4.
授業が終わると、僕は早々に教室を出た。自転車のスタンドを足で蹴ってまたがり、敷地の外へ。
二車線道路の車道の端っこで自転車を走らせ、連続する車のライトが目に忙しない。空はすっかりと暗いけど、街が眠るのはまだ先だ。夜中の世界が訪れるまで、もうちょっと。時計の針をぐるぐると回すイメージで、僕はペダルを漕ぐ。
道路沿いにある、ポール看板がやたらと目立つファーストフード店の前で自転車を止めた。注文を済ませ二階へ上がる。晩飯時から少しずれているからか、人の入りは少ない。駅前から離れた立地にあるため、騒ぐ学生たちの姿も普段からあまり見かけなかった。一人きりで時間を潰すのに適したこの店を、僕は重宝している。
アルバイト、学校、食事。
生命維持活動に必要な日中のタスクはすべてこなし、あとは夜中の到来を待つだけだ。揚げたてのポテトを無造作に指でつまみながら、僕は思考を放棄する。
いっそこの街が、この世界が、ずっと夜中だったらいいのに。
何の音も鳴らない。一切のノイズが存在しない、深淵の世界。
そんな場所でずっと身を漂わせることができたら、どんなに楽だろう。
今、何時かな。スマホを取り出そうとかばんを開けると、底にあるそれがふと目に入った。今朝、戸棚から取り出し持ってきていたキャットフード缶。
頭の中で、昨日の記憶が勝手に流れた。
夜中の公園で、僕に無遠慮に笑いかけてきた彼女の顔。
そして、耳に付けていた大きな星のピアスが。
ファーストフード店に閉店時間まで居座り、店の外に出る。二車線道路に車の往来はあるものの、歩く人の姿はなかった。夜中の足音が、そっと聞こえてくる。僕は顔からマスクを外して、思い切り深呼吸をした。生命が身体の中に入り込んでくる感覚があり、視界が少しクリアになった。
自転車にまたがり、車通りのない住宅路を駆けた。普段はあてどなく巡る道々。でも今日は違った。目的地がはっきりしていた。緩い斜面を滑走すると、いやにスピードが出る。無意識に、いつもより足に力を込めていた。
例の公園の前に着き自転車を止めると、少し息切れした。スタンドを立てる音が響き、すぐに無音が還る。その場所は相変わらず、外界から遮断されたように静かだった。
中に入り、足早に園内をぐるりと回った。聞こえるのは僕の足音、そして、時折流れる風に葉がざわめく音だけ。
その場所には誰もいなかった。昨日のあの子も。
力が抜けた僕はのろのろと歩き、外灯下のベンチに腰をかける。
昨日、あの少女に出会ったのは午前四時過ぎ。けど今はまだ、0時を半刻ほど回ったくらい。もし、あの子が毎夜この公園を訪れているとすれば、時間帯が決まっているのかもしれない。このまま待っていれば、きっと。
――明日も、ここに来るの?
――雨が、降らなかったらね。
約束、と言えるかも怪しいやり取りに、僕は一途の望みをかけている。でも同時に、少し怖かった。
もしやってこなかったら、それを言い訳に、考えるのを放棄することができるから。
「どうしたいんだろう」
心の声がこぼれる。僕は、あの子に会ってどうしたいんだろう。
あの人がしていたピアスを、どうして君が?
――それを訊く勇気を、僕は持ち合わせているのだろうか。夜中の世界に閉じこもり、他者との繋がりから逃げつづけている僕が。
ふいに、にゃあと、のん気な声が足元から一つ。
目を向けると、昨日の猫たちが無邪気な顔で、仲良く僕のことを見上げていた。昨日も思ったけど、彼らはやけに人に慣れている。その顔つきはどこか物欲しそうで、彼らの素直さが僕の心をなだらかにしていく。
「ちょっと待ってて」
かばんからとりだしたキャットフードの缶を開け、そっと地面に置いた。二匹の猫たちが、くんくんと毒見するように匂いを嗅いだあと、すぐに顔をつっこみはじめた。彼らが馳走に夢中になっている様を、ぼんやりと眺めた。すると、
「あっ」
聞き覚えのある、あどけない少女の声がすぐ近くから。
僕は面を上げる。視界に映った彼女の顔が、薄明りにほんのり照らされていた。
「昨日の、親切な人」
にこりと、淡い微笑み。
彼女は昨日と同じくスカジャンを纏い、大きな星のピアスを耳にしていた。
僕は思わず立ち上がる。気が高揚していた。頭が空回り、何かを言いたいのに、言葉が見つからない。そのせいか、
「昨日と、同じ服なんだね」
どうしてかどうしようもなく、そんなバカな台詞が口から出た。自分のバカさ加減に気づいたのも一瞬で、「ああ、いや」すぐにごまかそうと、「良い意味で」余計な一言を足した。
僕の一連の滑稽さに、彼女はポカンとしていた。しかしすぐに口元で手を抑え、堪えきれない様子で笑う。
「良い意味で?」
てらいのないその仕草が、僕の焦燥を一瞬でふきとばす。
呆気に取られ、そのまま黙って彼女を見ていると、彼女は振袖姿を見せびらかすよう、しゃなりと一回転を披露した。
「これ、私のいっちょうらなんです」
自慢げに言って、ふふんと鼻を鳴らす。まるで幼子のそれのよう。僕の意識は彼女の一挙一動に集約されていった。
感じたことのない感情だった。胸がじんわりと熱を持っていて、それでいて、心は凪のように穏やかで。
何より、心地良い。
「あっ」、と高い声をあげた彼女が、キャットフード缶に夢中になっている猫たちに気づき、近づいてしゃがみこむ。頭を撫でながら、柔和に頬を伸ばした。
「にゃん太郎、にゃん次郎」
