第16話 最後の光
ぱりん、と。何かが砕け散る、甲高い音がした。
それが、私の心を支えていた、最後の糸が切れた音だった。
リビングから聞こえてきたのは、父が投げつけたのであろう、安物のウイスキーの瓶が壁に当たって砕ける音。続いて、母の金切り声と、父の怒声が、獣の咆哮のように家中に響き渡る。
「お前のせいで、全部めちゃくちゃだ!」
「あなたが甲斐性なしだからでしょう!」
もう、聞き慣れてしまったはずの、互いを罵り合う言葉の応酬。しかし、その日の父の言葉は、私に突き刺さった。
「そもそも、こいつの学費だって馬鹿にならなかったんだ!こいつさえいなければ!」
私の、せい。
その言葉を聞いた瞬間、私の頭の中で、何かが、ぷつりと、切れた。
気づいた時には、私は玄関の扉に手をかけていた。何を考えるでもない。ただ、ここにいてはいけない。この音と、憎しみに満ちた空気の中から、一秒でも早く逃げ出さなければ。
私は、部屋着のまま、財布とスマートフォンだけを掴むと、靴を履くのももどかしく、外へと飛び出した。
扉を開けた瞬間、冷たい雨が、容赦なく私の身体に叩きつけられた。九月の終わりの雨は、夏のそれとは違い、肌を刺すような冷たさを持っていた。
行く当てもなく、私はただ走った。
雨に打たれ、髪も服も、ずぶ濡れになる。住宅街の街灯が、滲んで、ぼやけて見えた。やがて、息が切れ、近所の小さな公園で、足を止める。ブランコに座り込み、雨に打たれながら、私は、これからどうすればいいのかを考えていた。
友達の家に、行けるだろうか。いや、無理だ。こんな、惨めな姿を見せられるわけがない。心配をかけたくないし、何より、私の完璧なイメージを壊したくない。
佐藤翼君は?彼の、あの爽やかな笑顔が脳裏をよぎる。でも、すぐに、その考えをかき消した。彼が好きなのは、明るくて、キラキラした「橘沙織」だ。こんな、家出して、雨に濡れた、みすぼらしい私ではない。彼にこの姿を見られることだけは、絶対に嫌だった。
誰にも、頼れない。
私は、この世界で、本当に一人ぼっちなのだ。
絶望が、冷たい雨水と一緒に、私の心の芯まで染み込んでいく。もう、どうでもいい。このまま、ここで、朝まで雨に打たれていようか。そう思った、その時だった。
不意に、私の脳裏に、一人の少年の顔が浮かんだ。
俯きがちで、自信がなさそうで、いつも教室の隅にいる、彼。
高木健太。
私が、最も残酷な言葉で、拒絶し、傷つけた相手。
どうして、今、彼の顔が。
でも、思い出してしまったのだ。私が、父と母のことで、初めて教室で泣いた日。彼は、何も言わずに、ただ、私のそばにいてくれた。彼の不器用な腕の中は、不思議と、安心できた。
彼は、私の完璧な仮面の下にある、本当の顔を知っている。私の弱さも、醜さも、すべて知っている。
彼なら。
彼だけが。
今の、この、どうしようもなく惨めな私を見ても、幻滅したり、馬鹿にしたりしないかもしれない。
それは、あまりにも身勝手で、虫のいい期待だ。分かっている。彼をあれだけ傷つけておきながら、今更、彼に助けを求める資格など、私にはない。
でも、もう、彼しかいなかった。
私の中に、ほんの僅かな、か細い光が灯る。
私は、震える足で、ブランコから立ち上がった。彼の家の住所は、知らない。でも、だいたいの方向は、クラス名簿で見て、知っていた。
行こう。彼のところへ。
彼に会って、もし、追い返されたなら、その時は、もう、本当に諦めよう。
それが、私の、最後の光だった。
私は、雨の中を、一つの場所だけを目指して、再び歩き始めた。
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