25.


 夜中の公園で、カオリが無邪気に笑っている。その場所は薄暗い闇に覆われている。その場所では一切の音が鳴らない。存在するのは僕とカオリ、それに二匹の猫たちだけだった。

 カオリも僕も、何も言わない。そんなことをする必要がなかったから。悠然と過ごす二人きりの時間さえあれば、それで。

 パラレルワールドが無限につづくことを、僕は切に願っていた。自覚していたかどうかは定かでない。夢遊とはそういうものだ。重要なのは、誰にも邪魔されないことだった。


 ――おい、ダイスケ?


 第三者の干渉など、ありえない。それこそ僕にとってノイズに外ならない。例え生が果てようとも、それもいいかとすら思っていた。死んだように眠っている。眠ったように死んでいる。両者の違いなんて、傍から見たら変わらないんだから。

「ダイスケ、お前、死んでんのか?」


 カオリの存在が、ふと消えた。




 目を覚ました。ということをゆっくり自覚していく。

 埃っぽい布団の匂い。凝り固まった全身が軋む感覚。眼前に現れたのは、茶髪で色黒の男が呆れ切った顔だった。僕が起き上がると、ショウタは僕から顔を離して、背後ろに手を突いて言った。

「びびらせんなって。生きてるならすぐにそう言えよ」

「寝ている人間に、それは無茶だよ」

 ショウタが、僕の顔をまじまじと見つめる。先の軽口を言った時とは違い、心配そうに眉を寄せていた。

「ひどい顔してるぞ。ちゃんと食ってんのか」

「……食べてるよ」

「嘘吐け。一週間も学校休みやがって。もしかしてその間、何も食ってなかったのか?」

 僕は黙って、ショウタの顔すら見ない。言い訳を考えるのも億劫だった。彼はそれ以上言葉をつづけず、露骨な嘆息を漏らす。だしぬけに立ち上がり、「ちょっと待ってろ」とキッチンに向かった。


 ほどなくして、香ばしい匂いが鼻孔をくすぐった。じゅーじゅーっと何かを炒める音が否応なく耳に入る。

「おまたせ」と、湯気立つ焼きそばが僕の目の前に置かれる。その瞬間、本能が理性を勝った。僕は一週間振りに食欲を思い出し、黙って箸を手にとる。ソースの甘辛みが舌先に触れた瞬間、僕はろくに咀嚼もせず、胃の中にどんどん麺を運んでいった。目の前のショウタが苦笑する。

「逃げやしねぇんだから、そんなに慌てて食うなよ」

 ものの数分で焼きそば平らげた僕は、そこで我に返った。空っぽの皿と満足気なショウタの顔を見比べ、癪ながら口早に言う。

「ごちそうさま、おいしかったよ」

「だろ? ソースの粉を全部使わず、半分くらいにするのがポイントなんだよ」

 得意げな表情のショウタを見ていたら、変に意地を張るのがバカらしくなってきた。ごろんとその場で横になる。天井をぼんやりと見つめ、久しぶりに生き返った気分だ。

「ダイスケ。お前、いい加減学校来いよ。その様子じゃあ、バイトも行ってないんだろ」

「……うん」

 今度は、素直に答える。

「わかってる。わかってるんだけど」

 でも、その先を継ぐことはできなかった。


 カオリがいなくなってから、一人きりで夜中を過ごしても、以前のような充足を感じられない。どころか、孤独感に胸が押し潰されそうになる。気づけばカオリのことを考えて、その虚しさにうちひしがれて、それをずっと繰り返す。途方のなくなった僕が最後に逃げ込んだのは、夢の世界だった。

 寝ている間だけは、僕はカオリに会うことができる。発想自体は、以前までの僕と変わらなかった。夜中のために朝や昼を生命維持活動に充てていた僕は、今度はそれらを捨て去り、ただひたすら眠りつづけていた。

 現実世界に『夜中』がないのならもう、自分で産み出すしかない。例えそれが、幻だったとしても。

 ――夜の世界を抜け出して。ダイスケだけの人生を、どうか生きて。

 ……そんなの、無理だよ。


「もう、カオリちゃんのことは忘れろ」

 ショウタが心配そうな、でも厳しい顔つきで僕を見ていた。

「あの子はいなくなったんだよ。お前の前には二度と現れない」

「……わからないじゃないか」

「あん?」

「まだ、わからない。彼女が本当に、この世から消えてしまったのかどうか」

 迷いや葛藤が、声に滲み出ていた。

「カオリが消えてしまったところを、僕は直接見たわけじゃない。あの時は、『夕方のカオリ』に目を覆われていたから。もしかしたらカオリは今もひとりぼっちで、夜中の街をさまよい歩いているのかもしれない」

