1‐6話 尾張国

「今日からこの娘、ひなたを我が臣とする」

 その発言は、広間の空気を凍りつかせるほどの威力があった。信長の声色には一片の揺らぎはない。その鋭い眼光には決めた意思に対して反論を一切許さないと言いたげであった。重臣は思わず背筋を正し、心の奥底で怯えを覚えた。あまりにも威厳がありすぎる立ち振る舞いもそうだが、この決断が、常識をあまりに逸脱していたからである。

「殿、どうかお考え直しを!」

「そのような小汚い子を連れ入れれば、織田家の威信にも関わりましょうぞ!」

 声を上げたのは柴田勝家・丹羽長秀をはじめとする重臣であった。彼らの目には、ひなたの姿は到底「臣」と呼ぶにはだいぶ賎しく見えた。髪は乱れ、衣は泥にまみれ、眼光は鋭く忌々しい。見る者すべてに「野盗」か「物乞いの餓鬼」と思わせるような立ち振る舞い。城中にいること自体不可思議でありえない童である。

「このような者に忠誠など誓えるはずがございませぬ!」

「いずれ謀反の芽となりましょうぞ!」

 重臣たちの罵声が広間に響く。その声は荒々しく、厳しいものばかり。その声の中には信長を諫めようと、低く抑えられていた。けれど、重臣たちの意思はひなたを拒む意思は一貫している。

 しかし、その只中にあってもひなたは動かなかった。怒鳴る重臣に目を向け、隅から隅まで見て、やがて興味を無くすと別の重臣に同様のことを行う。されど、足を一歩も引かず、肩も震わせない。瞬きひとつせず、固く結ばれた唇は一切開かない。やがて重臣たちを見るのが飽きたのか信長に視線を向かせた。

 普通の子であれば、重臣たちの威圧に押され、涙を流して取り乱すものである。だがひなたの眼差しは、一切怯えることも狼狽えることもない。その瞳の奥には一切光がなく、濁っている。だが、ほんの一瞬だけ澄んでいるように見える。その奥に何があるのか。その瞳は織田信長、ただ1人に向けられていた。

 信長は腕を組み、静かにひなたを観察する。重臣の具申を聞き流す。信長の視線の先にはただひなたを吟味するかのように捕らえる。やがて、口の端にわずかな笑みを浮かべた。

「……黙れ。見目のみに惑わされるのか」

 勝家も長秀も、はっとして口を閉ざす。信長の眼差しは今までになく冷酷なまでに鋭い。

「ひなたは汚れておる。だが、心は曇ってはおらぬ。汝らの罵声に耐え、涙ひとつ流さず、ただ我を見据えておる。これが胆力でなくて何だ」

 信長は重臣たちを見回す。重臣はその視線が向ける度に腹の底から震えた。

「威信? 格式? そんなものは飾りにすぎぬ。この織田が真に求むるは、勝つための力だ。己の眼を曇らせるな。小汚い布切れの奥に潜むものを見よ」

 言葉は一刀のごとく鋭く、反論の余地を与えない。重臣たちはうつむき、ある者は拳を握り締め、ある者は額に汗をにじませた。

 信長はひなたの前に立つと、その小さな肩に手を置いた。

「ひなたこそ、我が直感が選んだ者。織田家の臣とするに何の不足があろうか。異を唱える者は、この信長の眼が誤っていると申すのか?」

 広間に緊張が張りつめ、誰も声を発さず。やがて、勝家が深く頭を垂れ、長秀もまた従うように沈黙で肯んじた。

 桶狭間の戦いを終えてまもなく。ひなたは信長の家臣となることが決まったのである。

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