1-5話 尾張国

「いいだろう。雇ってやろう」

 織田信長の厳かでけれど、とても好奇に満ちた声色が響く。

 市ではたくさんの人が賑わいを見せていた。

「この額で売るのは今日だけ! 今のうちだよ!」

「さあさあ、新鮮な魚だよ〜!」

「ずるいぞ! 俺もその団子をくれ」

「嫌だね!」

「なんだと!?」

 商人や販女の声が響き、子どもの騒ぐ声が聞こえてくる。

 その中、信長と少女の2人は静寂を保っていた。静かだ。静かすぎる。その異常な自体に気がついたのはこの場にいる物だけ。素通りしかけた野犬や野良猫はそこだけを通ることはしない。

 やがて、信長は、その少女の手を取ることもなく、ただ無言のまま清州城の方へと進めた。少女は不思議と取り乱すことも無く、驚くほど静かにその背に従った。

 2人が歩いている間は驚くほど会話という会話がない。また、一間ほどの距離が空いており、誰も同行者だとは思わなかった。

 ある者は信長がこの街中にいることに気が付き、礼をする者、その訝しげな行動に眉を顰める者、と様々であった。

 やがて2人は信長の居城、清洲城へとたどり着く。城というものは街中に比べると豪華絢爛。城内に入るとその様相は益々浮き彫りされる。調度品に衣服は豪華で、中にいる侍女や小姓たちは誰もが顔が整っていた。

 そんな場内で少女の姿は浮いた。

 泥と土埃と煤で薄汚れた衣は、かつて誰かに作られたものかもしれないが、服としてなっていない。裾は裂け、肩や肘の部分は擦り切れていた。草履は鼻緒が擦り切れており、もはやそれは履き物ではなく、足に敷かれた何か。そのせいで足をひきずるような歩き方をしており、姿勢も悪い。髪もまた、長いこと洗っていないのか、風に乱れるたびに小さな土埃や煤を振り落とす。

 背丈は小柄で、華奢な体つき。手足は小さく細く、今すぐにでも折れそうだ。顔も髪や身にまとっている衣服同様に薄汚れている。眉をひそめるような異臭。まるで、孤児だということを言い表したようである。

 目が合った侍女や小姓は思わず身震いをしてしまうような鋭く目つきが悪くすこぶる禍々まがまがしい。

 そんな少女は家臣たちの注目を一斉に浴びる。少女の容貌はとてもじゃないが城内に上がれるほど品行方正に見えない。真っ当な家柄の娘にも見えない。少女の姿を見た途端、誰もが渋い顔をしては口元を引きしめた。特に重臣たちの視線は鋭く、警戒で目を細くする者もあった。

「と、殿、この者は一体なにもので?」

 この事態にに慌てた重臣が信長に話しかけた。少女の視線が一度そちらに向いた。じっと重臣を頭から足のつま先を見つめる。やがて、興味が失ったのか視線を目の前で立っている信長に向けた。そのまま視線は信長から外れることはなかった。それでもなお周りにいる重臣は騒がしい。

「殿、そのものはあまりにも怪しゅうございます。何故このようなものを……」

「お連れするならば、せめて出自をお確かめくだされ」

 信長が突然見ず知らずの人間を連れてくること自体珍しくもない。最近では出自も怪しいような男を足軽に取り立てていた。だが、子供、しかも女を連れてくることは初めての事だった。ゆえに怪しいと感じた柴田勝家、丹羽長秀が杞憂して信長に話しかけた。見ず知らずでみすぼらしい少女。信長の側妻そばめにするにしても不相応で、幼すぎる。それくらい少女は異様なのである。少女が安心出来るとはすぐさま判断が効かない。

 すぐさま信長の重臣たちは少女に対して強い警戒心を抱いた。出自のよく分からない孤児で下手したら他国の間者だという可能性もある。

 一方信長も確かに名も聞かぬのは問題だと感じたのだろう。少女に振り返り、口を開く。

「名は、何と申す」

 少女は信長の目をじっと見返す。そして、ゆっくりと目を瞬きさせた。1回、2回、3回。

「……ひなた、です」

 ひなた、そう名乗った少女。その瞳はやや澄んでいるように見えた。

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