夜中のカオリ

音乃色助

1.


 寝静まった都会の街を、自転車で駆ける。滑走する車輪の音が耳に流れ、それ以外は何も聞こえてこない。その静けさが、この世界には僕一人しか存在しないんじゃないかと錯覚させた。じんわりと汗ばんだ素肌を、風がなぞる感覚が心地良い。草木の湿った匂いも悪くない。夏が秋に、移ろうとしている。

 目線をまっすぐに、真っ暗で何も見えない向こう側を見据える。目的なんてない。夜の世界を駆ける行為そのものが、僕の日常であり、人生だから。

 無限につづく直路で、僕を遮るものは何もなかった。この時間だけが、僕に自由を与えてくれる。

 静寂と、暗闇と、自意識。夜中の街に存在するのはそれだけ。

 だから僕は、夜が好きだった。


 住宅街の歩道路の脇に自転車を止める。相変わらず辺りはしんとしていた。時間を確認しようとスマホ画面に目を落とす。午前四時を回ろうとしていた。

 夜中が終わるまでのわずかな時間、最後に訪れる場所はいつも決まっていた。葉のカーテンで覆われた薄暗い公園。その場所は、外界と遮断されているような雰囲気があった。子どもが駆け回るには充分に広く、ジャングルジムやブランコなどの遊具も充実している。明るい時間には親子連れがこぞって集まるのだろうけど、僕は夜中にしか来たことがない。

 最初に訪れたのは、いつだっけ。確か小学校五年生のころだから、もう八年近く通っていることになる。


 僕はその公園に、ある女性が現れるのを待っていた。

 でも同時に、その人が決してやってこないことも知っている。決してやってこないその人を待つために、ほとんど毎夜、僕はその公園に足を運ぶ。他人から見ればあまりに無益な行為だ。

 その公園を訪れるようになってから、人の姿を見たことは一度もなかった。だから、今日もどうせ同じだろうと、そう思っていた。そう思っていたからこそ、僕の身体は瞬時に緊張を覚えた。

 園内に、人の気配がある。

 僕の目の先に、うずくまっている人影が見えた。そして、

「怖がらないで、こっちにおいで」

 急な声掛けに僕は困惑し、思わず「えっ?」と漏らしてしまう。すると、その人影がビクッと震え、「えっ?」と向こうからも驚いたような声が返ってきた。影がむくりと立ち上がり、その顔がこちらに向かれる。

 暗がりの中、僕たちの視線がぶつかった。

 輪郭が薄ぼんやりとしているが、背丈は僕より少し低いくらい。声のトーンからして、中学生か高校生くらいの女の子のようだった。

 無地の白シャツの上にオーバーサイズのスカジャンを羽織り、下はミニスカートという、気合いの入った格好をしている。長い黒髪を一つ結びにしていて、あらわになった耳には大きな星のピアスを付けていた。


「どうして」

 無意識に漏らす。

 その女の子は、僕が待ち望んでいた女性ではなかった。でも、

 その子がしている大きな星のピアス。それは、あの人が付けていたものと同じだった。

 僕は言葉を失い、押し黙ったまま彼女を見ていた。彼女の方も何も言わず、不安げな顔で僕の目をじっと見つめるばかりだった。

 沈黙のさ中、彼女の足元からにゃあと、のん気な鳴き声が一つ鳴る。

 目を向けてみれば、二匹のそっくりな猫が彼女の足にすり寄っていた。僕は、自らの勘違いに遅れて気づく。彼女のさっきの言葉は僕に宛てたものではなかった。彼女は、あの猫たちに話しかけていたんだ。つまり、彼女からしたら僕は、夜中の公園でいきなり声をかけてきた不審人物以外の何者でもない。


 何か、言わなくちゃ。

 妙な焦りに捉われた僕は思わず、「それ」、と彼女が手に持っている袋を指差して言う。

「にぼし、だよね」

 最初の一言としては、あまりに脈絡がないその発言に、彼女はぽかんと意外そうな顔を見せた。僕は恐る恐るつづける。

「人間が食べるやつは味付けが濃すぎるから、猫は食べられないよ」

 二度ほど瞬きを鳴らした彼女が、僕から目を外し、持っていたにぼしの袋をしげしげと見つめはじめる。

「そうなんだ」

 さきほどまで見せていた不安げな表情を和らげ、再び彼女が僕を見て言った。

「ありがとう、親切な人」

 親切な人、という言いようが少し可笑しく、なんだか肩の力が抜ける。彼女の方も警戒心が薄らいだのか、にこっと屈託ない笑みを浮かべていた。


「親切な人は、猫を飼っているんですか?」

「えっ?」

 まさか、会話がつづくなんて思っていなかった。彼女が更に言う。

「詳しいから、そうなのかなって」

「ああ、ええと」、うろたえが気取られぬよう返す。

「前に、飼っていたんだ。もう死んじゃったけどね」

「えっ、それは」

 表情が萎れ、彼女はばつの悪そうに声を落とした。

「ごめんなさい、悪いことを訊いちゃった」

「いや、ううん」

 僕は慌て、胸の前で両手を振りながら言う。

「全然、全然気にしてないよ、結構前のことだし、全然」

 僕の慌て振りが可笑しかったのか。くすっと漏らした彼女が、再び笑う。あか抜けていない無垢な笑顔だった。


「もしかして、あなたは」

 彼女が何かを言いかけた時、甲高いアラーム音が鳴った。

 何事か。僕が訝しんでいると、目の前の彼女が顔を落とし、腕にしているデジタルウォッチに目をやる。端のボタンを指で押すと、その音が鳴り止んだ。

 再び彼女が僕を見る。今度は少し、寂しそうに目を細めていた。

「もう、帰らなくちゃ」

 彼女がとぼとぼと歩き出し、僕を横切り、公園の入り口へと向かっていく。街灯に照らされ、大きな星のピアスがキラリと光った。

「あの」

 思わず声を投げると、彼女は足を止め、ゆっくりと顔だけこちらに向けた。丸い二つの瞳が、僕の言葉を待っている。

 引き留めたものの、何を言えばいいのかがわからない。正確に言うと、どこまで踏み込んでいいのかわからなかった。

 かつてのあの女性と、目の前の少女を結ぶ関係性。

 そのピアスをしているのが単なる偶然なのか、あるいは。

「明日も、ここに来るの?」

 気づけば、そんなことを訊いていた。ピアスについて、この場で直接触れることをせず、かといって自分の意志を伝えることもしない。あまりに僕らしく消極的なやり方に、我ながら嫌気がした。

 しばらくきょとんとしていた彼女が、煙に巻くように言った。

「雨が、降らなかったらね」

 再び歩き出した彼女が、今度こそ僕の前から姿を消す。鬱蒼とした木々の隙間から、白んだ空が顔を覗かせはじめた。

 緩やかな速度で、心音が僕の内側をどくどくと叩いている。

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