第5話 『小さな進歩』


 太郎を迎えた初日の夜、俺は全く眠れなかった。


 太郎は部屋の隅に置いたクッションの上で、丸くなって眠っている。時々起き上がって寝返りを打つたびに、俺の体は一晩中強張った。


「大丈夫、太郎は優しい子だ。怖くない、怖くない……っ」


 そう自分に言い聞かせても、心拍数は下がらなかった。


 朝になると、太郎は足元にやってきて、小さい頭をこすりつけながら「にゃあん」と鳴いた。お腹が空いてるんだろう。


「ごはん……そうか、ごはんをあげなくちゃ」


 恐る恐る、猫用の餌を皿に盛った。太郎は嬉しそうに駆け寄ってきて、夢中で食べ始める。


「食べてる。普通に食べてる」


 当たり前のことなのに、俺は感動していた。


 太郎が俺を、警戒していない証拠だ。

 そう思うと、希望の光が見えてくる。



   *



 仕事から帰ると、太郎は玄関まで迎えに来てくれる。


「太郎、ただいま」


「にゃーん」


 太郎は俺の足に頭をこすりつけてくる。最初はびくっとしていたけれど、玄関前から覚悟していれば、三日目には慣れてきた。


「そうか、これがお帰りの挨拶なんだね」


 太郎の頭を撫でてやると、気持ちよさそうにゴロゴロと喉を鳴らす。この音を聞くたびに、俺の心も少しずつ穏やかになっていく。



   *



 そして迎えた土曜日。俺は、朝から緊張していた。


「太郎、今日は大切な人が来るんだ。いい子にしててね」


 太郎は俺の不安を察しているのか、いつもより甘えるように、何度も「にゃあん」と鳴いている。


 約束の午後二時、インターホンが鳴った。


「はい」


『草留さん、比良崎です。下の……』


 和架さんの声だ。心臓が跳ね上がった。


「あ、はい! 今開けます」


 ドアを開けると、和架さんが青い包みを持って立っていた。


「こんにちは。約束の梨マフィン、持ってきました」


「ありがとうございます。どうぞ、上がってください」


 和架さんが部屋に入ると、太郎はすぐに興味深そうに近づいてきて、鼻をヒクヒクさせていた。なごみの匂いがするのかもしれない。


「わあ、可愛い! この子が草留さんの猫ちゃんですね。茶トラちゃん!」


 和架さんは、嬉しそうに太郎を見つめた。


「はい、太郎です」


「太郎くん。よろしくね、可愛い〜……」


 和架さんがしゃがんで手を差し出すと、太郎はすぐに近づいて、不思議そうに匂いを嗅いだ後で頭をこすりつけた。


「人懐っこいんだね。なごみに似てるねぇ」


「そうですね」


 俺は少し離れたところから、和架さんと太郎のやり取りを見ていた。太郎が和架さんに懐いているのを見ると、俺はものすごく嬉しかった。


「草留さんも、撫でませんか?」


「え?」


「太郎くん、草留さんのことが大好きなんだね。さっきからずっと、草留さんのほうを見てるよ」


 確かに太郎は、和架さんに撫でられながらも俺のほうを見ている。


「撫でてもらえると、きっと嬉しいよね」


 俺は、意を決して和架さんの隣にしゃがんだ。太郎は俺たちの間に座って、幸せそうに目を細めている。


「太郎、いい子だね」


 俺が太郎のおでこを撫でると、太郎は「ゴロゴロ」と大きな音で喉を鳴らした。


「ふふ。太郎くん、草留さんが大好きだね」


 和架さんの笑顔を見ていると、俺の心も温かくなる。


「猫を飼うのは初めてだったんですが、太郎はとてもいい子で」


「草留さんが優しいから、太郎くんもそれが分かるんだろうね」



   *



 お茶を飲みながら、太郎の話で盛り上がった。


「太郎くんは保護猫だったんだね」


「はい。保護猫カフェで出会って、一目で気に入ってしまって」


 嘘ではない。確かに太郎のことは気に入った。恐怖を感じながらも。


「すごいなあ。保護猫を引き取る。草留さん、本当に優しい人なんですね」


 和架さんの言葉に、複雑な気持ちになった。優しいから引き取ったわけじゃない。和架さんについた嘘を本当にするために、引き取ったのだ。


「あの……和架さんは、なぜなごみを飼うことにしたんですか?」


「なごみはですね、実は、道端で拾ったんだ。まだ子猫の時に、砂だらけでニャーニャー、道の端っこで鳴いてて。結構本降りの雨だったから、さすがに放っておけなくて」


「そうだったんですね」


「でも飼い始めてから知ったんだよ。猫って、こんなに素敵な気持ちを返してくれるんだって。草留さんも、そう思うことないですか?」


 俺は、太郎を見つめた。確かに太郎と一緒にいると、心が落ち着く。俺を信頼しきった目を見ていると、俺もそれを返したくなる。


 まだ完全に恐怖が消えたわけじゃない。それでも、太郎の存在は俺にとって、特別なものになりつつあった。


「はい。太郎がいてくれて、よかったです」



   *



 和架さんが帰った後、俺は太郎を抱き上げてみた。最初は怖くてうまくできなかったが、なんとか自然に抱き上げられるようになった。


「太郎、ありがとう。お前のおかげで、和架さんとうまく話せたよ」


 太郎は俺の胸の中で、安心したように「ゴロゴロ」と鳴いている。


「でも、まだ他の猫は……。和架さんのなごみは、太郎よりもずっと大きいし……」


 なごみのことを思い出すと、まだ少し不安になった。でも、太郎と過ごすうちに、猫への恐怖や偏見は、確実に小さくなってきている。


 携帯が鳴った。和架さんからのメールだった。


『今日はありがとうございました!

