第4話 『さすらう桜介』
仕事が終わり、俺は意を決してペットショップへ向かった。
駅前にある大型ペットショップの前で、しばらく立ちすくむ。
「大丈夫、大丈夫。子猫なら……きっと大丈夫」
自分に言い聞かせながら、ガラスドアを押して店内に入る。すぐに様々な動物の鳴き声が聞こえてきた。子犬の吠え声、小鳥のさえずり、そして……
「にゃーあ」
猫の、鳴き声。
聞こえた瞬間、足が俺に無断で止まる。
「いらっしゃいませ! 何をお探しでしょうか?」
明るい声で店員が、入り口で硬直する俺に話しかけてきた。
「あ、えっと……猫を、か……飼いたくてですね」
「猫ちゃんですね! こちらへどうぞ」
店員に案内されて、猫コーナーへ向かう。このままムーンウォークして出て行きたいくらいだけど、示されたガラスケースの中には、様々な種類の子猫たちが元気にじゃれ合っていた。
「はい、こちら猫ちゃんです! 可愛いですね〜! こちらのスコティッシュフォールドの子猫ちゃんなんて特に大人気でして……」
店員が説明を始めたが、俺の頭の中には十年前のラ・フランスの怒った顔がよぎった。
あの鋭い牙、血の匂い、手の痺れ……
震え上がる。
「あの……ちょっと、もう少し考えてみます……」
俺は慌てて店を出た。外の空気で初めて酸素が感じられる。全身に鳥肌が立っている。
「だめだ……全然、全ッ然! だめだ!」
*
翌日、それでも俺は、違うペットショップに挑戦した。今度は小さな個人経営の店にして、猫も比較的少なそうな店を選ぶ。
「猫ちゃんをお探しですかぁ?」
年配の女性店主が、穏やかに声をかけてくれた。
「は、はい……でも、実は猫を飼うのは初めてで」
「そうなんですねぇ。それでしたら、おとなしい子がいいでしょうねぇ」
店主は俺を、奥の部屋まで案内した。そこには数匹の子猫がいた。ひとつひとつが中が暗く、狭いケージに入れられていて、昨日よりも少し落ち着いて見ることができる。
「この子なんかどうでしょう。とっても人懐っこくてぇ」
店主が手で示したのは、白い毛に茶色の模様が入った、可愛らしい子猫だった。くりくりした目でこちらのほうを見ている。
「触ってみますかぁ?」
「え、あ、はい……」
店主が子猫を抱き上げて、俺に差し出した。「ニャー」と子猫がか細い声で鳴く。
恐る恐る、手を伸ばす。
子猫の毛は思ったよりもふわふわしていた。まだ小さいから、ラ・フランスのような力強さはない。別の生き物のように、見えなくも、ない。
「ほら、この子、あなたを気に入ったみたいですねぇ」
子猫は俺の手のひらに鼻を擦り付けて、小さく「ニャー」と鳴いた。その声はラ・フランスの威嚇とは全く違う、か細くて可愛らしいものだった。
「す、少しなら……大丈夫かも」
希望の光を見つけた気がした。
「こ、この子をください!」
「あらぁ、お決まりですかぁ? 嬉しいですけどぉ」
でも、いざ契約の話になると、俺は急に不安になった。本当に、自分がこんなに弱々しくて怖いものを、育てられるのだろうか。
「あの……もう少し、考えてからでもいいですか?」
「もちろんですよぉ。猫を飼うのは責任のあることですからねぇ、お渡しするのにもうちは、お時間をいただきますしぃ」
*
その夜、和架さんから連絡が来ているのに気づいた。
『草留さん、お疲れ様です!
