27.


 久しぶりに教室の扉を開くと、何人かの生徒がこちらに目を向け、でもすぐに視線を戻した。各々、談笑やスマホに夢中になっている。僕もまた、何でもないようにいつもの席に向かった。

 少ししてから現れたショウタが、僕を見るなり安心したような、戸惑ったような、複雑な顔を見せた。頬を掻きながら言う。

「ダイスケ、来たんだな。良かった」

 僕の前の席に座り、さらに何かを言おうとしたショウタを遮って、僕は言った。

「Facebookのページ」

「うん?」

「Facebookの、二人の『カオリ』のアカウントページにそれぞれアクセスしようとした。でも、二人の名前で検索をかけても、見つからなくなっていた」


 ショウタの顔が強張る。

「……それがどうしたんだよ。何かの理由で非公開設定にしたか、アカウントごと削除したんだろ」

「それはできないはずだ」

 瞬き一つせず、僕はつづける。

「須永果生莉……『夕方のカオリ』の方ならまだしも、『夜中のカオリ』のアカウントを削除したり、設定を変更することはできないはずだ。だって彼女はもう、死んでいるんだから」

「そら、そうだけど」

 明らかに、歯切れが悪い。

「そんなもん、俺らが考えても仕方ないだろ。カオリちゃんのことは、もう終わった話なんだ」

 茶を濁すようなトーン。無理に会話を打ち切ろうとするような不自然さが、僕の疑念に拍車をかけた。

「今日の午前中、あのバイク事故現場にもう一度行ってきた」

「はっ?」

 焦ったように、ショウタがこちらに視線を戻す。

「あの時ショウタは、事故現場の近くの家で証言が取れたって言ってたよね。あの時指さして教えてもらった家に、僕も訪問したんだ」

 ショウタの顔に動揺の色が混じる。今日の彼はサングラスをしていないから、どんな表情をしているのかがよくわかった。

「三年前、すぐそこの交差点でバイク事故はなかったか、そう訊いたら、人の良さそうなおばあちゃんが答えてくれたよ」

 何か言いたそうな顔で、でもショウタは口をつぐんでいた。何かを隠すように、口元に手をやっている。

「確かに事故はあった。若い女の子が亡くなったと聞いて、悲しい気持ちになったと言っていた」

「そ、そうか」

 露骨にホッとした顔。

「俺の言った通りだったろ。お前、なんでそんな、わざわざ確かめるようなこと」

「つづけて、もう一つ訊いたんだ」

 明確な意図を持って、僕はショウタの発言を塞ぐ。

「最近誰かが訪れて、今と同じ質問をされなかったかって」


 明らかに、ショウタの表情が一変した。

「そのおばあちゃん、不思議そうな顔でそう言っていたよ。そんな記憶はない。ここ一か月うちには誰も訊ねていないって」

 つまり、それは。

「ショウタ、君はあの時あの家を訪れていない。証言を取ってなんかいなかった。君は僕に、嘘を吐いた」

 打ちのめされたように、ショウタが顔を伏せる。

「それだけじゃない。クラブで会った二人組の女の子、君はもともと知り合いだった彼女たちに、姫咲の生徒の振りをするよう頼んだ。すでに知っていたバイク事故の現場の場所を、あたかもその時自分が見つけたように僕に報告した。白ユリの献花をあそこに置いたのも、君だったんだろ?」

 ショウタは黙っている。

 何も言わず、ただ僕の声を耳に垂れ流して。

「ショウタ、教えてくれないか、本当のことを」

 その言葉は、僕の心からの懇願だった。

「どうして君が……君たちが、僕にそんな嘘を吐いていたのか。そんな嘘を吐いてまで、何を隠そうとしているのか」

「不満かよ」


 ゆらりと、ショウタの顔がこちらに向けられる。

 さっきまでの焦燥はそこにはなく、彼はやさぐれた顔つきをしていた。はじめて見るその表情に、文字通り人が変わったような印象を受ける。

「初恋の相手が幽霊だった。お前は彼女との最後のデートを引き受け、彼女の未練を果たすことで成仏させることができた。残されたお前は、彼女との別れを乗り越え、前向きに人生を歩んでいく」

 細く醒めた目つきが、僕に向けられている。空気が読めず場の雰囲気を壊している誰かを、迂遠に糾弾するような声音で。

「そんな筋書きじゃ、不満かよ?」

 覚悟はしていた。ほとんど確信も持っていた。でも、それでも、

「悪いけど、俺の口からは何も言えない」

 ショウタだけは、どんな時も僕の味方をしてくれるんじゃないかって、そんな青臭い気持ちがあった。

 だから僕は、何も言えなかった。今目の前にいる男が、あのショウタであるという認識をするのが難しかった。

 信頼。僕はその言葉が持つ裏側の意味を、はじめて知る。

「本当のことを知りたきゃ、一人で勝手にやるんだな」

 その言葉を最後に、ショウタが前を向いた。目の前の背中が、いつもより無機質に感じる。まるで生気が感じられない、もの言わぬ壁のようだった。

 授業がはじまる。当然、僕は集中することができない。

 ――カオリちゃんについて調べるの、もう止めないか?

