第8話 『嘘のない、本当の』


 和架さんとの別れから、三日が経った。仕事も上の空で、太郎だけが心の支えだった。


「太郎、俺はどうすればいいんだろう」


 太郎は膝の上で、いつものように「ゴロゴロ」と喉を鳴らしている。この音を聞いていると、少しだけでも心が落ち着く。


 携帯を何度も手に取っては、和架さんに電話をかけようとして、結局やめてしまう。何から話せばいいのか、それをまだ彼女が聞いてくれるのか、わからない。


 でも、…………。


 俺は太郎を抱き上げて、決心した。


「太郎、一緒に来てくれる? 和架さんに、本当のことを話しに行こう」



   *



 和架さんの就業時間が過ぎたころ、太郎のキャリーバッグを持って彼女の部屋に向かった。インターホンの前で、しばらく立ちすくんでいた。初めて会った日みたいに。


 手が震えている。太郎のキャリーバッグを持つ手も、インターホンを押そうとする指も。


「大丈夫…………、太郎が、ついてる…………」


 深呼吸をして、ボタンを押した。


 ポーン。


『はい』


 和架さんの声だった。心なしか、いつもより冷たく聞こえる。


「比良崎さん、草留です。お話があって来ました」


 しばらく沈黙があった。


「お願いします。どうしても話したいことがあるんです」


 また沈黙。心臓の音がますます激しくなる。


『……私も、聞きたいことがあります』


 やがて、そうドアが開いた。和架さんの表情は硬く、いつもの優しい笑顔ではなかった。


「上がってください」


 部屋に入ると、なごみがいつものように近づいてきた。でも今日は、なごみを見ても足が震えなかった。太郎がいるから?


 俺はキャリーバッグをソファの前に置いて、太郎を中から出した。太郎はすぐになごみに挨拶をして、二匹は仲良くじゃれ合い始める。


「太郎くん……本当は、私と話してから保護猫カフェから引き取ったんだよね?」


 和架さんが、静かに聞いた。


「はい」


「最初から、猫が好きっていうのも、全部、嘘だったんだよね?」


「はい……でも」


 俺は太郎を抱き上げた。太郎は腕の中で、安心したように俺に体を預けてくる。


「でも、今は太郎のことを、家族だと思ってるのは本当です」


 和架さんは、黙ってそんな俺たちを見つめていた。膝の上で握った小さな彼女の拳に、力が込められている。ものすごく、怒っているのかもしれない。それなのに、俺をまたこの部屋に入れてくれたのかも。


「和架さん、僕には話さなきゃならないことがあります」


 俺は震える声で話し始めた。


「僕は……実は、猫が…………怖い、んです」


 和架さんの表情が変わった。


「小学生の時に、初恋の女の子の飼っていた猫に噛まれて、大怪我をしました。それから、猫が怖くて仕方なくなってしまったんです」


 でも、俺は太郎を抱きしめた。太郎は「にゃあ」と小さく鳴いた。


「でも和架さんに会って、部屋でなごみに出会ったとき、どうしても猫が苦手だって言えなくて……言ったら、和架さんと二度と話せなくなるような気がして。苦し紛れに『僕も猫を飼ってます』って、つかなくてもいい嘘をついてしまったんです」


