24.
ずっと、自分の顔が嫌いだった。どうして自分だけって、嘆いていた。こんな顔、夜中の暗闇で覆い隠してしまいたい、ずっとそう思っていた。
だけど今、僕ははじめて、自分の存在を肯定してもいいかもって、少しだけ、そう思えた気がした。
「カオリ、君なら知っているだろう」
そっと彼女が、僕の頬から手を離す。
「あの人……君のお母さんは、どうして夜中の公園に一人きりでいたのか。どうして、泣いていたのか」
視線をずらし、水槽に目をやったカオリが、わずかに目を細める。
「お母さんね、病気で亡くなったの」
淡々と言った。
そして僕は、なんとなくそれを予感していた。
あの人はもう、いない。
ここにも、夜中の公園にも、朝や昼の世界にも、どこにも。
「自宅療養じゃどうしようもなくなって、入院することになった。でもそれも、一時の延命措置だった。本人にはハッキリ伝えなかったけど、お母さん、自分でもわかってたんだと思う」
だから、泣いていた。
きっと、自らの不幸を嘆いていたわけではないだろう。
「私に星のピアスをくれたのが、入院が決まった直後。ダイスケと最後に会ったのは、きっとその少し後だったんだよ。うちは、お父さんが厳しい人だから、私の心の拠り所は、お母さんだけだった。お母さん、私を一人置いていくのが、心配だったんじゃないかな」
だから、カオリを僕に託した。
大きな星のピアスを目印に、僕たちを引き合わせた。
同時に、あの人は知っていた。
夜中の世界で閉じこもっているだけじゃあ、ダメだってこと。そんなのは一時しのぎで、朝や昼の世界から逃げているだけに過ぎないってこと。
カオリと僕。夜中の世界に依存する二人の力を合わせて、どうか人生を乗り越えて欲しい。そんな願いを、星のピアスに込めて。
「私、親不孝だよね」
徐に立ち上がったカオリが、自嘲気味に言う。
「お母さんが、せっかくダイスケと会わせてくれたのに、私自身、こんなことになっちゃって」
にへらとだらしなく笑ったその表情が、やけになっているようにも、すべてを諦めているようにも見えた。
「でも、よかった」
僕の中に、大きな疑問が芽吹く。
「ダイスケと、デートすることができたから。私はもう、満足」
夜中のカオリの正体を知った今、あの人の、カオリのお母さんの涙の理由がわかった今――
僕は、どうしたいんだろう。
「思い残すことは、もうないの。これで私も、お母さんと同じ場所にいける」
本当に?
僕はカオリを救うことができた。そう言えるのだろうか。
――水槽の中にいる魚たちが、幸せなのかどうか、確かめたかった。
あの台詞の、真意は。
入った時と同様、解錠してあった窓を乗り越え、外に出る。薄い群青が空に広がりはじめていた。今日という日が、夜中が終わる。
僕の後につづいて、「ほっ」と窓から飛び降りたカオリが、地面に着地する。腰を上げながら言った。
「バレなくてよかったね。少しドキドキした」
僕は彼女に、軽口を返すことができなかった。ぎこちない笑みを浮かべるばかりだ。
「ダイスケ、ちょっとだけ目を瞑って」
突然、カオリが不可解なことを言い、僕は反射的に「どうして?」と問う。彼女はやれやれと肩をすくめて、
「女の子のお願いに理由を訊くなんて野暮だよ。黙って言う通りにしなさい」
「はぁ、はい」
わけもわからず、瞼を閉じる。そのままカオリは何も言わず、僕は放置される格好になった。ごそごそと、近くで何やら物音がしている。
何、なんなの――煮え切らず、そう口に出そうとした矢先、ふいに、僕の瞼を柔らかい体温が覆った。
「だーれだ」
いたずらっぽく、弾んだ声。さすがに僕は呆れて、思わず野暮がこぼれる。
「そういうのって、会って最初にやるやつじゃないかな」
「いつでもいいじゃん。一回やってみたかったんだ」
全身から気が抜ける。同時に強く思った。
僕はシンプルに、カオリと離れたくない。