「この子たち、名前あったんだ」
なんとはなしに言うと、
「いえ、私が勝手につけたんです」
「ああ、そういう」
確かに、適当すぎるセンスだとは思った。自然に頬がたゆむ。
満足そうにぺろりと顔を舐めた猫たちが、のらのらと音もなく歩き出し、園内の暗がりに溶け込んでいった。立ち上がった彼女が、「ばいばい、またね」と寂し気に手を振ったあと、こちらを向く。
「わざわざ餌を持ってきてあげるなんて、親切な人は、やっぱり優しいんですね」
「そういうんじゃ、ないよ」
僕は目を逸らし、はぐらかすように言った。
「余ってて、処分に困っていたからね。ちょうどよかったんだ」
地面をそっと踏みしめる音。彼女が僕に近づく。
「親切な人は――」
「ダイスケ」
僕は再び彼女を見た。丸い二つの瞳が、じぃと僕に向けられている。
「僕の名前、ダイスケっていうんだ。親切な人じゃあ、呼びにくいでしょ」
誰かに名乗る時はいつも、下の名前を言うようにしていた。親の離婚により変わった今の苗字に慣れないって、それだけの理由だ。
「ダイスケ」
下を向いた彼女が、噛みしめるように呟いた。
「ダイスケ、ダイスケ……うん、覚えました。覚えやすくって、いい名前」
「ありがとう。ありふれた名前だから、褒められたのははじめてだ」
「えへへ、人の名前覚えるの苦手だから、助かります」
「ああ、それは僕も」
反射的に言う。
「なんていうか、自己紹介されても、頭の中で名前を漢字に変換できないんだ。音でしか覚えられないから、似たような名前の人がごっちゃになって」
「へぇ、じゃあ例えば、ワタナベさんとワタベさんとか?」
「ああ、それはアウトだね。覚えるのを諦める」
「あはっ、それは私よりひどいかも」
向かい合った僕らが、くすりと同時に漏らす。いつもより饒舌な自分に、ひっそりと驚いていた。
ほんの一瞬だけ躊躇したあと、でも僕は訊いた。
「君の、名前は?」
彼女が、とぼけた表情を作って。
「なんだっけ」
「そんなことある?」
「冗談です」
ふふっと、愉し気に漏らして。
「私の名前は」
ふいに彼女が、あさっての方に目をやった。
僕を見ぬまま、そっと言う。
「……カオリ」
ゆっくりと、こちらに向き直って。
「カオリって言います。私の名前、ダイスケと同じくらい、ありふれているでしょ?」
「カオリ」
その三文字を、ゆっくりと手のひらですくいあげるように、発声する。
「君の名前は、カオリ」
「はい、カオリです」
人の名前を知る。
たったそれだけのことを、僕は深く噛みしめていた。
「教えてくれてありがとう」
言うとカオリは、不思議そうに首を傾けて、
「どう、いたしまして?」
でもすぐに、またにんまりと頬を伸ばす。
「敬語じゃなくてもいい?」
「えっ?」
「苦手なの。自分が使うのも、使われるのも」
そんなことわざわざ、と思いながら、僕は「もちろん」と返した。
「どおりで、アシスタントAIみたいな喋り方をするなと思ってた」
「アハハッ、ひどいなぁ。ダイスケって正直だね」
言いながら、彼女がぴょんっとベンチに腰を落としたので、僕も彼女に習い、一席分離れて隣に座る。
「ごめん、気に障ったかな」
「全然。正直な方が、私は好きだよ」
彼女の声がまっすぐに、僕の耳に届けられる。僕はそれを無防備に、一切の検分を行わずに受け取る。
夜中の世界に、二人。僕はあまりにも自然体だった。
「さっき言いかけたのは、敬語のこと?」
「ううん。ダイスケはこの公園が好きなの? って訊こうとしたの」
「えっ?」
「昨日も来ていたから、お気に入りの場所なのかなって」
「あ、ああ」
腑落ちした僕は前に目をやり、がらんどうの園内を見つめながら、少し悩んだ。
僕がこの公園に通っている理由を、彼女に話していいものだろうか。
ピアスについて訊くなら、今かもしれない。
「……ええと」
だけど結局、僕ははぐらかした。
「そうだね。この公園には、よく来る。散歩のとき、立ち寄ったり」
歯切れの悪い回答を、でもカオリは疑いなく受け取ったようだ。
「そっか。じゃあ、お散歩が好きなんだ」
「散歩が好きっていうか」
次の言葉を言ったあと、僕は遅れて後悔を覚えた。
「僕は、夜が好きなんだ。毎日、夜中の街を自転車で走ってる。目的もなく、ふらふらと」
「へっ?」、と驚いたような声。
カオリの方に視線を戻すと、彼女の表情は一変していた。瞬きを二度ほど鳴らし、信じられないといった表情で、僕を凝視しはじめた。
忘れていた緊張感が、再び僕の全身を瞬時に縛る。
油断していた。
夜が好きなんて発言、普段の僕なら人に絶対しない。ましてや、夜中に街を徘徊しているなんて、絶対言わない。言ったところで、奇異な目で見られるのがわかりきっているから。
それはカオリにも当てはまる。カオリもまた、僕ではないのだから。
僕とは別の個体。彼女だけの心を有する、他人なのだから。
「びっくり、した」
心の揺らぎがそのまま表れたような声音だった。少しだけ声を潜めた彼女が、僕から目を逸らす。その様を見ながら、僕の心が緩やかに冷えていった。
勝手に期待して、勝手に失望して。
自分の愚かさを、僕は少しずつ呪いはじめる。でも、
「私と、おんなじだ」
静寂のさ中。カオリがぽつりと漏らした。
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