26.


 カオリという未練を持つ僕が死ねば、彼女と同様、魂だけが現世に取り残され、そういう存在になれるはずだ。

 コンクリートの地面を踏む音が重なり、目の前に迫った鉄柵を素手で掴んだ。ひんやりと錆びた感触が手のひらから全身を伝い、僕はそれをまたいで乗り越えた。淵に立つ。目を瞑った。

 大丈夫、あとは一歩足を前に出すだけ。それだけで僕の身体は宙に放られ、まっさかさまに落下する。これは、ひどく簡単なミッションのはずだ。何の情報もない状態からカオリの正体を探しあてた時よりも、よっぽど。

 カオリの姿を頭に思い浮かべる。踊るように笑うカオリ、夜中の世界で一つ輝く彼女は、月よりも太陽よりも眩しかった。


 ふと、頭の中で声が鳴る。

 ――ダメだよ。

 表情をほどいたカオリが、やるせなく息を吐く。


 何が、何で。

 ――君は水槽の魚じゃない。


 そんなのわかってる。けど、

 ――朝も昼も、夜中も、どんな世界も、自由に泳ぐ権利を持っているの。


 違う。僕は、そんなに強くない。

 ――最後に、私からお願い。


 やめてくれ。黙ってくれ。

 ――私のことは忘れて、


 うるさい。

 ――夜の世界を抜け出して。ダイスケだけの人生を、どうか、

「黙れ!」


 いつの間に目を開けていたのだろう。眼下には、都会を彩る小さな光の群がアトランダムに鳴っている。一切の遮蔽を持たずに、奈落がつづいている。

 どうして、何で、何でだよ。

 呼吸が苦しい。息のやり方を忘れたようだ。心臓の音が、自覚できるくらい高鳴っている。僕はわからない。汗をびっしょりとかいて、服が素肌にまとわりついている。僕はわからない、その理由が。何で、どうして。

 どうして、僕の足はこんなにも震えているんだ。


「……くそっ」

 前かがみになり、両足のすねを拳で思い切り叩く。でも痛みや感覚がほとんどなかった。何度叩いても同じだった。叩くたびに焦り、虚しさが募っていく。それをごまかすように僕は、くそっ、くそっ、と呻いた。


 あと一歩、あと一歩を踏み出すだけなのに。

 それだけで、カオリのいる世界に行けるのに。

 ――ダメだよ

 だから、黙れって。何で僕の邪魔を、

 ――バイバイ。

「ああああああっ!」


 ノイズの刃が、僕の脳を切り刻む。

 僕は前かがみになり、目いっぱい叫んでいた。両手のひらで頭を抱え、思い切り耳を潰そうとした。けれどノイズは止まない。僕は体勢を崩し、後ろに倒れ込み、鉄柵に背を打ち付ける。ごぉんと固い音が響いた。周りには誰もいない。僕しかいないはずのその場所が、五月蠅くってしょうがなかった。

 叫ぶ、わめく。僕は狭いコンクリの床でのたうち回った。息苦しく、思わずマスクをはぎとる。


 自制の利かない頭の片隅で、ぼんやりと思った。

 ああ、そうか。

 僕が欲しかったのは、カオリじゃない、『夜中のカオリ』だった。

 僕というフィルター越しに映る、『夜中』を体現した女の子。

 僕は夜中を、独り占めしたかった。

 彼女はそれを知っていた。幼く都合の良い僕の欲望を、見抜いていた。だから僕を突き放した。

 そんなんじゃあダメだよと。優しく迂遠に、僕の背を押した。

 『夜中』も『カオリ』もない、朝や昼の世界で、僕が生きていくために。

 そういう呪いを、僕にかけた。




 見回りに来た警備員が、寝そべっている僕を見下ろしている。面倒そうな顔で何やら言っていた。僕はむくりと起き上がり、這うように鉄作を乗り越え、その人の方を見ずに塔屋の入り口扉に向かった。さっき上った非常階段を、今度はひたすら降りていく。ずっとつづけばいいのにと思った。でも僕は地上に辿りついてしまう。


 右や左もわからず、繁華街をふらふらと徘徊する。僕はどこへ向かっているのだろう。視界の端で光るネオンライトがうざったかった。

 通り過ぎる、他人、人。スーツを着ているあから顔のサラリーマン。アニメやゲームの世界にしかいないような恰好のコスプレ集団。ラフな服装でスーツケースを引く恰幅の良い外国人一家。

