28.


「最近、どうだ?」と、意図のわからない質問をされた。

 着替えが終わり、更衣室のロッカーを閉じたところだった。僕と入れ替わりで入ってきたタドコロさんが、こっちを見ないまま声をかけ、ロッカーを開ける。

「どうと言われても、普通ですけど」

「そう、そっか、そんならいいんだ」

 作業着のボタンを外しながら、タドコロさんが呟くように言った。

 僕は遅れて気づく。タドコロさんは、僕が急に一週間も欠勤をつづけたことを慮って、気にかけてくれているんだ。

「まぁ、さ」

 一呼吸を挟んで。

「なんかあったら、何でも言ってくれよ。俺みたいの、力になれないかもしれないけどさ」

 手探りで言葉をたぐるようなリズムに、僕はタドコロさんの誠意を感じた。同時に、胸が少し痛む。

 ショウタの顔が、頭に浮かんで。


「ありがとうございます。すみません」

「何のお礼だよ。何で謝るんだよ」

 タドコロさんがくしゃっと笑う。ちょっとだけ、許されたような気分になった。今一度ペコリと頭を下げて、更衣室から出ようとした。すると、

「うちの娘がさぁ」

 この人はどうしていつも、帰り際に人の首根っこを掴むのだろう。嘆息を吞みこみ、僕は足を止めて振り返った。

「学園祭で劇をやるらしいんだけど、お父さんは絶対来ないで、とか言うんだよ。どうしようかなって」

「来ないでと言われているなら、行かなければいいじゃないですか」

「……お前さぁ」

 タドコロさんが湿った目つきを僕に寄越す。

「いいかダイスケ、シルクドソレイユも劇団四季も、その気になればいつだって観に行ける。でも、娘の晴れ舞台を観れるのは今だけなんだよ」

「はぁ、はい」

「よし決めた。やっぱりこっそり観に行こう。なぁに嫌われたって最悪、我慢すればいいのは思春期の間だけだよな」

 勝手に悩んで勝手に話して勝手に解決して。

 僕はタドコロさんのことが羨ましかった。あまりに人間的で、あまりに普通的で。こんな性格になりたかったと、心の中で自嘲した。

 頃合いを見ながら、僕は今度こそその場を去ろうとして。

「姫咲みたいなお嬢様学校におっさんが乗り込むんだから、ちゃんとした格好しなきゃあな」


 その単語が出るなんて、まるで想定してなかった。

 僕は踵を返し、タドコロさんに詰め寄って言う。

「今、何て」

「えっ?」

 着替えの手を止めたタドコロさんが、ギョッと驚いた顔を見せた。

「いや、ちゃんとした格好しなきゃなって」

「それじゃなくて、姫咲って言いませんでした? タドコロさんの娘さんって、姫咲高校に通ってるんですか?」

「そう、だけど。おい、急にどうしたんだよ?」

 僕は一度口を閉じ、思考を集中させながら、今度は慎重に訊いた。

「姫咲の学園祭って、部外者でも入れるんですか」

「……女子校だし、家族以外は難しいと思うけど」

 いよいよ、タドコロさんは怪訝な顔を作った。でも僕には、躊躇している余裕も、適当な理由をこしらえる器量もなかった。だからストレートに言う。

「一つ、お願いがあります。僕のこと、家族っていう体にして、一緒に姫咲の学園祭に連れて行ってください」

「はっ?」

「中に入るまででいいんです。お願いします」

 人に頭を下げたのは、これがはじめてかもしれない。こんなポーズ、何の意味も持たないだろうとバカにしていたけど、実際自分が人に何かを頼む立場になって、はじめて知った。

 理性や理屈じゃないんだ。自分とは違う心を持つ他人に対して、意志を伝うことを願って行う、これはそういう本能的な行為なんだ。


「そう言われてもなぁ」

 タドコロさんはわかりやすく困っていた。

「まぁバレはしないと思うけど、何でだよ? ダイスケ、お前何で姫咲の学園祭なんかに行きたいんだ?」

「それは」

 口ごもり、押し黙る。とても一言で表せるような事情ではないし、きちんと説明できたところで、納得できる理由とも思えなかった。結局僕は、茶を濁したような返事を。

「姫咲に知り合いがいて、ちょっと会いたくて」

「なら、その知り合いに直接頼めばいいじゃないか。在校生の招待なら、許可下りるかもしれないだろ」

「いや、連絡先、わからないんです」

「知り合いなのに?」

 もっともな疑問だ。僕は言葉を返せない。下唇を噛み、でも、もう一度頭を下げた。

「お願いします。悪いことを考えているわけではないんです。信じてください、お願いします」ひたすらに言った。

 自分でも、無茶苦茶を言っている自覚はあった。でも、それしかやりようがなかったから。

「お願いします」と今ひとたび言って。

「うーん。わかったよ」

 いとも簡単に、タドコロさんは僕の要求を受け入れた。耳を疑った僕は、面を上げながら問う。

「本当、ですか?」

「ああ、一緒に行く嫁さんには、妹がいるとかでごまかすから。ってかお前も、誰かに怪しまれたらそう答えとけ」

 タドコロさんがいたずらっぽく笑う。前にも見た、少年心を忘れていないような表情。


「あの」おずおずと口を開いて、

「自分から頼んでおいてなんですけど、どうしてですか? 理由もハッキリしないのに、どうして僕なんかのために、こんな怪しい頼み事、聞いてくれるんですか?」

「逆に、ダイスケだからかな?」

 目を上にやりながら、自分自身にも問うように。

「まともな奴からだったら、断ってたかも。でも、お前が人に頭下げるなんて、よっぽど追い詰められてるんだろうなって、それだけさ。理由なんて別にねぇよ」

 脱力するように笑う。


 『理由がない』というゴールを、人は許さない。

 だから僕は、朝や昼の世界が苦手だった。

 でも、それに捉われていたのは、他でもない、僕自身だったのかもしれない。

 理由を求めているのは、僕の方だった。それが見つからないから、夜中の世界でさまよい、探しつづけた。

 ただ、不安だったから。


「ありがとうございます」

 僕は頬をほだして言った。

「僕は、タドコロさんのこと、好きかもしれないです」

 ポカンと口を開けたタドコロさんが、むずかゆそうに目を逸らす。

「ダイスケの笑ったとこ、はじめて見たよ」

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