第6話 『嘘』
みどりの森クリニックは、想像していたよりずっと大きな病院だった。待合室には犬を連れた家族連れや、キャリーバッグに入った猫を抱えた人たちがたくさんいて、人間の総合病院みたいだ。
「太郎、大丈夫だからね」
太郎の入ったキャリーバッグを抱えて、受付に向かう。太郎は緊張しているのか、普段より大人しい。
「予約の草留桜介です。太郎の予防接種でお願いします」
「ああ。あなたが草留さんですね! はい、少々お待ちください」
受付を済ませて待合室に座ると、隣のキャリーバッグから大きな鳴き声が聞こえてきた。中を覗くと、なごみよりもシュッとした、でも大人の黒猫がこちらを見つめている。
体がこわばった。太郎のような小さな猫になら慣れてきたが、大きな猫はまだ苦手だ。ラ・フランスの記憶がよみがえってくる。
「あの、すみませんね」
黒猫の飼い主らしき女性が、声をかけてきた。
「うちのクロ、そちらの猫ちゃんに興味があるみたいで」
「あ、大丈夫です」
俺は愛想笑いを浮かべたが、内心は冷や汗をかいていた。クロと呼ばれた黒猫は、キャリーバッグの格子越しに太郎に向かって延々と鳴いている。
「太郎くーん」
突然、聞き覚えのある声が響いた。
俺が振り向くと、そこには白衣を着た女性が立っていた。結んだ長い髪に、優しそうな目元。
十年以上の時を経ている。それでも、俺にはすぐにわかった。
「梨花……ちゃん?」
「え?」
梨花ちゃんは俺を見つめて、少し首をかしげた。
「すみません、どちら様でしょうか?」
「あ、僕……草留桜介です。昔、坂井梨花ちゃんの隣に住んでて……」
梨花ちゃんの表情が、ぱっと明るくなった。
「桜介くん! 本当に桜介くんなの? わあ〜っ、大きくなったねえ!」
「はい……久しぶり」
梨花ちゃんは、獣医師になっていた。背筋の伸びた立ち姿に、白衣がよく似合っている。昔と変わらない、優しい笑顔だった。
「太郎くんの飼い主さんが桜介くんだったなんて、びっくり!」
「梨花ちゃんがここで働いてるなんて、僕もびっくりで」
梨花ちゃんは、診察室に俺を案内した。太郎のキャリーバッグを診察台に置くと、梨花ちゃんは慣れた手つきで太郎を取り出す。
「太郎くん、いい子ね。優しいおとなしい子」
梨花ちゃんが太郎を撫でているのを見て、複雑な気持ちになった。昔、俺があれほど恐れていた猫を、梨花ちゃんは今でも仕事で自然に扱っているのだ。
「桜介くん、そうか……猫を飼うようになったんだね」
「うん……最近」
「そうなの? でも太郎くん、桜介くんによく懐いてるよね。猫は正直だから、嫌な人には絶対に懐かないんだよ?」
和架さんと同じことを言っている。でも梨花ちゃんの口から聞くと、なぜか胸が痛んだ。
「あの……梨花ちゃん」
「なあに?」
「ラ・フランスは、元気?」
梨花ちゃんの手が止まった。悲しそうな表情を浮かべる。
「ラ・フランスはね、三年前に亡くなったの。老衰で」
「そうだったん、だ……」
「でも桜介くんのこと、覚えてたと思うよ」
胸が締め付けられた。ラ・フランスが死んでしまったと聞いて、少しも嬉しくは感じなかった。あれほど恐れていた猫だったのに、なぜか涙が出そうになる。
「桜介くん、もう、猫が怖くないの?」
「え?」
「ラ・フランスが、桜介くんを噛んじゃったじゃない。私、ずっと申し訳なく思ってたの」
梨花ちゃんの言葉に、俺は驚いた。
「謝る必要なんてないよ」
「でもあの後、桜介くんと話せなくなっちゃって。私のせいで、桜介くんが猫を嫌いになっちゃったと思って、ずっと心配だったよ」
言葉に詰まった。確かに、猫恐怖症になった。でも、それを梨花ちゃんに伝える必要があるだろうか。
「でも、こうして太郎くんを飼ってるってことは、もう猫は大丈夫なんだね。安心した」
梨花ちゃんの安堵の表情を見て、俺は本当のことを言えなくなった。
「うん……太郎は、特別だから」
「そうだよね。運命の出会いってあるものね」
予防接種が終わると、梨花ちゃんは俺に診察券を渡した。
「また何かあったら、いつでも来てね。太郎くんのことも、桜介くんのことも心配してるから」
「ありがとう」
クリニックを出て、太郎のキャリーバッグを抱えながら歩いた。梨花ちゃんとの思わぬ再会で、過去の記憶が鮮明によみがえってきた。
あのときの恐怖、痛み、そして梨花ちゃんへの気持ち。
でも俺は、あのころとは違う。今はもう太郎がいる。そして、和架さんがいるんだ。
*
夜になって、俺は太郎を膝に乗せながら考えていた。梨花ちゃんとの再会は偶然だったが、何か意味があるような気がしてならない。
携帯が鳴った。和架さんからだった。
「もしもし」
