第17話 雨中の告白


 外は、激しい雨が降っていた。

 僕は、自室のベッドに寝転がり、窓ガラスを叩きつける雨音を、ただぼんやりと聞いていた。あの日、沙織に拒絶されてから、僕の時間は止まったままだ。学校では、抜け殻のように一日を過ごし、家に帰れば、こうして部屋に閉じこもる。心にぽっかりと空いた穴は、何によっても埋められなかった。


 彼女の、あの冷たい瞳が、脳裏に焼き付いて離れない。

 気持ち悪い。

 その言葉だけが、僕の世界のすべてだった。


 その時だった。階下で、玄関のチャイムが鳴った。

 こんな、夜の十時過ぎに、誰だろうか。母が、誰かしら、と呟く声が聞こえる。僕は、億劫な身体をゆっくりと起こした。


 僕が部屋のドアを開けると同時に、階下から母の困惑したような声が聞こえてきた。

「まあ、あなた……どうしたの?びしょ濡れじゃない」

 僕は、嫌な予感に胸が騒ぐのを感じながら、ゆっくりと階段を降りていく。そして、玄関先に広がる光景に、息を呑んだ。


 そこに立っていたのは、橘沙織だった。

 雨に打たれ、髪も服も、ぐっしょりと濡れている。いつも完璧に整えられている彼女の姿は、そこにはなかった。血の気の引いた白い顔、焦点の合わない瞳、そして、小刻みに震える身体。彼女は、まるで嵐の海で遭難した、小さな小舟のようだった。


「沙織……!?」

 僕が名前を呼ぶと、彼女の瞳が、ようやく僕の姿を捉えた。その瞳が、助けを求めるように、絶望的に揺れる。

 僕の中にあった、彼女への怒りや、憎しみや、恨み言。そのすべてが、彼女のそのあまりにも惨めな姿を前にして、一瞬で消え去っていた。

「母さん、大丈夫だから。タオル、持ってきてくれる?」

 僕は、呆然と立ち尽くす母にそう言うと、沙織の冷たい腕を取った。そして、玄関の内側へと、彼女の身体を引き入れる。


 僕が、母から受け取ったバスタオルを彼女の肩にかけると、その、ほんの僅かな温もりが、彼女を支えていた最後の何かを、壊してしまったようだった。

 沙織の瞳から、堰を切ったように、大粒の涙が溢れ出した。そして、彼女は、途切れ途切れの声で、すべてを話し始めた。


「お父さんの、会社が……もう、だめになっちゃって……」

「家の中、毎日、喧嘩ばっかりで……私のせいだって……」

「どこにも、私のいる場所なんて、なくて……」

 彼女の口から語られる言葉は、僕の想像を絶する、地獄のような現実だった。彼女が、あの完璧な笑顔の裏で、たった一人、そんなものと戦っていたという事実。僕は、何も知らずに、自分の嫉妬や恋心ばかりを、彼女に押し付けていたのだ。


「ごめんなさい……ごめんなさい、健太……!」

 彼女は、玄関の床に崩れ落ちると、子供のように声を上げて泣きじゃくった。

「あなたに、酷いこと言った……気持ち悪いなんて……本当は、そんなこと思ってない……!」

「怖かったの……!あなたの優しさに、甘えてしまいそうで……あなたまで、私のせいで、不幸になるのが、怖かった……!」

「ごめんなさい……ごめんなさい……っ」


 僕は、彼女の前に、ゆっくりと膝をついた。

 そして、泣きじゃくる彼女の、冷え切った身体を、力の限り、抱きしめた。

 僕の嫉妬も、欲望も、独占欲も、なんて、ちっぽけなものだったのだろう。彼女が、たった一人で背負っていたものの重さに比べれば、僕の悩みなど、あまりにも軽かった。


 彼女が、僕を拒絶した、本当の理由。

 それは、僕を、彼女のいる地獄から、遠ざけるためだったのだ。

 僕は、その不器用な優しさに、今、ようやく気づいた。

 僕は、彼女の耳元に、唇を寄せる。

「……もう、いいんだ。もう、何も言わなくて、いいから」

「俺が、そばにいる。絶対に、一人にはさせないから」


 僕の言葉に、彼女は、さらに強く、僕の胸に顔を埋めてきた。

 外では、まだ、激しい雨が降り続いている。しかし、僕の腕の中にいる彼女を、もう、どんな嵐も傷つけることはできない。

 僕は、そう、強く、心に誓った。

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