23.
再び水槽を見つめる。
「僕はその場所である人に出会った。僕の母親と年齢がそう変わらないくらいだろう、大人の女性だった。その人はベンチに座って、泣いていた」
ものを言わぬ魚たちが、変わらぬ表情で、ただ泳いでいる。
「大人が泣いているところを、僕ははじめて見た。何とかしなきゃ、僕は衝動的にそう思って、思わず声をかけた。顔をあげたその人は僕を見て、少し驚いたような顔をしたあと、でもすぐににっこり笑って言ったんだ。ありがとうって」
嘲笑ではない慈愛の笑みが、凝り固まった僕の心を溶かした。
「夜中に子供が一人でいることについて、その人は僕を咎めなかった。代わりに、少しお話しない? って、僕をベンチの隣に座らせた」
しばらくは二人とも何も言わなかった。名前も知らないその人と一緒にいる時間が、どうしてかとても安心できて、心地よかった。
「ふいにその人が、静かでいいね、そう言って、その声が暖かくて、僕は涙が溢れでてきた。中々止まらなくて、それこそ、枯れてしまうんじゃないかってくらい、僕は泣きつづけた。その人は僕の頭をそっと、撫でてくれた」
体温のある手のひらが、僕の心を包み込んだ。
僕たちが望む望まないに関わらず、身体と心は密接に繋がっている。僕はそのことを、はじめて知った。
「泣き止んだあと、僕は僕の日常についてその人に話した。学校でいじめられていること。朝を迎えるのが怖いこと。それを、誰にも相談できないこと――その人は口を挟まず、時折うんうんとうなずきながら、僕の話を聞いてくれた」
夜中が持つリズムは、決して僕を焦らせたりはしない。朝や昼の世界と違って、僕は自分のペースで、気持ちや記憶を整えることができた。
「僕は話し終えたあと、その人はしばらく何かを考えるような顔つきで、ぼんやりと前を見はじめた。ふと僕の方に顔を向け、ゆっくりと口を開いて、僕に言葉をくれた」
『あなたが辛いと感じている朝や昼の時間だけが、あなたの人生じゃない。それは、人生のほんの一部にすぎないの。夜中の静寂に身を委ね、誰にも邪魔されない時を過ごしている今も、時間の一つ』
静寂に響いたあの人の声々が、僕の心に纏った。
『辛い思いをしたとき、どうかそれを思い出して。あなたの中に、夜中の世界があることを。この時間の静寂を、景色を――』
小さくて脆い僕の心臓を、外界のトゲから守ろうとするように。
「子どもだった僕には、その人がくれたその言葉を、完ぺきに理解するのが少し難しかった。でも、言葉の意味というより、その人の喋り方、声音、そして夜中が持つ独特の雰囲気が、僕の心をすっと軽くしてくれたんだ」
その人は重ねて言った。
『今あなたは、自分に味方なんていない、自分を理解してくれる人なんて誰もいないって、そう思っているかもしれない。けど、覚えていて。あなたのことを心から理解し、あなたの傍にいたいって思ってくれる人が、いつかきっと現れる。だってあなたは、優しい心をちゃんと持っている。泣いている私を、慰めようとしてくれたんだから』
その人は僕を肯定してくれた。
今を無理に変えようとするのではなく、困難に立ち向かわない弱気を叱咤するのでもなく、ありのままの自分を受け入れる理由を、僕にくれた。
そんな考え方を、僕はしたことがなかった。自分がダメだと思い込んで、なんとかしなきゃと一人で焦って、でも何をしていいのかもわからず現実は進行していって。
だから、だからこそ。
「その人の言葉は、僕の心を守る鎧となった」
強くなった、は正しくないと思う。その日から、僕は他人を思うのをやめた。
「からかわれたり、嫌なことがあったとき、その人が言っていたように、頭の中で夜中の情景を浮かべることにした。そうすることで、不思議と周囲の声や目線が気にならなくなる。ゼロになるわけじゃないけど、少なくともマイナスの感情に心が埋め尽くされて、パニックになるようなことはなくなった。自分の状況を客観視できるようになった、って感じかな。
僕のことを露骨にいじめたり、嘲笑する奴が次第に減っていった。リアクションがないと、やってて向こうもつまらないんだと思う。いじめが沈静すると、先生たちも変に気を掛けなくなった」
平和と孤独を同時に手に入れた僕は、朝や昼の世界で生きるのを諦めた。
僕の人生には夜中さえあればいい、そう考えるようになった。
「その人とは」
久しぶりに、カオリが口を開く。
「その人とは、それっきり? その後会うことはなかったの?」
僕はカオリに顔を向けた。彼女は珍しく神妙な、迂遠に何かを欲しているような表情をしていた。
「その人と出会ってから、時折、親の目を盗んで、夜中に家を抜け出してその公園に行ってみた。毎回ではないけど、その人に会える時もあった。そのたびに僕は、学校や日々の生活で感じた色々なことを、その人に喋った」
