第一章 白の残滓

朝の鐘が鳴るよりも早く、美緒は目を覚ました。

まだ夜と朝の境い目にある空は灰色で、鳥の声すらなく、窓の外には無数の細かい粒子のような白い靄がただ漂っていた。

天井の木目をなぞるうち、昨夜の「飛んだ番号」の光が、まぶたの裏にまた浮かぶ。

数字は確かに存在しているのに、そこに割り込んだ空白が、美緒の頭の奥をざわつかせる。



寝具を静かに抜け出し、寮の廊下へと出た。

廊下は長く、片側に窓が並び、朝の薄光がまだ届かずに冷え冷えとしていた。

壁に並ぶ真鍮の部屋番号は、夜の余韻を抱いたまま鈍い金色に沈み、手で触れると指先に氷のような冷たさが吸いついてくる。

板張りの床は磨かれているのに湿気を帯びており、裸足で歩けば皮膚にじわりと吸い込んでくるようだった。



階段を下りると、木の手すりは古く、何度も磨かれた痕が光をにじませている。

指先に残る湿り気が、まるで誰かがつい先ほどまでそこに触れていたように生々しかった。



食堂には、すでに数人の女子が集まっていた。

長テーブルにはパン籠と大鍋のスープ。トーストの焦げる香ばしい匂いと、温められたミルクの甘い匂いが重なり合って、まだ眠い頭をゆるやかに撫でる。

少女たちは肩を寄せ合い、笑い声を漏らし、互いの髪を梳いて結い直し、制服の襟を正していた。

美緒は、その「整いすぎた朝の光景」を眺めながら、自分の心臓がひとつだけ拍を外しているような違和感を覚えた。



「おはよう、美緒」



声をかけてきたのは佐藤綾乃だ。

黒髪を低い位置で二つに結び、笑ったときにえくぼが浮かぶ。トレイを抱えた彼女は、湯気の立つカップを美緒の前に差し出した。



「ありがとう」


「眠れた?」


「……まあまあ」


「私も。夢、変だったなあ。あの寮、夜は音が多いでしょ?」



綾乃は笑みを含ませた声でそう言った。軽い冗談のように聞こえる。

けれど美緒には、綾乃の瞳がほんの一瞬、自分の顔を探るように揺れた気がした。



二人で並んで座り、食事をとった。

食堂の窓からは校庭の桜並木が見える。

散りかけの花弁が風に吹かれ、淡い桃色の層となって地面を覆っていた。

花弁は空気に舞い、湯気に混じり、息を吸うたびに甘くも苦い感触を残した。



食事を終えて校舎へ向かうと、昇降口の床は磨かれ、朝の光を白く反射していた。

靴を履き替えて二年C組の教室に入ると、机は正しく並び、椅子もすべて揃っていた。

黒板には「歓迎 二年生」の文字。線は乾ききった白色で、ほんの少しひび割れて見えた。

窓際のカーテンが風に揺れ、机の上に波のような光を落とす。

まるで机そのものが水面になり、見えない影を一瞬だけ浮かび上がらせるように。



美緒は自分の椅子に腰を下ろし、名札を取り出した。




——18。




番号は正しく、机の配置も整っている。

それなのに胸の奥で、昨夜の「飛んだ番号」がざらりと蘇る。



「番号、ぴったりだね」


綾乃が隣で微笑む。


「……うん」


美緒は小さく答える。

ぴったり。そう、すべてが、ぴったりだ。



やがてチャイムが鳴り、担任の片桐先生が教室に入ってきた。

白いシャツの袖をまくり、眼鏡の奥の目は冷静で、出席簿を開く手つきに一切の淀みがない。



「出席を取ります」



一人ずつ名前を呼ぶ声が、教室の空気をひとつひとつ震わせ、そして静かに収めていく。



——16番、はい。

——17番、はい。

——18番、成瀬美緒。




「はい」




美緒の声が空気に吸い込まれていく。


その直後、先生の指がほんのわずかに止まった。



——19番、



一拍遅れて、声が返る。



——はい。



確かに女子の声だった。



しかし美緒には、その声の主の姿が網膜に焼きつかなかった。

机も椅子も並び、生徒はそれぞれの席に座っている。

けれど19番の席にいる人物だけが、ぼんやりと霞み、色彩が薄く、水彩画のように境界を持たない。

