3.


 バイトを終えた僕は再び自転車にまたがり、次の目的地へと向かう。駅前から離れた場所にある、二車線道路の交差点沿いに構えた公立の高等学校。自転車に乗ったまま裏手口に入った。

 校舎に入る際、ジャージ姿の生徒集団とすれ違う。部活終わりであろう彼らは、必要以上に大きな声で笑い、高揚した様子で互いを小突き合っていた。僕はなるべく視線を合わさないようにして、彼らを横切った。


 教室に入ると、何人かがすでにまばらな位置で席に座っていた。還暦を越えていそうなおじいさんや、肌の黒い外国籍の方はいるものの、顔ぶれの中心は高校生然とした十代の若者だ。

 入学する前は、夜間学校といえばいかにもな不良生徒ばかり集まっているイメージがあったけど、実態はそうでもなかった。見た目には全日制の生徒たちと変わらぬ少年少女たちが、普通の顔をして夜間部の授業に参加している。彼らはきっと、それぞれの事情で、全日制ではなく夜間部という選択肢をとった。その理由を、僕は一つとして知らない。知ろうとも思わなかった。


 席の指定は特になかったが、一学期の間で暗黙に、それぞれが座る場所は決まっていった。僕はいつものように、窓側の後ろから二番目の席にかばんを置く。

 窓の外に目を向けた。太陽が半身を隠し、薄暗い空が街を覆いはじめている。世界から光が失われていく様そうが、僕を穏やかにさせた。

 湿気が充満した室内は少し息苦しく、僕はマスクをずらしてあごにやった。席に座り、スマホでライブカメラ映像を観ながら授業の開始を待っていると、カシャリ、カメラのシャッター音が少し遠くで鳴った。

 嫌な予感を覚える。

 音の鳴った方に僕が目を向けると、案の定、複数人の男子グループがニヤニヤと、悪意のある顔でこっちを見ていた。その内の一人が、僕にスマホを向けている。

 条件反射で僕は立ち上がり、彼らに近寄った。僕の接近に近づいた彼らの視線が一斉に集まる。

「……消して」

 蚊の鳴くような声で僕が呟くと、スマホを持っている一人が、「はっ?」とわざとらしく大きな声で訊き返してくる。

 どうして反応してしまったんだろうという後悔が、すぐに押し寄せた。写真くらい、勝手に撮らせておけばいいだろう。わざわざ関わることで、彼らの遊びを助長させる結果にしかならないことくらい、わかっているのに。

「何、何ですか?」

「だから……消して。写真、今僕の顔、撮ったでしょ?」

「はぁっ? そんなことしてないんですけど、したとしても、写真撮るくらい何が悪いの?」

「それは」

 醜い顔をネットに晒して、笑い者にするつもりだろう――

 彼らは期待している。僕が、僕自身の口でそれを言うことを。

 人が、自分のコンプレックスを認め、さらけ出す瞬間を。

 僕は無言のまま手を伸ばし、彼の手からスマホを奪取しようと試みた。でも彼はすばやく腕を引いてそれを阻止する。二人の生徒が立ち上がり、僕の腕を掴んで身動きを取れなくした。目の前の彼が、再びスマホのカメラを僕の顔面に向ける。

「高校生活の思い出写真を撮りたいだけっすよ。笑って笑って~、はい、チーズっ」


 もう、どうでもいいや。

 僕は諦めた。彼らとの対話を。

 あらゆることを考えるのが億劫だった。思考を放棄し、ただ思う。

 早く夜の世界に行きたい。

 誰に邪魔されることもない、僕だけの場所へ。


「お前ら、何やってんの?」

 第三者の、聞き覚えのある声が僕の耳を引っ張った。

「あっ、ショウタさん……」

 僕にスマホを向けていた彼が、萎縮したように言う。いつの間にか僕の背後に現れたショウタは、ニヤリと口角を上げているものの、しかしその目はまったく笑っていない。僕の腕を拘束していた二人の生徒が、僕の身からさりげなく手を離した。

「いや、別に、ダイスケさんと楽しく写真撮ってただけで」

「へぇ? ダイスケと? 楽しく写真?」

 気まずそうに目を伏せた彼を見下ろしたまま、ショウタが、いたずらを思いついたような声で言った。

「なぁ、お前さ、チンコでかい?」

「へ?」

「いやだから、自分のチンコに自信あるかって訊いてんの。どう?」

 問われた彼は、恐怖と混乱に満ちた表情をしていた。僕もまた、ショウタの突飛すぎる質問の意図がわからず、押し黙っている。

「いや、まぁ……人よりは大きいと思いますけど」

「ほーん、すげぇなぁ。じゃあちょっと見せてみろよ。写真撮ってやるから」

「はっ? い、今ここでですか? 冗談でしょ?」

「冗談なんか言わねぇよ。ホラ、早く脱げって、なんなら、手伝ってやろうか」

 ショウタの目は相変わらず笑っていない。自分に向けられているわけでもないのに、狂気じみたその表情に少しぞっとした。

 ショウタの手が彼の下半身に伸びる。

「いや、ちょっと、勘弁――」

 すべてを言い終わる前に、ショウタは彼の胸ぐらを両手で掴み、思い切り引っ張り上げた。彼は声なき声を吐き、その顔が一瞬で苦痛に歪む。

 顔面を近づけたショウタが、無表情のまま言った。

「お前らがダイスケに対してやったのは、こういうことなんだよ」

 教室が、シンと静まり返った。

 周囲の生徒たちは、何事かとこちらに目を向けているものの、決して関わり合おうとはしない。もうすぐ先生がやってくるだろう。僕は、事の発端の張本人である身として、収拾をつける責任を感じていた。

