22.
長い間そうしていたため、身体の感覚がなくなっていた。コンクリートの壁に背をやり、地べたに尻餅をつき、両腕に顔をうずめていた。空が暗がりを帯びはじめてから、どれくらい経っただろう。遠くで自動車が往来する音が鳴る。遅くも速くもないスピードで、やはり今は進行している。そこに僕の意志は介入できない。当たり前だった。
ふいに、静かな足音が僕を誘う。
僕はよろよろと立ち上がった。目の前で、まるで立ち寄ったコンビニで偶然出会った時のように、『夜中のカオリ』が、僕にひらひらと手を振っていた。オーバーサイズのスカジャンをまとって、にへらとだらしなく、彼女が笑う。
「やぁ、久しぶり」
最後に別れた時。涙と共に僕の元から走り去った哀愁はそこになく、その声はあまりにのん気だった。
「ダイスケ、少し見ない間にやつれたね」
彼女にずっと言いたかったこと、訊きたかったこと。それらが、時間の経過と共にガレキの山のように積み重なっていた。収拾のつかない言葉の塊が、でも嘘のように瓦解し、僕は自然に笑みをこぼした。
「誰のせいだと思って」
「私のせいか。それは、ごめん」
僕たちはゆっくりと歩みを寄せ、同時に立ち止まった。
実は今でも、信じ難かった。
輪郭があり、息遣いがあり、表情を持つ目の前のカオリが、
「君、幽霊だったんだ」
軽い口調でその言葉を放ってみると、彼女もまたなんでもないように、舌を出して言った。
「ばれちゃった」
しおらしくつづける。
「黙ってて、ごめんね」
「僕の方こそ、ごめん」
「なんでダイスケが謝るのさ」
「いや、僕も幽霊だったらよかったのにって」
目を瞬かせた後、彼女はくすっと漏らす。
「前に私が言ったこと。もしかして気にしているの?」
「いや、そういうわけじゃ」
声の往来が弾んでたゆむ。あまりにも自然に。
久方ぶりの夜中に浸かり、心が解放していた。今なら何をしたって許されるだろう、なんて思ってしまうくらいには、気持ちが浮いている。
「じゃあ、入ろうか」
「どこに?」
「どこって、ここだよ」
先ほどまで背にしていたコンクリの壁に向かって、指を差す。
黙ったままカオリが、古ぼけたその建物を見上げた。そのまま、全身を脱力させるように息を吐き、ゆらりと僕に首を向ける。
「あの子から聞いたんだね。私じゃない、もう一人のカオリから」
僕はうなずく。
僕たちの目の前にあるその建物は、街の水族館だった。お世辞にも綺麗とは言えないその外観は、娯楽施設というより公共の資料館のような雰囲気が色濃く、時代に取り残されていた。
「今日なら、君がここに現れるかもしれないって、彼女が」
カオリが黙って顔を俯かせる。僕はつづけた。
「ここでデートするはずだったんでしょ」
顔を俯かせたまま、やるせない口調で彼女が言った。
「この日だけは、なんとなく、足が向いちゃうんだ。そんなことをしても、意味がないってわかっているんだけどね」
彼女の横顔にいつもの爛漫さはなく、どこか憂いを帯びていた。少女ではなく、女性としての側面をかいま見てしまった気がして、僕はドキッとする。
すぐに無邪気な顔に直ったカオリが、それを、僕に臆面もなく向けて言った。
「ダイスケが代わりに、私とデートしてくれるってこと?」
濁りのない純真が、眼前に突き付けられる。
その単語がはっきり出るのは、なんだかむず痒かった。僕は彼女から目を逸らす。
「まぁ、そういうことになる」
「やった。私、ずっと行ってみたかったの、水族館」
ぴょんと遠慮がちに跳ねたカオリが、「でも」と表情を変えて、
「どうやって入るの? 当たり前だけど、閉まってるよね」
「ああ、昼間に一度入って、窓の鍵を一つ開けておいたんだ。だから、そこから侵入できる」
「ずいぶん大胆なことするね。見つからないかな」
「大丈夫じゃないかな。水族館に泥棒が入ったっていうニュースも、聞いたことないし」
目を丸くしたカオリが、ふにゃりと頬を崩して。
「なにそれ、ダイスケ。私みたいなこと言うじゃん」
「カオリの不良が、移ったのかもしれない」
「ちょっと。私別に、不良じゃないんですけど」
口を尖らせたカオリが、流れるように僕をこづく。日々を共にする恋人同士のようなやりとりが、愉しくそして愛おしかった。
照明のない館内は薄暗かったが、一部、水槽のライトが点けっぱなしになっていたため、中を見て回るのには困らなかった。ブルーライトに照らされた淡い空間で、白のシルエットを為した魚たちがアトランダムに蠢いている。神秘的で、日常から切り離されたようなこの場所はどこか、夜中の公園と似ていた。
さぞ、カオリは童心に還ったようにはしゃぐのだろうなと思っていたけど、存外彼女は大人しくしていて、言葉数少なく、真摯な瞳でガラスの向こう側を見据えていた。
「どうして、水族館に来たかったの?」
訊くと、カオリの顔がふらりと僕に向かれた。「どうして」ぼんやりと繰り返す。
「水槽の中にいる魚たちが、幸せなのかどうか、確かめたかった」
「えっ?」
手をそっと伸ばしたカオリが、ガラス面を押しやる。鏡に映った彼女の表情が、半透明に透けていた。
「この子たちは、外の世界を知らない。死ぬまで、ぐるぐると同じところを回って、ただ泳ぎつづけるだけ。一人きりの世界に閉じこめられている、私とおんなじで」
音の鳴らないその場所で、彼女の声だけが反響している。逃げ場もなく無遠慮に、僕の耳に入り込む。
