2.
僕は寝る時に目覚ましをかけない。朝、起床する必要がないからだ。そもそも、太陽が昇りはじめる時間に僕は布団に入る。いわば昼夜逆転の生活が常だった。
夜以外の時間を、僕は人生と見做していなかった。朝は寝飛ばし、昼の時間は生命の維持活動に充てる。夜中の訪れをじっと待ち、全てが寝静まったころ、僕はぞんぶんに一人きりの夜中を駆ける。
布団を被ったまま、スマートフォンの画面をぼーっと眺めていた。都会の街の様子をリアルタイムで映しているライブカメラ映像。渋谷のスクランブル交差点で、信号が切り替わるたびに人の波がどっと中央になだれこみ、有象無象と化す。日本の人口減少が日々のニュースで取りざたされているけれど、数分置きにやってくる通勤電車に人がすし詰めにされるくらいなら、少しくらい減った方がいいんじゃないのと僕は常々思う。
午後の一時を回ったところで、僕はようやく起き上がる。寝巻きをはぎとって、髭を剃り寝ぐせを直す。生命維持活動の一環であるアルバイトの準備だ。
箱買いしてあるマスクを顔につけるのも忘れない。風邪の予防のためにつけているわけではなかった。マスクは、朝や昼の世界で生きるための鎧だ。他人を入り込ませないための、防御壁。
玄関のドアノブに手をかけたところで、ふと、昨日出会った少女の表情が頭をよぎる。
数秒だけ逡巡した僕は、結局スニーカーを脱いで踵を返し、キッチン下の戸棚を開けた。未開封のキャットフード缶へ手を伸ばし、消費期限を確認する。それをそのままかばんにしまい、再びスニーカーを履いた僕は、今度こそ家を出た。
創業三十年を超える老舗百貨店が僕の職場だった。駅前の雑多にげんなりしながら裏路地に自転車を止める。従業員通用口から百貨店に入り、事務所へ向かった。
事務所の中に入ると、誰かとすれ違った。僕の母親と変わらぬ年齢くらいであろうそのおばさんが、「おはようございます」と仏頂面で言ったので、僕は遠慮がちに会釈を返す。そのままその人を横切ろうとしたところで、「ちょっと」、と呼び止められた。
「挨拶してるんだから、無視してんじゃないわよ」
僕は困惑した。無視したつもりなんてなかったからだ。「えっ?」と動揺をそのまま表に出すと、そのおばさんは露骨な嘆息を漏らした。
「最近じゃあパワハラだのなんのって、口うるさく言われないのかもしれないけどね。あたしらが若い頃は、会社で挨拶一つ忘れただけで小一時間お説教されたものよ」
唐突に雄弁と喋りだしたそのおばさんを前に、僕は、意識が外側へ溶けだしていく感覚を覚えていた。
ああ、ノイズか。
「どうせあんた、自分のことかわいそうとか、不幸だとか、そういう風に思ってるんでしょう。だから、人と関わる必要のない清掃のバイトを選んだんでしょう。でもね、人間関係から逃げていたんじゃあ、ろくな大人にならないわよ」
入ってくる言葉が、ただの音としてしか認識できない。
理屈が理解できないわけじゃない。けれど僕の身体は、目の前のこの人の声を、どうしても受け付けることができなかった。
どうしてこの人は、頼んでもいないのにこんなことを言い出すのだろう。このバイトを選んだ理由を、どうしてこんなに自信満々に断定できるのだろう。
そういう決めつけが嫌だから、マスクで顔を隠しているのに。
お前らが僕の顔をじろじろと見るから、わざわざ隠してやってるのに。
「あんた、聞いてんの?」
目の前のおばさんが眉根を寄せ、僕の顔を覗き込む。僕はたぶん、およそ死んだような目つきでそのおばさんを見下ろしているのだろう。僕の意識は今、現実世界になかった、僕だけの夜中の世界に、身を隠している。
「もういいわ。あんたみたいのが、わけのわからない犯罪を起こすんでしょうね」
