか、それとも「眠っているふり」をしているのか。

答えは闇に吸い込まれ、確かめるすべもない。



時計の針の音がやけに大きく聞こえた。




カチリ、カチリ。




一秒ごとに部屋の空気が区切られ、夜が硬質な形を帯びていく。

時を刻むはずの針は、むしろ「何かが近づいてくる」合図のように感じられた。



美緒は毛布を頭まで引き寄せた。

暗闇に閉ざされた世界では、耳はかえって敏感になりすぎる。

ベッドの軋み、布の擦れる音、心臓の鼓動、血流のざわめき。

そのすべてが増幅され、外に向かって「ここにいる」と叫んでいる気がしてならなかった。



寮全体が不自然に静まり返っていた。

隣の部屋からも廊下からも、何一つ物音がしない。

本来なら窓の外から聞こえてくるはずの虫の声も、風に揺れる木々の音もない。

息苦しさは、まるで棺に閉じ込められたような圧迫感へと変わっていった。



美緒は目を閉じ、呼吸を浅くし、体を小さく丸めた。

眠ろうとすればするほど、意識は冴え渡っていく。

闇の底から滲み出すざわめきが、心を侵食していくようだった。



——そのとき。



コツ……。



廊下から音がした。

乾いた靴音。



女子のスリッパの柔らかな音ではない。

硬い革靴が床板を叩くような、重い響き。




美緒の背筋に冷たいものが走った。

夜中に廊下を歩く生徒などいない。

寮母の巡回も終わっている。

それなのに、その音は規則正しく、迷いなくこちらに近づいてきていた。



一歩ごとに心臓が跳ね上がり、肺の奥が冷えていく。

布団の中で呼吸を止め、胸を押さえた。

だが鼓動は裏切るように激しく打ち、体の奥から外へ漏れてしまうのではないかと恐怖が膨らむ。



隣の二人は相変わらず、機械のように均一な寝息を刻んでいる。



——聞こえていないの?



それとも、聞こえているのに「気づかないふり」をしているの?



足音は、部屋の前で止まった。




——コン。




扉を叩く音。

短く、一度だけ。

乾いた衝撃が夜の静寂に鮮やかに響き、美緒の鼓膜を打ち抜いた。



息を呑む間もなく、再び。




——コン、コン。




控えめなのに、逃げ場を与えない。

確実に「そこにいる」と告げている音。

喉が砂を含んだように乾き、声が出せなかった。




「……だれ……?」



かすれた声が、唇の奥から零れた。


返事は、なかった。


ただ。


耳の奥に、直接囁きが落ちてきた。




——みてる。




子どもの高さの声と、低い男の声が同時に重なる。

二重に響くその囁きは、音ではなく美緒の意識に刻まれた。

耳を塞いでも意味はない。

声は外からではなく、頭の中に直接入り込んでくる。




——みてる。

——みてる。




鼓動と同じリズムで繰り返されるその言葉が、美緒を縫い止めていた。



扉を叩く音は三度で終わった。

それ以上、音は続かなかった。

廊下には静寂が戻り、ただ冷たい夜気だけが漂っている。



だが、美緒の胸は落ち着かなかった。

耳の奥にはまだ、あの囁きが残っていた。

皮膚の下に針のように刺さり、抜けないまま疼いている。



布団の中で耳を塞ぎ、息を潜める。

その瞬間、世界は止まったかのように感じられた。

時計の針の音も、隣の寝息も、すべてが遠のいていく。




——コツ。





突然、足音が再び動き出した。

規則正しく、淡々と廊下を進む音。

今度は遠ざかっていく。

迷いもなく、一定の間隔を刻んで。



美緒は胸に溜め込んでいた空気をようやく吐き出した。

肺の奥に冷たさが広がり、喉が焼けるように痛む。



……終わったのか。

そう思いたかった。


けれど。




——みてる。




耳の奥に、まだ声が響いていた。

足音は去っても、囁きだけは美緒を離れない。

外からではない。

頭の中に直接焼き付くように、絶え間なく繰り返される。




——みてる。

——みてる。





リズムは心臓の鼓動と重なり、全身を縛りつける。

布団を握る手は汗で濡れ、震えが止まらない。



美緒は目を閉じた。

だが暗闇の中に、昼間の光景が浮かび上がる。

黒塗りのアルバム。

そこに貼りついた空白。

その隙間から、穴のあいた顔が覗き込む。


 


「やめて……」




声にならない声が漏れた。


ぱたり、と窓が鳴った。

外は無風だ。

それなのにガラスが波打ち、月明かりを歪ませる。



美緒は恐る恐る顔を上げた。

窓には自分の姿が映っていた。

布団を抱え、怯え切った顔の自分。






——その肩越しに。




背の高い影が立っていた。


輪郭ははっきりしているのに、顔の部分だけが深い穴のように抜け落ちている。

影は美緒の背後に立ち、首を傾け、覗き込んでいた。





「っ……!」




美緒は反射的に振り返った。

だが、部屋には誰もいない。

隣の二人は相変わらず均一な寝息を立てている。



もう一度、窓を見る。

影はまだ映っている。

今度はゆっくりと口を開いた。

声は出ない。

けれど胸の奥に、重みだけが押し寄せてきた。



肺が押し潰され、空気が入らない。

体を起こそうとしても、四肢は鉛のように重く動かない。


金縛り。


いや、それ以上だ。

意識そのものが圧迫され、自由を奪われていた。



耳元に吐息がかかった。

湿った、冷たい呼吸。

それが美緒の頬をなぞり、氷のような感触を残す。




 ——みてる。




声はもう囁きではなく、胸骨を叩く音そのものになっていた。

心臓の鼓動と同じリズムで、体の内側から美緒を縛る。



美緒は歯を食いしばり、布団の端を握りしめた。

汗で滑りそうになる指先に力を込める。

涙がこぼれそうになり、喉が詰まって声にならない。





そのとき——窓の外に光が揺れた。




夜明け。

東の空がわずかに白みはじめていた。



影はふっと消えた。

胸を押さえていた重みも消え、呼吸が戻る。

美緒は咳き込むように空気を吸い込み、肺が焼けるように痛んだ。



窓にはもう、泣き顔の自分だけが映っていた。



夜は終わった。

けれど美緒の胸には確信が残った。






——これは始まりにすぎない。



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