第3話 『トラウマ』
翌朝、俺は重い足取りで仕事に向かった。自販機の点検をしながらも、頭の中は猫のことでいっぱいだった。猫。……猫。なんで、よりによって。
「草留くん、今日なんか変だね」
同僚の青木さんが心配そうに声をかけてきた。
「あ、すみません。ちょっと考え事があって」
「恋の悩み?」
図星を突かれて慌ててしまう。
「そ、そんなんじゃないです」
「草留くんってそういう、しょうもない嘘つくクセあるよね。『恋した』って顔に書いてあるよ?」
青木さんは笑いながら缶コーヒーを差し出した。俺はそれを受け取りながら、ふと小学生のころのことを思い出していた。
*
あれは、十一年も前のことだ。
小学三年生の俺にとって、隣に住んでた坂井梨花ちゃんは中学生で、憧れの存在だった。いつもにこにこしていて、困っている子どもがいると必ず助けてあげる、優しい優しい女の子。
「桜介くん、一緒に帰ろう」
ある日の放課後、梨花ちゃんが通学路で会った俺にそう、声をかけてくれた。気持ちがキラキラする。
「う、うん!」
二人で歩き出すと、梨花ちゃんは突然立ち止まって、白い花の咲く木の枝を見上げた。
「ねえ、桜介くん。私ね、梨になりたいんだ」
「え?」
俺の生まれた地域では梨が名産品で、県のシンボルマークにも梨のデザインが使われてるくらいだ。
だから、通学路沿いには梨の木が植樹されていて、その時期もきれいな白い花が咲いてた。
「誰かに美味しいって食べられるために生まれて、その命をまっとうしてみたいから」
俺にはその言葉は、全然理解できなかった。けれど、梨花ちゃんの真剣な表情を見ていると、なんだか素敵なことのような気がしたんだ。
「梨花ちゃんは優しいね」
「そうかな? でも桜介くんも優しいよ。きっといつか、誰かのために頑張る人になるんだろうなあ」
梨花ちゃんの言葉に、俺は顔を赤くした。この子と一緒にいると、自分も何か特別な存在になれる。そんな気がしていた。
*
梨花ちゃんに会えるだけで、幸せな日々。ある日、梨花ちゃんは俺を自分の家に呼んでくれた。
「うちの猫、見せてあげる。ラ・フランスっていうの。洋梨の名前なんだよ」
梨花ちゃんの家は隣の俺の家よりも、ずっと大きくて立派だった。玄関を入ると、すぐに大きな、灰色の猫が現れた。
「この子がラ・フランス。人懐っこいでしょ?」
ラ・フランスは確かに人懐っこく、俺の足にすりすりと体を擦り付けてきた。俺は生き物を触るのが少し怖くて、おっかなびっくり手を伸ばして撫でてみた。
「わあ、ふわふわしてる」
「でしょ? ラ・フランスは人間のことが大好きなの。私のことをお母さんだと思ってるのかも」
梨花ちゃんが嬉しそうに笑う。ラ・フランスは「にゃーん」と鳴いて、梨花ちゃんの膝に飛び乗った。
「桜介くんも抱っこしてみる?」
「え、いいの?」
俺は緊張しながら、ラ・フランスを受け取った。思っていたよりずっと重くて、ふかふかで温かい。心臓の音が、手に伝わってくる。
「猫って、こんな感じなんだ」
「そうでしょ? 生き物って不思議だよね。私たちとは違う世界で生きてるのに、こうやって触れ合えるの」
梨花ちゃんの言葉を聞きながら、俺はラ・フランスの頭を撫でた。すると、ラ・フランスは気持ちよさそうに目を細めて、ゴロゴロと喉を鳴らした。
「あ、ゴロゴロって本当に鳴るんだね」
「喜んでるんだね。桜介くんのこと、好きになったみたい」
俺は嬉しくなった。梨花ちゃんの大切な猫に気に入ってもらえるなんて。
でも、その時だった。
俺が撫ですぎたのかもしれない。突然、撫でられていたラ・フランスが体をひるがえし、俺の手首に鋭い牙と爪を立てた。
「痛い!」