朝や昼の世界に生きる人たちが、友達や家族にそうするように。
「その人はいつもニコニコ笑って、僕の話を聞いてくれた。当時の僕にとって、その人と過ごす夜中の時間だけが、人生の生きがいだった。その公園だけが、何も気にせず、考えず、自然体でいられる場所だった。けど」
僕はカオリから目を外し、地面に落とす。
「その人と出会ってから一年ほど経ったある日。いつものように公園に行くと、最初に会った時と同じように、その人は泣いていた。僕はなんて声をかけていいかがわからず、とりあえず黙って隣に座った。その人は僕の訪れに気づいているようだったけど、でも泣きつづけた」
静かな公園に、すすりなく声だけが響く。
何かをしなきゃいけないんだろう。でもどうしたらいいかわからない。
景色の変わらない夜中の公園は、時を刻むのを忘れてしまったみたいで、でも、僕の心の中はフルスピードで蠢いていた。そのちぐはぐさが気持ち悪くて、逃げ出したいとさえ感じていた。
夜中の世界を心に宿すようになり、自分にとってどうでもいい他人をやりすごす術は身についた。けれど、大切な誰かが悲しんでいる時、どういう距離感で身を寄せればいいのか、僕は知らなかった。
「しばらく泣いていたその人が、ふいに、ごめんねって言った。顔をあげて、涙を指で吹きながら、無理に笑顔を作って見せた。その所作が痛ましく、僕はとても見ていられなかった。その人が笑いながら、申し訳なさそうに言った。『もうあなたと会うことはできない。もう、ここには来られないの』」
僕ははじめ、その台詞を言葉通りに受け取ることができなかった。
そんなわけないって、心が拒否していた。子どもだった僕は、それこそ子どもみたいに、現実を受け入れられなかった。
「宣言通り、その人はその後、公園に現れることはなかった。僕は以後も、夜中の公園を訪れつづけた。その頻度は、年齢を重ねるうちに多くなり、高校生にもなると、毎日行くようになっていた。昼夜逆転の生活が当たり前になり、当然のように僕は学校に行かなくなった。結局中退して、今僕は、夜間部のある学校で高校生をやり直している」
「じゃあ、ダイスケがあの公園にいた本当の理由は」
カオリが問い、僕はうなずく。
「あの人が現れるのを、僕は待ちつづけていた。そんなことをしても無駄だろうと、頭ではわかっているのに、辞めることができなかった」
あの人が、どうして泣いていたのか。どうして、突然僕の前から姿を消してしまったのか。疑問と後悔だけが僕の中に残った。
夜中のカオリがいなくなった時と同じだ。
あの時の僕は、自分の選択に自信を持つことができなかった。だから、ただ待ち続けるという楽な方法を選んだ。
――それ、お前の自己満足なんじゃねぇの。
ショウタの言う通りだ。そうやって、自分への言い訳を作っていた。
「もしかして、ダイスケが最初私に声をかけたのって、私のことを、その人かもしれないって、そう思ったから?」
「それは……半分そう」
「半分?」
もう、後悔はしたくない。だから僕は言った。
髪を一つ結びにしていて、あらわになったカオリの耳を見ながら。
「カオリがしている大きな星のピアス、その人も付けていたんだ」
「……えっ」
カオリが、失うような声で漏らした。
「君は言っていたね。そのピアス、大切な人からもらったって。その人、最後に会った時だけ、ピアスを付けていなかったんだ」
彼女の瞳が、すべてを吸引するブラックホールのように、見開かれている。
「もし、あなたがこの公園で、私がしていた大きな星のピアスをしている女の子に会ったら、どうか、力になってあげて――あの人は最後、僕にその言葉を託した」
歳不相応な、少女のように無邪気なあの人の笑い方は、カオリのそれと似ている。
「その人は、君のお母さんだったんじゃないかな? カオリに、大きな星のピアスを託した、君の大切な人は」
呆けたようにぼうっとしているカオリが、やがて「そっか」と朽ちるようにこぼした。
「そうだったんだ。お母さんが、私とダイスケを引き合わせてくれたんだ」
カオリがゆらりと僕に目を向ける。
「私もなの」
「えっ?」
「私も、お母さんに言われていたの」
柔和に頬をほだした彼女が、そっと、赤子を撫でるように僕の頬に手をやった。
「もしあなたが辛くなった時、幼い頃によく通っていた、あの公園に夜中訪れてみて」
……ああ、なるほど。
ようやくわかった。彼女が、僕の声掛けに反応した理由。あの時、僕と会話をつづけようとした理由。
「頬に、大きなアザのある男の子がいたら、その子はきっと、あなたのことを助けてくれる――お母さんは、私にそう言った」
あの時、あの人がそっと僕を撫でてくれた時のように、カオリの持つ体温が、じんわりと僕に伝わってくる。
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