太郎くん、とても可愛かったです。

桜介くん(と呼んでもいいですか?)がとても優しく接しているのを見て、

素敵な飼い主さんだなと思いました。

今度は太郎くんも一緒に、三人デートしませんか?』


 俺は思わず飛び跳ねた。和架さんから(猫連れとはいえ)デートのお誘い。これはもう、付き合ってると言ってもいいんじゃないだろうか。


『ぜひお願いします。太郎も喜ぶと思います』


 返信を送りながら、俺は太郎を見つめた。


「太郎、お前……お前は俺のキューピッドだよ〜!」


 頭を撫でると、太郎は「にゃあん」と鳴いて、満足そうにまた膝の上で丸くなった。



   *



 翌週、俺は和架さんと近所の公園に行った。和架さんの部屋で待ち合わせをして、俺は太郎をキャリーバッグに入れて連れてきた。


「太郎くん、お外は初めてなのかな? まだ小さいもんね」


「はい。少し緊張してるみたいです」


 実際に緊張しているのは俺のほうだった。太郎が外で何をするかわからないし、違う環境に怖がって、逃げ出したりしないだろうか。


「大丈夫だと思うよ。ハーネスも念のため二重につけてるし」


 和架さんの言葉に勇気づけられて、俺はキャリーバッグから太郎を出してみた。太郎は最初きょろきょろと辺りを見回していたが、すぐに興味深そうに草むらの匂いを嗅ぎ、草を食べ始めた。


「太郎くん、草食べちゃってる! ダメだよお〜!」


 和架さんが嬉しそうに笑う。その笑顔を見ていると、俺まで自然と笑顔になった。


「そういえば、なごみはお散歩するんですか?」


「なごみはお外に出たがらないんだよね。野良だったせいか、外が怖いみたい」


「そうなんですね」


 太郎は足元で、いつも通り満足そうに座り込んでいる。逃げ出す様子もない。


「桜介くんと太郎くんの組み合わせ、好きだなあ。太郎くん、桜介くんを信頼しきった顔してるもん」


「そ、そうでしょうか?」


「うん。猫って正直だから、嫌な相手に絶対に懐かないんだよ」


 和架さんの言葉に、俺は少しほっとした。太郎は俺を信頼してくれている。それなら、きっと大丈夫だ。


 ベンチに座って休んでいると、和架さんが突然口を開いた。


「桜介くんって、猫を飼う前には? 何か動物、飼ったことあった?」


「え? いえ、ないです」


「そうなんだ。それなのに太郎くんとこんなに仲良しなんて、天才かもしれないね」


 俺は苦笑いした。そんな才能があるなら、猫恐怖症になんてなってないだろう。


「でも、太郎と一緒にいると、確かに心が落ち着くんです」


「ふふ。いいなあ、そういうの」


 和架さんは意味深に笑った。


 俺は、太郎を見つめた。確かに太郎のことを可愛いと思う気持ちが、日に日に強くなっている。最初は恐怖心のほうが強かったが、今では太郎が腹を空かしてないか、何か困っていないかのほうが気にかかる。ましてや太郎がいない生活なんて、もう考えられない。


「太郎は、大切な家族だから」


 俺がそう呟くと、太郎は「にゃあ〜ん」と返事をするように鳴いた。


「ほら、太郎くんもわかってるって」


 和架さんが、嬉しそうに笑った。


 その時、俺の携帯が鳴った。知らない番号からだ。


「もしもし」


『草留さんの携帯でしょうか? 動物病院の「みどりの森クリニック」です』


「みどりの森クリニック?」


 そう、女性の声で通話は続けられた。


『「ねこのおうち」さんにご連絡したら、今はこちらだと伺いまして。太郎くんの予防接種なのですが、来週ご都合がよい日に予約していただけますか?』


「あ、はい。わかりました」


 電話を切ると、和架さんが心配そうに見ていた。


「『みどりの森クリニック』って、大きな動物病院だよね。私、受付で友達が働いてて。太郎くん、何か具合が悪いの?」


「いえ、予防接種です」


「そうなんだ。よかった」


 でも俺の心の中には、一抹の不安があった。動物病院には、太郎以外にもたくさんの猫がいるだろう。中にはラ・フランスみたいな、大きくて灰色の猫もいるかもしれない。


 まだ完全に恐怖を克服したわけではない俺にとって、それは大きな試練になりそうだった。

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