「この子たちには危機が訪れない。けど、自由を与えられることもない。この場所は、夜中とおんなじなの。誰も私に干渉しないから、とても楽に呼吸をすることができる。でも、それだけ。夜中の世界は何も変わらない。変化がないから、私の心が波立つこともない」
ゆっくりと、カオリが水槽から手を離して。
「死ぬまで、同じ景色を見つづけるだけ。そんなの、生きているって言えるのかな」
一歩後ろに下がり、僕を再び見る。自嘲気味に笑った。
「まぁ、私はもう死んでるんだけど」
彼女の求めているのが、同情や同調なのか、あるいは否定なのか、僕はわからなかった。
「実際見てみて、どう? 魚たちは、幸せそうに見える?」
ごまかすように、とりあえず訊いた。沈黙を埋めるためだけの発言だった。それを知ってかカオリもまた、「そうだなぁ」と、投げやりな口調で漏らし、首を斜めに傾けた。
「外から眺めているだけじゃあ、よくわからないね」
彼女が苦笑する。
僕たちは館内を静かに散策した。最初こそ口数少なく、黙って視線を回すばかりのカオリだったが、海水魚のあでやかさに感嘆を漏らしたり、クラゲの群れに向かって指をさし僕に笑いかけたり、等身大の女の子然に楽しんでいる素振りを見せはじめる。
「ねぇ、あの魚動いてないよ。どうしたんだろう」
「夜だし、寝てるんじゃないの」
「ああそうか。今は夜中だったね。っていうか、魚って寝るの?」
「そりゃあ寝るでしょ。マグロなんかは、泳ぎつづけてないと死んじゃうって言うけど」
「へぇ。魚の世界にオリンピックがあったら、長距離遊泳で大活躍だね」
「いや、さすがにシャチとかサメには勝てないんじゃない」
「ダイスケって真面目だよね。今のは悪い意味で」
「えっ」
施設内を一周したところで、段差になっている地べたにカオリが腰をかけた。僕も習って隣に座る。
そのフロアを、人の背丈より倍以上高さのある水槽が、湾曲に囲んでいた。だだっ広い空間を二人きりで占有しているのが、なんだか贅沢に思えた。
「少し疲れちゃった。長く歩いたのが久しぶりで」
「幽霊なのに、疲れるんだ」
「憑かれるだけに疲れるんだよ」
「ふぅん……ふぅん?」
笑うカオリの横顔が、あの人のそれと重なった。夜中の公園と同じ、薄明りにぼんやりと照らされるその表情を、今も、あの時も、僕は吸い込まれるように見入っていた。
「ねぇカオリ」
ふいに言う。カオリがきょとんと僕を見た。
「君に、聞いて欲しい話がある。僕が夜中を好きになったきっかけの話だ」
もう逃げない。心の中でつぶやいた。
僕の真剣を察してくれたのか、神妙な顔に直ったカオリは、何も言わずにこくんとうなずいた。僕は目の前の水槽に目をやり、ゆっくりと口を開く。
「小学校のころ、僕は学校で、いわゆるいじめを受けていた。まぁ、こんなご面相だからね。今思えば、仕方のないことだと思う」
同情するような素振りは見せず、カオリは僕の声にじっと耳を傾けてくれた。
「当時の僕は学校に行くのが嫌で嫌で仕方がなかった。いじめに正面から立ち向かう勇気もなかった。教室にいると、何をしてもからかわれる原因になる気がして、ずっと心が落ち着かなかった。ただ歩いているだけで、名前も知らない他クラスの子たちが好奇の目で見てくるのが、恥ずかしくて、悔しかった。ダイスケくんを仲間外れにするのは止めましょうって、先生から露骨に気を遣われるのも苦痛だった」
自分のことを人に話すのは、あの日以来だ。口が止まらない。
「朝や昼の世界が嫌いになっていった。醜い自分の顔が明るみになってしまうのも、僕の顔を見た他人の表情が目に映ってしまうのも、どちらも嫌だった。いっそ、この世界が暗闇に覆われてしまえばいい。そうすれば僕は普通になれる。誰も僕に干渉しなくなる。この世界がずっと夜中だったらいいのに。僕は毎日そんなことを考えていた」
他人からしてみれば、よくある不幸話の一つなんだろう。でも僕にとって、あの頃の毎日は地獄だった。狭い世界でしか生きられない子どもにとって、学校という場所は逃亡の許されない監獄のようなものだから。
「両親は離婚していてね。仕事が忙しくて帰りの遅い母親にいじめのことを相談する気にはとてもなれなかった。僕は孤独だった。孤独で、どうしたらこの苦痛から逃れられるのか、誰も教えてくれなかったんだ。朝を迎えるのが嫌で、布団に入ってもあまり寝られなくなった。ある日、母親が寝静まったあとの夜中、僕はこっそり一人で外に出かけた。無意味な現実逃避だった」
夜中の街を、はじめて目にしたときの記憶。
時が止まったみたいに辺りがシンと静まり返っていて、車やら町内放送で音が溢れかえっている朝や昼の街とは、まるで違っていた。遠慮がちな夜虫の音と、涼しい風。暗がりの道々を街灯がぼんやりと照らしているその様は、僕の心を穏やかにさせた。
「僕は夜中の街をあてどなく歩いた。帰りのことなんて気にせず、何の考えもなくたださまよった。気づけば、知らない公園にたどり着いていた。葉のカーテンで覆われた薄暗い公園。その場所はどこか、外界と遮断されているような雰囲気があった」
何かに気づいたのか、カオリがわずかに目を見開く。僕はカオリの方を向きながら、こくんとうなずいて言った。
「カオリ、君とはじめて会ったあの公園だ」
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