「ショウタ、もういいよ」

 無表情のままショウタが、ちらと目線を僕に寄越した。

「ただでさえ遅刻常習で目を付けられてるんだから、暴力沙汰なんて起こしたら、退学になっても文句言えないぞ」

 しばらくじっと僕を見ていたショウタだが、やがてはぁっと露骨な嘆息を吐き、目の前の彼から手を離した。解放された彼はそのまま膝をつき、げほげほと大仰な咳を繰り返す。ショウタはその様を無言で眺めたあと、黙って自分の席に向かった。僕も彼に習う。


「なぁ、腹立たねぇの?」

 席に着いて、ショウタがすぐに口を開いた。

 彼が訊かんとしていることはなんとなくわかったが、僕は反射的に「何が?」、と返していた。

「いや、だからさ」

 憤りを堪えるように、ショウタがボリボリと乱暴に頭を掻く。

「ぶん殴られても文句言えないようなことされて、平気なのかって」

「平気、ではないよ」

 正確には線引きがあった。

 ここまでは大丈夫というラインと、そこからは超えて欲しくないライン。

 遠巻きからじろじろ見られり、嘲笑されたりするのは許容範囲だ。けど、写真を撮られるのにはさすがに看過できなかった。自分の顔がデータとして残り、意図しない場所で他人の所有物になる感覚が、どうにも気持ち悪い。

「僕にだって許せないことはある。ある、けど」

 怒りに心が捉われるより先に、諦めの感情がやってくる。

 無為な交渉にエネルギーを費やすくらいなら、ほとぼりが醒めるのを待った方が早い。僕はいつからか、そんな思考が染みついていた。心に宿した夜中の世界に逃げ込み、外界からの音を遮断する。それが、僕みたいなまともじゃない人間が、朝や昼の世界をやり過ごすための処世だった。

 ――ということを、理路整然と話せればいいんだろうけど、僕は、自分の心をうまく言語化できるほど器用じゃない。考えるのが面倒くさくなって、結局ぶっきらぼうに言った。

「言葉の通じない相手に、何を言っても無駄だから」

 眉間にしわを寄せながら、ショウタが僕から目を逸らした。悔しそうで、寂しそうな表情だった。

「……それでも、口に出さなきゃわかんねーよ」

 それ以上重ねる言葉も見つからず、僕は再びスマホ画面のライブカメラ映像に目を落とした。するとショウタが、同じように画面を覗き込んでくる。

「お前、コレばっかいつも観てるけど、知らない奴らがただ歩いている動画観て、何が楽しいわけ?」

「別に、楽しいから観ているわけじゃない」

「じゃあ何で観てんだよ」

 街が、段々と夜に近づいていく様子を見ると安心するから――何て言ってもやっぱり伝わらないんだろうな、と思う。

「みんなだって、テレビとかYoutubeを、目的をもって観てるってわけでもないでしょ。ただの暇つぶしだよ」

「まぁ確かに、そういうもん、か?」

 微妙に納得してなさそうなショウタが、でもこれ以上詮索することはなかった。

「お、今通った子、すげぇミニ履いてたぞ。スタイル良いし、たぶんモデルだぜ」

「ちょっと、うるさいんだけど」

「あのラーメン屋うまそう。家系かな」

「うるさいってば」

「あ、今おっさんがタン吐いた。きったねぇなぁ」

 ショウタを黙らせるのを諦め、僕はスマホをポケットにしまった。

「なんだよ、止めちゃうのかよ」口をとがらせながら。

「ラーメンの話したら、食いたくなったな。なぁ、授業終わったら食べに行かねぇ?」

「行かない」

「釣れねぇなぁ、金欠か?」

「ラーメン屋は、長く居座ることができないから」

「……はぁ?」

 彼が疑問の先をつづける前に、教室に先生がやってきた。前を向き直ったショウタの背中に向かって、「そうだ」と一言を放る。

「さっきはありがとう、助かった」

 顔だけをこちらに向けたショウタが、面食らったような表情を作る。

「口に出さなきゃ伝わらないんだろ。だから言った」

「やればできるじゃねぇか」

 少し照れたように笑ったショウタの顔は、露骨に嬉しそうだ。

 先生が開口して、授業がはじまる。僕は窓の外に再び目を向けた。暗がりがわずかに増し、街が夜を受け入れはじめていた。

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