「桜介くん……」


「それで本当に猫を飼わなきゃいけないと思って、ペットショップや保護猫カフェを渡り歩いて。決して褒められた理由じゃないんです」


 声が震える。


「でも、俺は、……」


 太郎に。


「そこで、太郎に出会いました」


 ふっと、和架さんの拳が緩んだように見えた。


「俺の膝で眠った太郎を見て、太郎なら俺でもやっていけるかもって、そんな気持ちで引き取った。それでも最初は怖くて、夜も眠れませんでした」


 それ以上を話そうとすると、目に涙が自然と浮かんだ。


「でも太郎と一緒に過ごすうちに、少しずつ、猫が…………」


 そこから先は、軽くは言葉にできなかった。


 喉が詰まって、自分でも、今ものすごく大切なことを言おうとしてるのが分かる。


「猫が…………怖く、なくなって…………」


 かっこ悪いけど、こらえられない。目から、涙がこぼれてしまう。


 俺にとってそれくらい、大きなこと、だから。


「…………太郎のことが、本当に愛おしくなったんです」


 太郎は俺の顔を見上げて、「ゴロゴロ」と喉を鳴らしながら涙を舐めた。


「猫恐怖症は、まだ完全には治ってません。なごみを見ると、まだ少し怖いです。でも太郎がいれば、大丈夫なんです」


 和架さんを見つめる。


 まだ俺は、和架さんにほんとの気持ちを伝えてない。


「僕は嘘つきです。でも和架さんのことが好きで、その気持ちだけは本当で……太郎への愛情も本当です」


 涙を手で拭く。そのまま、俺は続けた。


「昨日動物病院で会った獣医さんは、僕の初恋の人でした。幼馴染で……猫に噛まれたときの子です。久々に会って。働いてるって知らなくて。懐かしくて、色々話をしました」


 でも。


「でも、今の僕には、和架さんしかいません。駅で。梨を拾った和架さんを見て。この人だって思ったんです。一目惚れでした」


 和架さんは、黙って聞いていた。怒ったようなその表情からは、何を考えているかわからない。


「もう一度。できればもう一度、嘘を許してもらえるなら。やり直させて、もらえませんか? ……今度は嘘をつかずに、本当の自分で」


 俺が言い終えると、部屋に静寂が流れた。太郎のゴロゴロ言う音だけが聞こえる。


 和架さんが、ようやく口を開いた。


「桜介くんは、もしかして」


「はい」


「私のために、猫恐怖症を克服しようとしたのかな?」


「……はい」


「太郎くんを引き取って、ほんとは怖いのに、一緒に暮らして」


「はい……でも今は怖くありません。太郎のことが可愛いです」


 和架さんは、ぷぅっと片方のほっぺたを膨らませた。

 その両目に、涙が浮かんできて溜まる。


「なんで最初から、本当のことを言ってくれなかったの?」


「怖かったんです。猫恐怖症だって知ったら、和架さんが僕を嫌いになるって思って」


「そんなわけないよ」


 涙を拭く和架さんの声が、震えていた。


「私、桜介くんがそんなに頑張ってくれてたなんて知らなかったよ。全部さ、初めから全部、正直に言ってくれたらよかったんだよ」


「すみません。嘘をついて、和架さんを悲しませて」


 和架さんは立ち上がって、俺の隣に歩いてきて、そのまま座った。


「太郎くん、桜介くんのこと、大好きなんだよね」


 太郎は俺の膝の上で、幸せそうに丸くなっている。


「桜介くんも、太郎くんのことを心から大切にしてる」


「はい」


「それでいいんだよ。もう。わざわざ嘘なんかつかなくてもさ。やだな、私までもらい泣きしちゃったよ?」


「俺、和架さんのことが好きです。嘘偽りなく」


「ぷっ」


 和架さんは、告白した俺の隣で吹き出した。久しぶりに見る、あの優しい笑顔だった。


「私も、桜介くんのこと好きです」


 俺の心に、温かいものが広がる。


「ほ、本当ですか?」


「うん。嘘つきな桜介くんは確かに困った人だけど、私のために猫恐怖症を克服しようとしてくれた桜介くんは、すごく素敵だと思うよ。ね、太郎くん」


 和架さんは、太郎の頭を撫でた。太郎は気持ちよさそうに目を細める。


「太郎くんも、桜介くんに引き取ってもらえて幸せだよね」


 俺は太郎を抱きしめた。


「太郎、ありがとう」


 太郎がいなければ、和架さんとうまくいくこともなかった。太郎がいなければ、猫恐怖症を克服することもなかった。


 これが、『運命的な出会い』って、やつなのかもしれない。


 だとしたら。


 俺と、和架さんは。


「あの、和架さん」


「なに?」


「今度は本当にお付き合いしませんか? 嘘のない、本当のお付き合いを…………」


 和架さんは頬を赤らめて、またほっぺたを片方だけ膨らませた。分かりにくいけど、もしかしてこれは照れ隠しなのかもしれない。


「…………はい」


 小さくそう言うと、俺の肩に小さな頭をこつんと乗せる。


 それを見て、静かにしていたなごみがようやく「にゃーん」と鳴く。

 そんな俺たちの膝に、飛び乗ってくる。


 俺は一瞬身構えたが、太郎がすぐに姿勢を変えて、見守るように俺に寄り添ってくれた。


 なごみは俺の膝の上に乗って、太郎を押しのけるように丸くなる。


「ふふ」


 和架さんが、嬉しそうに笑った。


「なごみも、桜介くんを歓迎してるみたい」


 俺はそっと、なごみの頭を撫でてみた。まだ少し緊張はするが、あれほど怖かったなごみが、今は不思議と怖くはなかった。


 きっと、太郎がいるから。


 そして、和架さんがいるから。


「ありがとう、なごみ」


 なごみは「ゴロゴロ」と喉を鳴らして、俺の顔を、笑ってるみたいな顔で見上げた。

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