「……お前なぁ」

 苛々と頭をかきむしったショウタが、それを隠そうともせずつづける。

「そんなもん、お前がそう思いたいだけの屁理屈だ。現実を受け入れられないからって、逃げてんじゃねぇよ」

「それでもいい」

 僕に、現実から目を背けたい気持ちがあるのは、否定しない。でも、ほんの少しだけ違和感があった。


 カオリは僕に言った。

『君は水槽の魚じゃない。朝も昼も、夜中も、どんな世界も、自由に泳ぐ権利を持っている』

 そして、こう最後につけくわえた。

『私とは、違って』

 生命を失った自分にはもう、自由が失われているから――そういう意味で捉えるのが普通だろう。でも、もし、隠された別の意味があったとしたら。

「彼女は成仏なんかしていない。今なお夜中の世界に囚われていて、でもそこから抜け出すことを諦めていて、だからこそ自由を僕に託した」

 そういう解釈が、できなくもないんだ。

 自身さえ自覚していないSOSを、無意識に発してたとしたら。


「僕はまだ彼女のことを、救えていない」

 ショウタは口を閉ざしたまま返事をせず、沈黙が間を縫った。

 そのまま、どれくらい経ったのか。静寂を見限ったのはショウタだった。

「……ダイスケ、俺はさ。お前がこんな風になるのを望んで、協力していたわけじゃねぇんだよ」

 ショウタは、今まで見たことのない顔をしていた。失望し、相手との対話を諦めたような寂しい顔。そこに怒りの色はなかった。

 胸が痛む。

 ふいに、すべてをリセットしたくなる衝動に駆られた。けれど、だからこそ何もできないし、言えない。

「俺は、また間違えたのか?」

 こぼれ落ちたその言葉の意味は、わからない。僕に向けたものなのかすら。

 立ち上がり、虚ろな表情で目線だけを寄越し、ショウタが言った。

「学校、来いよ」

 背を向けた彼は、床に脱ぎ捨てられた衣服を気にせず踏んづけながら、僕のアパートを後にした。鉄扉の閉まる音が、僕と世界を再び遮断する。


 僕は頭に手をやり、無造作に髪を撫でまわした。今眠りについても、カオリに会える気がしない。髪をぐしゃぐしゃにしながら、僕は横向きに床に倒れた。

「う、ああ」と、ひとりでに声が漏れる。今の僕の恰好は、まるでサナギだった。成虫になることは決してない。

 カオリ、自分だけいなくなるなんて、ひどいし、ずるいよ。僕も連れて行ってくれればよかったのに。

 誰もいない何もない何の音もしない夜中の世界。いや、無の世界に。


 生きている。死んでいる。

 朝、昼、夕方、夜。

 それらの違いは、なんだろう。

 そんなもの、人間が言葉を使って状態を区別しているだけなんじゃないか? つまりは、単なる認識の問題なんだ。


「……そうだ、そうだよ」

 どうしてそんな単純なことに、今まで気づかなかったんだろう。だとしたら、夢の世界に逃げ込まなくても、やりようがあるじゃないか。

 カオリに再び会う方法、本当はまだ、一人きりの世界をさまよっているはずの、彼女を救う方法が。

 僕自身の、状態を変化させるんだ。を使って。

 無意識に起き上がり、ほとんど寝巻のまま、マスクだけを顔につける。機械的に足を動かし、僕はアパートを飛び出た。




 夜中ではなく、夜。夜の街は活気づいていた。地元のベッドタウンとはまるで雰囲気の異なる都会の繁華街は、道行く人すべてが自我を失っているように見えた。

 渋谷の街に降り立った僕は、目的地に向かって直進する。前はショウタに連れられてだったけど、ほとんど一本道なので迷うことはなかった。一週間近く家で寝ているだけだったので、足がふらつく。だけど頭は醒めていた。


 これで最後か。

 その事実だけを認識し、感慨に耽る気にはもちろんならない。

 廃ビルの長い長い外階段を踏みしめ、無心で旋回をつづける。


 僕がいなくなって、悲しむ人なんていない。母親なんかむしろ、厄介払いができたとせいせいするだろう。タドコロさんは、バイトが急に一人いなくなって困るかもしれない。それはちょっと申し訳なかった。あとは……ショウタ。

 ふいに、足が止まる。


 ショウタだけは、本気で僕のことを想い、悲しんでくれるかもしれない。僕を止められなかったと、それこそ死ぬまで、自分を責めつづけるかもしれない。

 ――何かできたはずなのに、何もできなかったなって、あとで後悔するのが嫌なんだよ。

 思い切りかぶりを振った。

 『止める理由を考える』のを止め、再び歩き出す。


 屋上に到着した僕は、「関係者以外立ち入り禁止」の文句を無視して、鉄扉を開けた。暗がりの空と灰色が連なる地面、以前も見た無機質な景色が、無性に寂しい。一切の遮蔽のないその場所で、夜風が僕のほおを薙いだ。涼し気で湿った感触が、なんだか懐かしかった。

 ――ダイスケが、本当に幽霊だったらいいのに。

 その台詞がヒントだった。僕が夜中のカオリに会う方法。

 僕も死んで、幽霊になればいい。

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