目を凝らしても、視線がすり抜ける。

隣の綾乃は平然として、ノートを開き、ペンを走らせていた。ほかの生徒も、誰一人として不自然さを口にしない。



美緒は胸の奥に冷たい塊を抱いたまま、鉛筆を握る手を強く閉じた。

木の軋む音が耳にこびりつき、心臓が自分だけ別の拍で打っているように感じた。



休み時間。

美緒は消しゴムを机に転がしながら、横に座る綾乃へ声を落とした。



「ねえ、……19番って、誰?」



綾乃は一瞬きょとんとしたが、すぐに笑って肩をすくめた。



「なにそれ、冗談? 昨日から一緒にいたでしょ。ほら、あの子」



指さされた先には、肩までの髪を切りそろえた女子が、友人とノートを見せ合いながら笑っていた。

唇の形、目の動き、制服のしわまでちゃんとある。

なのに美緒の記憶には、その顔がどこにも繋がらなかった。昨日の朝食の席にも、夜の寮の廊下にも、そんな姿はなかったはずだ。



「……名前は?」


美緒が食い下がると、綾乃の表情が一瞬だけ固まった。


「え? えっと……」


綾乃は口を開いたが、音が出なかった。喉の奥が空気を押すだけで、言葉が生まれない。


「ほら、いるじゃん。……いるでしょ」


困惑したように笑い直す綾乃。

だが笑顔の端はぎこちなく、目の奥は小さな影を宿していた。



授業の合間に、美緒は机の中を整理した。教科書やノートを取り出したとき、薄い紙片がひらりと落ちる。

床に拾い上げたそれは、古びた白黒写真だった。



寮の玄関ホールに飾られていた集合写真に似ている。制服姿の少女たちが列をなし、整然と笑顔を向けている。

だが中央より少し後ろに並ぶ数人の顔だけが、黒い塗料で塗りつぶされていた。

その黒は写真の中に沈んでおらず、むしろ紙の表面に浮き出していて、指でなぞるとざらりとした感触を返した。



裏返すと、インクで「昭和五十二年度卒業生」と記されていた。

古びたはずの文字は、今書かれたばかりのように艶を残している。

鼻先にかすかな匂いが届いた。湿った鉄の匂い。インクの揮発する匂い。

どちらともつかない、不吉な残り香。



「それ、どこで見つけたの」


背後から声が落ちた。

クラス委員の春野美咲が立っていた。

黒曜石のような瞳が光を吸い、唇には淡い笑み。


「机の中に……」


美緒はとっさに写真をノートで挟み込んだ。


「ふうん」


美咲は小さく笑い、それ以上は何も言わなかった。

けれどその視線だけが、美緒の背中に焼きついて離れなかった。



放課後。

夕暮れの光が校舎を薔薇色に染める頃、美緒は机を片づけながら窓の外を見た。

校庭の隅の桜の木の影の下に、背の高い影が立っている気がした。

制服は着ていない。輪郭が揺らぎ、視界の端にしか映らない。

瞬きをしたときには、もう消えていた。



夜。寮の消灯時間。

廊下の灯りが落ち、空気がしんと冷たく沈む。

美緒は用を足して部屋へ戻る途中、足音が自分の後ろからついてくるのを感じた。



板張りを踏む軽い音。美緒が歩けば、必ずもう一歩、遅れて響く。

心臓が速くなる。振り返っても、廊下には誰もいない。



ただ窓ガラスに映る自分の影が、少しだけ背を高くして揺れていた。



息を殺し、足を速めた。




——コッ、コッ。



音も速まる。

部屋の前に辿り着き、ドアを開けて滑り込むように中へ入った。

ベッドには綾乃がもう横たわり、寝息を立てている。

美緒は布団に潜り込み、耳を澄ませた。




——ぴったり。




人数も机も声も。

この世界は、すべてが揃っている。

それなのに、美緒の記憶の中にだけ穴がある。






その穴の底から、声がした。





み、て、る——




昨日よりも、はっきりと近くに。

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