梨のマフィンを、作ってみました。
今日はお留守のようなので、今度お邪魔するときに、また作って持って行きますね。
草留さんの猫ちゃんに会えるのを、楽しみにしています♪』
添付された写真には、売り物みたいにきちんと包装されたマフィンが映っていた。きれいなリボンまでかけられている。
「和架さん……」
胸がキュウっと締め付けられる。あんな不審者みたいな訪ね方をした俺に、こんなに優しくしてくださるなんて。絶対に、彼女の期待を裏切りたくない。
『ありがとうございます。僕も楽しみにしています』
返信を送りながら、俺は決意を新たにした。
猫を、飼うんだ。
和架さんの、ために。
*
翌週、俺は保護猫カフェという場所があることを知った。インターネットで調べると、「猫と触れ合いながら、保護猫の里親を探している施設」とある。
「ここなら、少しはゆっくり猫に慣れることができるかも」
日曜日の午後、俺は恐る恐る保護猫カフェ「ねこのおうち」のドアを開けた。
「いらっしゃいませ」
受付で料金を払うと、店員さんが注意事項を説明してくれた。
「猫たちはみんな保護された子たちです。それぞれに事情がありますから、無理に触ろうとすると怖がっちゃうんです。猫のほうから来てくれるのを、待つようにしてくださいね」
「は、はい。わかりました……」
カフェスペースに入ると、そこは猫の楽園だった。キャットタワーやソファ、至る所に無数の猫たちがくつろいでいる。
保護された猫、って、こんなにいるのか。
見ただけで、気が遠くなりそうだ。俺はできるだけ猫から離れた席に座って、コーヒーを注文した。
「大丈夫、ここなら安全、安全だ……」
しかし、そんな思惑をよそに、一匹の小さい茶トラ猫が、ゆっくりと近づいてきた。
「あ……」
俺は身を硬くした。でも、茶トラ猫は気持ち体がまだ小さくて、目つきもトロンとして優しい顔をしている。
茶トラ猫は俺のテーブルの下にもぐり込んで、足元で丸くなった。少なくとも、俺を攻撃してくる様子はない。
「この子、普段は人見知りなのに珍しいですね」
店員さんが、驚いたように言った。
「そうなんですか?」
「ええ。太郎っていう名前の子なんですが、いつもはシャイで、あそこの奥のほうに隠れているんです」
太郎と呼ばれた茶トラ猫は、俺の足に頭を擦り付けてきた。恐る恐る、手を下ろしてみる。
太郎は指先をくんくんと嗅いで、それから耳の辺りを擦り付けてきた。ラ・フランスのような、突然の攻撃はなかった。
「もしかして……」
俺は太郎の頭を、できるだけ優しく撫でてみた。太郎は気持ちよさそうに目を細めて、小さくゴロゴロと喉を鳴らした。
「あのときと、同じ音だ」
急に、また怖くなる。でも、これは太郎が、俺が撫でたのを喜んでくれている、のかも。
「太郎……くん、……人懐っこい、ね」
俺がそう呟くと、太郎は「にゃん」と短く鳴いて、俺の膝の上にヒョイっと飛び乗ってきた。
「え?」
体が一瞬強張ったが、太郎はおとなしく、そのまま膝の上で丸くなった。猫の感触は、温かくて、小さくて、柔らかい。小刻みな心臓の音も、微かに感じる。
太郎はそのまま、俺の膝の上で、ゆっくりと眠ってしまった。
「……………………」
俺は驚いた。確かに緊張はしている。でも、あのときのような猫の豹変は、たしかにない。
「太郎くん、お客さまを気に入ったみたいですね」
店員が嬉しそうに言った。
「もしよろしければ、太郎くんの里親になることを考えてみませんか? この子、実は4ヶ月も前から里親さんを探しているんです」
「里親……」
太郎の寝顔を見下ろした。穏やかな表情で、すやすやと眠っている。
「この子なら……もしかして」
でも、まだ不安はあった。太郎がラ・フランスのように、ある日突然豹変したりしないだろうか。あのときのように、俺に牙を剥いたりしないだろうか。
「す、少し、考えてみます」
「もちろんです。太郎くんに会いたくなったら、いつでもいらしてくださいね」
*
帰り道、俺は和架さんじゃなくて、太郎のことを考えていた。あの温かさ、俺の膝で安心して眠る姿。
もしかしたら、太郎となら、俺でも猫と暮らせるのかもしれない。
携帯を見ると、和架さんからまた連絡が来ていた。
『草留さん、今度の土曜日、お邪魔してもいいですか?
猫ちゃんに会えるのが楽しみです♪』
心臓が跳ね上がった。土曜日。あと一週間しかない。
「よし、太郎を引き取ろう」
俺は決心した。恐怖はまだ残っているが、和架さんとの約束を守るため、そして、自分自身のために。
太郎なら、きっと大丈夫だ。
……そのはず、だ。
そう信じて、俺は保護猫カフェにまた電話をかけた。
「太郎の件で連絡しました。里親として引き取らせてください」
『本当ですか! ありがとうございます。また手続きに来ていただけますか?』
「はい、よろしくお願いします」
電話を切ると、俺は深く息を吸った。
ついに、猫と暮らすことになる。
今さら、後には引けない。
そう、恐怖心と俺の、戦いの火蓋が切られたのだ。
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