 渋谷のビルの屋上で、彼が言った台詞。もしかしたらショウタ自身、僕を騙すことを躊躇していたんじゃないだろうか。ショウタは頭の回る奴だけど、嘘を重ねられるほど器用じゃない。

 そんなショウタが、それでも僕に嘘を吐き通そうとした理由。

 自分のためじゃないだろう。きっと、誰かのため。

 教科書を読む先生の声が淡々と流れた。目の前にあるショウタの背中は、相変わらず静かだった。




 同じ場所でも、昼と夜とでは印象がまるで異なることがある。例の公園がまさにそれだった。今僕の目の前に映る風景は、開放的で、はしゃぐ子供たちを木漏れ日が照らしていて、平和を体現したように和やかだ。


 この公園を訪れた理由は、特にはなかった。協力者を失った僕は今、真実を掴むための手立てを完全に失っている。思えば僕は、いつもショウタに頼り切りだった。道筋が示されていたことにも気づかず、自分の意志でゴールにたどり着いたと思い込んでいた。ほとほと、自分に嫌気する。

 だから、夜ではなく、朝や昼の世界に身を置く必要性を感じていた。夜中に逃げ込んだままじゃ、僕はきっと前進できない。

 わかったことと、わからないこと。ごちゃまぜになって、何から手をつけていいのか見当もつかない。でも、少なくとも僕の中で、ハッキリしていることが一つだけあった。

 『夜中のカオリ』は幽霊なんかじゃない。成仏なんかしていない。

 彼女は生きている。

 僕と同じ、生身の身体を持って、今もこの世界のどこかに存在している。

 だから結局、最初の問いに戻る。彼女は一体、何者なんだろう。


 ふいに、足元でざわりと何かに撫でられる感触があった。見ると、夜中に会った二匹の猫たちが、僕の足にすり寄っていた。

「君たち」

 思わず顔がほころぶ。久しぶりの安寧に心が緩み、僕は二匹の猫たちの頭を、交互に優しく撫でた。にゃあとのん気な鳴き声が、狭まっていた僕の視野を広げる。

 カオリが付けた二匹の名前は、何だっけ。確か――

 遠くから、「ミー助! ミーちゃん!」と幼い声が。

 呼ばれた二匹が同時に振り向き、彼らの視線の先には、たどたどしくこちらに走ってくる小さな女の子がいた。二匹がゆっくりと彼女の元へ向かう。女の子はしゃがみこみ、満面の笑みで、先ほど僕がやったのと同じように、二匹の猫を優しく撫ではじめた。

 彼らがどうしてこんなに人懐っこいのか、その理由を知った。あの猫たちは、この公園のアイドルなんだ。彼らは、彼らのファンの数だけ違う愛称を持つ。みなが好き好きに名前を呼び、二匹はみなが望む仮面をつけ、望む声を鳴らす。そうやって人気を博している。本人たちに、そんな自覚はないだろうけど。

 そっくりな二匹の野良猫。もしかしたら彼らには、神様から与えられた本当の名前があるのかもしれない。

「……名前」

 無意識に、声を漏らす。

 ほんの少し予感がした。重要な何かに気づけそうな、そんな予感。


 僕の今の苗字を知っている人は、家族以外にいない。僕が教えてないからだ。みんな僕のことをダイスケと呼ぶ。僕がそう名乗ったから。僕が、二人のカオリを『カオリ』と認識したのも、そう教えられたから。

 ――誰に?

 『須永果生莉』の名を知ったのは、クラブで会った女の子二人組から。

 『須永香織』の名を知ったのは、Facebookのプロフィールにそう書いてあったから。

 カオリ。『二人のカオリ』。

 前のめりになり、口元に手を当てた。

 小さな予感が次第に広がり、無視ができないほど大きな疑問に為り変わっていく。

 ずっと思い込んでいたものが、そうでなかったとしたら。


 同じ顔で同じ名前の女の子が、同じ街にいるなんてありえない。

 その前提があったからこそ、『果生莉』と『香織』、同じ音だが別の名前を持つ二人の存在に、僕は納得していた。

 でも、それが偽りだったとしたら?

 どちらかの名前が捏造で、存在しないものだったとしたら?

「『カオリ』がはじめから、一人だったとしたら」

 木々が風に揺られ、地面に映る木漏れ日が移ろぐ。僕は立ち上がった。

 やるべきことは決まった。僕はもう一度、『カオリ』に会わなければならない。あとは、その手段だけ。

 子供たちに囲われ、もみくちゃにされながらも満足そうにしている二匹の猫たちに向かって、僕は会釈をした。ヒントをくれてありがとう、心の中で誠心誠意のお礼を。

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