思わず手を振り上げた。が、ラ・フランスは喰らいついて離れない。無我夢中で腕を振り、床に振るい落とした。落ちたラ・フランスは「ギャー!」と怒ったような声で鳴き、背中の毛を二倍くらいに逆立てた。
俺の右手から血が滴り落ち、痺れるような深い痛みが指の先まで走る。思っていたより、ずっと深い傷だった。
「桜介くん! 大変!」
梨花ちゃんは慌てて救急箱を取りに行った。でもラ・フランスは俺をにらみつけながら、相変わらず「シャー!」と威嚇するような声を上げ続ける。
俺は恐怖で震え上がった。さっきまでゴロゴロ鳴いていた猫が、突然牙を剥いて襲いかかってきた。あの鋭い痛みと、ラ・フランスの怒った顔。頭から離れなかった。
もう一度襲いかかって来たら、命がないような気がした。
「ごめんね、桜介くん。ラ・フランス、普段はこんなことしないのに」
梨花ちゃんは半分泣きながら、俺の手当てをしてくれた。でも俺は梨花ちゃんよりも、ラ・フランスのほうから目が逸せなかった。まだ毛を逆立てたまま、こちらをにらみつけてくる。
「すごい怪我だよ、病院に行った方がいいかも。お母さんに連絡するね」
結局、俺は病院で十二針も縫うことになった。全治三週間の、大怪我。
医者は「深い傷ですが、幸い神経は大丈夫そうです」と言ったが、俺にとってはそれどころじゃなかった。手が動くとか、治るとか、そんなレベルの話じゃない。
猫が、……怖い。
あの鋭い牙と、突然豹変した表情が、夢にまで出て襲ってくるようになった。
*
それから俺は、情けないけど、梨花ちゃんとも距離を置くようになった。梨花ちゃんは菓子折りをうちに持ってきて何度も謝ってくれたが、俺はラ・フランスのことを思い出すだけで、体が震えて止まらなかったから。
「桜介くん、私のこと、嫌いになった?」
ある日の放課後、梨花ちゃんが申し訳なさそうな顔で聞いてきた。
「そんなことないよ!」
「でも、最近全然話してくれないし」
「それは……」
俺は言葉に詰まった。梨花ちゃんのことは今でも好きだったが、ラ・フランスのことが怖い。怖すぎるんだ。
「ラ・フランスのこと、まだ怖い?」
梨花ちゃんの言葉に、俺は正直にうなずくしかなかった。
「うん……、……ごめん……」
「謝らないで。私こそ、ごめんね」
梨花ちゃんは俺の手を優しく握った。まだ傷跡が残る右手を。
「でも、桜介くん。怖いものがあってもいいんだよ。私だって、雷とか高いところとか、怖いものいっぱいあるもん」
「でも梨花ちゃんは、人の役に立ちたいんでしょ? 俺は、猫一匹乗り越えるだけで精一杯で……そんなの、無理なんだ」
「そんなことないよ。桜介くんは優しいもん。きっといつか、乗り越えられるよ」
梨花ちゃんの言葉は温かかったけど、俺の心には深い傷が残った。
その後、梨花ちゃんは遠くの高校に通うことになり、俺とは離ればなれになった。俺は梨花ちゃんに想いを告げることもできないまま、そんなふうに初恋を終えた。
そして、猫への恐怖だけが、俺に残った。
*
そんな現在の俺は、まだ自販機の前で立ちすくんでいた。
なごみを思い出しただけで、両脚が震えて一歩も動けない。
あれから十年以上が経ち、梨花ちゃんへの想いは薄れたが、猫への恐怖だけは全く薄れていない。
「でも、今度こそ……猫なんかのために和架さんを諦めてたまるか」
和架さんの笑顔を思い浮かべる。あの優しい笑顔のために、今度こそ自分の恐怖を乗り越えたい。
梨花ちゃんが言ってたから。俺はいつか乗り越えられるって。猫の恐怖を。
それは、きっと和架さんのためだ。
「……よし、猫を飼おう!」
俺は携帯でペットショップを調べ始めた。ずらりと出てくる猫の写真で、検索する手は震えていた。でも、「必ず猫を飼う」という決意だけは、石のように固かった。
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