ここですべてを決着させるのが、綺麗な終わり方なんだろう。でも僕の心は、身体は、そのフィナーレを望んでいなかった。
「カオリ、前に僕が言ったこと、覚えてる?」
視界が塞がれているためか、僕は本心を吐き出すことに躊躇をしなかった。それがルール違反であることを、心のどこかで気づきながら。
「君の存在が何だろうが、関係ない。僕は君にそう言った。その気持ちは、今でも変わらないんだ。君が幽霊だと知った今でも」
あけすけにさらけ出す。
「最初は確かに、君が、君のお母さんと同じ、大きな星のピアスをしていたから。僕は君に興味を持った。あの人のことを知っていると思ったから。でも今は違う。単純に僕は、君と過ごす時間を、なんていうか、大切に感じている。だから、その」
感情が頭に追いつかず、うまく言葉に変換できない。まるで自分が、わがままを言っている幼子のように思えた。
「このままずっと、僕と、夜中の世界で」
「ダメだよ」
熱を持たないカオリの声が、僕の口を塞いだ。
「ダイスケ、君は水槽の魚じゃない。朝も昼も、夜中も、どんな世界も、自由に泳ぐ権利を持っているの」
淡々と、間延びのない音が、僕の駄々をたしなめるように。
「私とは、違って」
わずかに、悲哀が滲んで。
「最後に、私からお願い。私のことは忘れて」
最後。
今、最後って。
「夜の世界を抜け出して。ダイスケだけの人生を、どうか生きて」
「勝手なこと、言うなよ」
投げやりに言う。
強く吐き出したはずの言葉が、弱々しく響いた。
ふぅと、呼吸の音が一つ背後ろで鳴る。
「さっきも言ったじゃん。女の子のお願いは、黙って聞かなきゃ」
カオリの声が、次第に遠く、小さく。
「それとこれとは、話が違う」
「違わないよ」
寂し気で、今にも消え去るように。
「違わないの」
もう、ほとんど聞こえない。
「今日はありがと。ほんとに、ほんとーに楽しかったよ。じゃあ」
またね。
最後にそう聞こえた気がしたのは、幻聴だろうか。僕は、目を覆っていた彼女の手のひらをはがし、後ろを振り返った。
「……えっ」
何が起こったのかわからず、思考が止まる。視界の先にいたのは、彼女ではなかった。派手なスカジャンではなく、大人びた黒のワンピース。大きな星のピアスは、耳についていない。
「どうして」
どうして、『夕方のカオリ』が、ここに。
「すみません。事前にカオリに頼まれていたんです」
僕の心を読んだように、彼女は淡々と。
「最後だけ私と入れ替わって欲しいと。あなたの目を覆っていたのは、私の手のひらだったんです」
「じゃあ、カオリは? 『夜中のカオリ』は、どこに」
「もう、どこにもいません」
朝と夜を繋ぐ光が、彼女の無表情をぼんやりと照らして。
「まるで魔法のように忽然と、彼女は姿を消しました。現世に残っていた未練を、断ち切ることができたんでしょう。ダイスケさんのおかげです」
その台詞が、ベルトコンベアで運ばれるように、機械的に流れる。耳から脳に入って、でも心までは届かない。
「ダイスケさんが、カオリを救ったんですよ」
僕が、カオリを救った。
「だからもう、還りましょう。私たちは、私たちの日常へ」
日常。そんなもの、どこにあるっていうんだ。
夜中と、カオリ。その二つを僕は同時に失った。
しゃがみこみ、頭を抱え、目を瞑った。どうしようもなく、朝はやってくる。でも僕はそれを拒否した。したかった。
朝が来るのが怖いんじゃない。
世界から夜中が消えるのが、嫌だった。
「ダイスケ、さん」
僕の頭上に垂れたその声には、同情や慈悲が混じっていた。ややもすると、近くで足音が鳴り、次第に遠ざかっていく。
『夕方のカオリ』は還ったのだろう、彼女の言う日常へ。
『夜中のカオリ』もまた、あるべき場所へ還った。
じゃあ僕は? 僕は、どこに還ればいいんだろう。
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