『桜介くん、お疲れさま。太郎くんの予防接種、どうだった?』
「おかげさまで、無事終わりました」
『よかった! それでね、明日時間あるかな? 太郎くんも一緒に、今度は私の部屋でお茶とか。どうだろう?』
心臓が跳ね上がる。和架さんの部屋ということは、あのなごみがいるんだ。太郎よりもずっと大きくて、俺の手を初対面でもザリザリ舐める、あの馴れ馴れしいなごみが。
「あ……はい、大丈夫です」
『太郎くん、なごみと仲良くしてくれるかな。ふふ、楽しみ』
電話を切ると、俺は太郎を見つめた。
「太郎、明日はなごみに会いに行くんだ。大丈夫かな」
太郎は「にゃあん」と鳴いて、『任せとけって』とでも言いたげに俺の手をぺろりと舐めた。
*
翌日の夕方、俺は太郎を連れて和架さんの部屋を訪れた。インターホンを押すと、ポーンという音が鳴り止むよりも前に、和架さんの声が聞こえた。
『桜介くん、いらっしゃい!』
ドアが開くと、案の定なごみがすぐに駆け寄ってくる。太郎のキャリーバッグを見て、興味深そうに嗅いでいる。
「なごみ、お客様だよ〜」
和架さんがなごみを抱き上げた。なごみはその笑ってるみたいな顔で、俺の顔をじっと見つめている。近くで見ると、やはり太郎よりもずっと大きい。
手が震えそうになったが、太郎がいることで、何とか落ち着いていられた。
「太郎くんも出してあげよっか」
「はい」
太郎をキャリーバッグから出すと、なごみと太郎は興味深そうに距離を取ってお互いを見つめ合った。
「おや? 二人とも大人しいね」
やはり度胸があるなごみは、和架さんの膝から飛び降りて、自分からずんずんと太郎に近づいていく。体の小さい太郎は最初少し緊張していたが、なごみが敵意を示さないとわかると、リラックスした様子で匂いを嗅ぎ、挨拶を交わした。
「仲良くしてくれそうだ」
「よかったです」
でも俺の安堵は長くは続かなかった。お茶を飲んでいると、和架さんが突然真剣な表情になったからだ。
「桜介くん、私ね、聞きたいことがあるんだ」
「はい、なんでしょう」
「昨日、桜介くんが動物病院に行ったの、みどりの森クリニックで働いてる友達から聞いたのね」
そのときはまだ、何を聞かれてるのかよくわからなかった。
「女医さんと親しそうに話してたって、今日、言われて」
「あ、それは……」
「もしかして、桜介くんって、他にお付き合いしてる人がいるのかな」
和架さんの言葉に、俺は慌てた。
「そんなことありません!」
「でも桜介くんの言ってること、ところどころおかしいと思って。その子から聞いたら、桜介くんが猫を飼い始めたのってものすごく最近だって言ってたし、保護猫カフェさんに確認して、私と知り合ってからだったって言ってた」
和架さんの鋭い指摘に、言葉に詰まる。
「太郎くんって、本当は、どうして桜介くんが引き取ることになったんだろう」
「それは……」
「やっぱり」
和架さんは、悲しそうな表情を浮かべた。
「なにか、私、また騙されそうになってるんだね」
「和架さん、違うんです。確かに最初は嘘でしたが……」
「嘘だったんだ」
和架さんは立ち上がった。
「もう、会うのはやめることにする。帰ってください」
「和架さん、待ってください!」
でも和架さんは、ためらう様子もなくきっぱりと言った。
「太郎くんを、連れて帰ってください。もしも本当に大切じゃないんなら、ちゃんと大切にしてくれる飼い主のところに、返してあげてほしい」
必死に説明しようとしたが、和架さんは聞く耳を持たないまま、俺を部屋から追い出した。
*
仕方なく、部屋に帰る。玄関をくぐるなり、太郎の入ったキャリーバッグを抱きしめて座り込んで、そのまま泣いた。
「太郎、俺のせいで……俺の嘘のせいで」
「ごめんな」とキャリーから出すと、太郎は涙を舐めてくれた。その優しさに、俺はますます泣けてきた。
「太郎はもう、確かに俺の猫なんだよ。保護猫カフェから引き取って。でも最初は……最初は和架さんについた嘘を、本当にするためだけだったんだ。ごめんな」
自分の情けなさに絶望した。
すべて、俺の嘘が原因だ。
「でも太郎、お前だけは本当なんだ。お前のことを家族って言ったのは、ほんとに嘘じゃない」
太郎は「にゃあん」と鳴いて、いつものように膝の上で丸くなった。
俺は決心した。和架さんに、分かってもらえるかはわからない。
だとしても、本当のことを話そう。
猫恐怖症のことも、太郎を引き取った本当の理由も、すべて話す。
それでもしも和架さんに、嫌われても。許してもらえなくても。
少なくとも、こんな嘘をついたまま、終わりにはしたくなかった。
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