おばさんはそう吐き捨て、事務所を出て行った。
身体を再起させるのに、数秒を要した。長くゆっくりと息をする。体にたまった毒ガスを吐き出すように。
再び足を動かし始めた僕は、そのまま更衣室に向かおうとして、
「災難だったな、ダイスケ」
名前を呼ばれ、声の方を向くと、デスクで書類に目を落としているタドコロさんが、こちらを見ぬまま苦笑いを浮かべていた。
「サノさん、最近息子が学校行かなくなったとかで、ピリピリしてんだよ。旦那も我関せずみたいで、俺に愚痴ってきてさ」
「サノさん?」
「いや、さっきお前に文句言ってた人。ダイスケさ、いい加減、仕事仲間の名前くらい憶えろって」
「タドコロさんの名前は知ってますよ」
「社員の俺の名前が憶えてなかったら、さすがに驚くよ」
顔を上げてこちらを見たタドコロさんが、今度ははっきり苦笑していた。
「まぁ、あんまり気にすんな。ああいうのは、誰でもいいから当たりたいだけだからさ」
「はぁ」と、とりあえずの相槌を返した僕は、頭によぎった疑問をそのまま口に出した。
「挨拶って、どうして必要なんですか?」
面食らったようなタドコロさんが、しかし斜め上を見ながら「そうだなぁ」とこぼす。
「面倒なババァに絡まれないためにも、やっぱできた方がいいんじゃないか」
顔に刻まれたしわをいっぱいに伸ばし、タドコロさんが歳不相応な表情で笑う。その返答は、僕が想定していたものから外れていて、けど、やけに腑落ちした。
「そういう、ものですか」
「そういうもんだ。何事も、あんまり真面目に考えすぎる必要ないんだよ」
ぺこりと頭を下げた僕はそのまま事務所を出ようとして、でもタドコロさんが、「俺の娘がさ」、と僕を引き留めた。
「もしお前みたいな男を家に連れてきたら、俺はどうするんだろうな」
あまりにも脈絡もない話に、僕は何も返せず、怪訝な顔を向けるばかりだ。
「やっぱり、挨拶一つできない奴に娘はやらんって、追い出すのかな」
「よくわからないですけど、娘さんいくつなんですか?」
「高二だよ。まだ女子高生」
「だったら、結婚は早いんじゃないですか」
「わかんねぇよ。十六歳は、法律上結婚が許される歳だ」
「それはそうですけど、前提として、僕はタドコロさんの娘さんと結婚する気がないです」
「俺だって、お前にやる気はねぇよ」
何が可笑しいのか、タドコロさんが少し大きな声で笑った。
「俺はダイスケのこと、嫌いじゃないけど、お前は人からそう思われるのに、時間がかかる奴だからさ」
神妙な顔を作って、こちらに向ける。
その視線の先は、僕を見ているようで、何も見ていないようでもあった。返事をすべきなのかもわからず、ただ僕が黙っていると、ハッと表情を直したタドコロさんが、「いや、なんでもない。それよりさ」と口早に言う。
「夜間学校はどうだ? ちゃんと行ってるのか?」
「はい。毎日行ってます。無遅刻無欠席です」
「そいつはえらいな。友達できたのか?」
「……どうだろう」
少し逡巡して。
「やけに話しかけてくる奴は一人だけ。でも、友達になろうってはっきり言われたわけではないので」
「……そう、そっか」と、肯定も否定も思わせないトーンで、タドコロさんが呟いた。
「そいつのこと、無下にしてやるなよ」
にっ、と快活な笑顔を浮かべたところで、「おはようございまーす」と、さっきのおばさんとは別の誰かが中に入ってきた。タドコロさんが、「おう、おはよう」とその人に向けて言う。頃合いだと思った僕は、今度こそ更衣室に向かった。
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