 それら、自我を持つはずである人らを、僕は記号としてしか捉えることができない。向こうも似たようなものだろう。みんな、自分の人生に忙しい。


 着崩した制服姿の女子高生二人が横を通り過ぎる。派手なピンクの髪色をしていた。こんな時間に制服姿でうろついて平気なのだろうか。ただの疑問が頭をよぎり、

 思考が戻る。意識が凝縮され、耳に音が戻ってきた。


 最初は、ほんのわずかなインスピレーションだった。記憶の片隅にあった映像が、一瞬想起されただけの。

 。どこか、既視感がある。


 僕は振り返り、今さっき通り過ぎた女子高生二人組の背に目を向けた。

 まさか。


 思わず、その女の子二人組の背を追った。躊躇やら自意識を置き去りにして、僕は彼女らの前に立った。

 二人が足を止める。不可解そうに、顔を強張らせて。

「えっ、何急に」「ちょっ、誰。ヤバイ人?」

 間髪入れず二人の声が重なる。その経験にも、僕はおよそ覚えがあった。僕は何も言わず、二人の顔を交互にまじまじと見つめた。ほんのわずかだった違和感が、今やほとんど確信に変わっている。

「何なの、何か言えって」「いいよ、もう行こ」

「待って」

 僕は混乱している。事態を吞みこめていない。だってそうだろう。

 もしそうなら、すべてが覆ってしまう。


「君たち、僕と会ったことあるんだけど、覚えてる?」

「はっ? いや知らんし」「いやちょっと待って、この顔のアザ」

 二人組の片割れ、ピンクの髪色の子が口元に手をやりながら僕をじぃと見つめた。すぐに、「あーっ」と目を見開いて。

「クラブで声かけてきた、ショウくんの知り合いじゃん」

 ぐわんと、世界が一回転するような感覚があった。

 やっぱり、そうか。


「一つ、確認したいんだけど」

 異常に喉が渇く。街の喧騒にかき消されそうなほど弱々しい声で、でも僕は、それを訊かないわけにはいかなかった。

「君たちが着ているその制服、姫咲高校のものじゃないよね」

 白ではなく、紺のブレザー。特徴的な青いリボンもついていない。

 二人が顔を見合わせて、プッと噴き出す。

「ウチらみたいのが、姫咲みたいなお嬢様学校に入れるワケないじゃん、ウケる」「あ、待って」

 片方が、何かを思い出したように。

「ウチら、姫咲の生徒のフリしてくれって、ショウくんに頼まれてなかったっけ」「あっ、そういやそうだった、ヤバ」

 その可能性が、確定する。

 ショウタは僕に嘘を吐いていた。


「今の聞かなかったことにしてくんない? ショウくんキレたら怖いから、ウチら殺されちゃう」

 さして悪びれた風でもなく、手のひらを合わせて頭を下げたその子が、わざとらしいウインクを見せる。

「頼まれたって、どういう」

「ごめ、ウチらもう行かなきゃ」「じゃね、ショウくんに絶対言わないでね~」

 二人組が、逃げるように僕の元を去る。

 人が無尽に流れゆくその道で、僕はばかみたいに突っ立っていた。思考の渦に、意識が吞まれる。

 彼女たちは姫咲の生徒じゃなかった。

 ショウタに頼まれて、姫咲の生徒の振りをしていた。

 だとしたら、前提が崩れる。


 僕は、自分の意志でカオリの正体を知ることを決意し、行動していたと思っていた。彼女がすでに死んでいて、幽霊だったという真実に至った。カオリは、僕との水族館デートで未練を果たし、本当の意味でこの世界からいなくなった。

 でも、もしそれが、誰かの手によって作られた物語だったとしたら。

 偽りの真実に、僕が誘導されていたとしたら。


 『夕方のカオリ』の本名がわかれば、ネットから彼女の情報を探れるかもしれない――僕がそう考えたきっかけは、ファミレスでショウタが誰かと電話をしはじめて、Facebookの話をしたからだ。

 でも僕は、相手の声を聞いたわけじゃない。あの時の通話が『振り』で、ショウタの一人芝居だったとしても、僕はそれに気づけない。


 クラブに僕を連れて行ったのもショウタ。声を掛ける二人組を選んだのもショウタ。バイク事故のネットニュース記事を見つけたのもショウタ。事故現場を見つけたのも、近隣の聞き込みで裏を取ったのも、全部、

「……ショウタじゃないか」


 そういえば、最初に二人で姫咲学園に行き、『夕方のカオリ』が現れた時、彼女の顔を見たショウタの反応は不自然だった。彼女の存在が、まるで信じられないといった表情をしていた。

 もしショウタが、以前からカオリのことを知っていて、二人のカオリとショウタが繋がっていたとしたら。

 僕だけが一人、真実を隠されていたとしたら。


 心臓が強く、高鳴っていた。

 ――水槽の中にいる魚たちが、幸せなのかどうか、確かめたかった。

 あの台詞の、真意を。

 本当の、今度こそ本当の、カオリの正体を。

「確かめなきゃ」

 それをしなければ、僕はカオリを救ったことにならない。

 雑踏の中を、まっすぐ前を向いて歩いた。マスクのない僕の顔を好奇の目で見てくる人らの視線を、一切無視しながら。

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